6.1 密偵
パンテラの朝は、穴から始まる。
都市の中心に空いた巨大な竪坑——迷宮への正道である大穴からは、湿った風が絶えず吹き上がっている。地下の匂いだ。土と鉄錆と、獣の毛が焦げたような臭い。それが石畳の広場に広がり、放射状に伸びる大通りへ流れ、朝の露店の湯気と混ざって薄まっていく。
男はその風の吹き溜まりに立って、荷車の音を数えていた。
旅装のくたびれた外套に、底の減った靴。片方の肩だけ荷で下がった歩き方。背は高くも低くもなく、顔は薄い。すれ違った者に「今、誰かとぶつかったか」と尋ねても、たいていは首を傾げる。それが男の商売道具だった。
大穴の縁にはギルドの税関が張り出している。迷宮から上がってきた者は、そこで持ち出し品を申告し、査定札を受け、換金窓口の列に並ぶ。朝の便は混む。三泊四日で戻る短期組と、二週間潜って半死半生で這い上がる長期組が同じ列に並び、片方は退屈で騒ぎ、片方は無言で壁にもたれている。
男は列の後ろへつき、前の男の背負い籠を覗き込んで、感心したように口を開いた。
「そいつ、四層のか。俺、下は三までしか行けねえよ」
「四だよ。運がよかった」
「運ってのは大事だ。俺なんざ、荷運びで食ってる。……この時間、いつもこんなに並ぶのかい」
「日の出から二刻はな。夕方はもっとひでえ」
男は笑い、それから何気なく、鑑定所の名を二つ挙げた。相手は片方を「あそこは高く見積もる」と評し、もう片方については「深いのは扱わねえ」と言った。
——扱わない。つまり、深いものが持ち込まれた記録は残らない。
男は覚えた。書きはしない。人前で帳面を開く情報屋は、二日で顔を覚えられる。
列を出て、次は荷車の出入りだ。税関の脇から北西へ抜ける搬出路は、素材の運搬車が優先で通る。轍の深さと泥の色を見れば、どの門から入ってどこへ回したかがおおよそ知れる。男は道端に腰を下ろし、干した果実を齧りながら、通る車輪の数と、御者の交代を目で追った。
三台目までは正規の札を提げていた。四台目は札があり、五台目にもあった。だが五台目の車輪の泥は、この搬出路の色ではなかった。北東——スラム側の色だ。
男はそれも覚えた。
昼が近づく頃には、換金窓口の職員と天気の話をし、記録官の見習いから「先月から申告書の様式が変わって面倒だ」という愚痴を引き出し、酒場の給仕から前夜の騒ぎの中身を聞いた。質問の順番だけが、旅人にしてはやや正確すぎた。まず相手の不満を聞き、次に他人の不正を嘆かせ、最後に日付と数字だけをそっと拾う。
拾ったものを、宿の粗末な卓で帳面へ移す。
紙の上には、この半年で歩いた土地の名が並んでいる。南方諸国の国境都市、河の港、壁沿いの関所。品目はまるで揃わない。深層産の高額品、魔薬の原料になる草の束、鑑定前の出土品、由来の怪しい武具。送り先も毎回違う。ばらばらだ。誰が見ても別々の事件だと言うだろう。
だが、癖が同じだった。
正規の記録を通らない。運び手には中身を教えず、代わりに不自然なほど厚い口止め料を払う。鑑定人と仲買には、名を残すなという圧がかかる。そして数週間後、関係者のうち何人かが土地から消え、別の都市で同じ偽名を使う運び手が現れる。
荷を隠すのではない。荷に触れた人間の記録と、人間同士のつながりを消している。
男は帳面の余白に、パンテラの二行を書き足した。
ひとつ。数ヶ月前、地下スラムの崩落坑道を使って六層から上げられた小さな木箱。厳重に封をされ、魔法がかけられていたという。運び手は二人。中身は知らされていない。鑑定の記録は、どこにもない。
ふたつ。先日、パンテラ最強と謳われる祭り好きの四人組が十七層から帰還した。市民に披露されたのは大音量の古代仕掛けの箱で、街は三日笑って過ごした。だが搬出の届けには、十人がかりで引き上げられた荷の内訳が合わない箇所がある。港の帳簿と同じ種類の、きれいすぎる欠落だった。
——別の戦利品を、笑い話の陰で通した。
推測にすぎない。二つの件が同じ手配役に直結する保証もない。男が追っているのは品ではなく、共和国へ入り込む流れの癖だった。誰が鑑定し、どの荷車がどの関所を通り、誰が帳面から消えたか。それを並べたとき、無関係に見える線が同じ形に曲がる。
男は蝋燭の芯を短く切り、最初の一件を思い出した。
半年前、河の港で似た欠落を見つけ、荷を追った。荷は見つかった。運び手は既に別人に替わっており、仲買は前の週に病で死んでいた。線は根元で切れ、男の手には何も残らなかった。あのときは荷を追ってしまったのだ。
今度は、人を追う。末端まで、切らずに。
外では、大穴から吹き上がる風がまだ鳴っていた。地下から人と金と品物を吐き出し、この都市はそれを世界中へ配っている。どこにも属さない中立の市場という建前は、隠したい者にとってはこの上なく都合がいい。
男は帳面を閉じ、灯を消した。翌朝には、また別の顔で列に並ぶつもりだった。
地下へ降りるほど、風は温かくなる。
北東の地上スラムから、崩れた階段と梯子を伝って下へ潜っていくと、迷宮からの湿気と人の熱がこもった空気が肌に貼りついてくる。天井は低い。壁のあちこちに掛けられた油皿の灯が、通路の泥壁を橙色に舐め、その下で寝ている者の輪郭を曖昧にしている。
男はそこを歩き慣れた足取りで進んだ。歩き慣れて見せる、というのが正確だ。地下スラムでは、道に迷った顔をしている者から順に値段がつく。
目当ての男は、闇市の外れにある水売りの小屋の前で、木箱を椅子にして座っていた。南方系の顔立ち。小柄で痩せていて、両膝を抱えるように座り、忙しく人の流れを見ている。誰かが通るたびに片手を上げ、名を呼び、通りすがりに二言三言を交わす。その二言三言が、この男の資産だった。
「よお、兄さん見ない顔だ。旅かい、それとも下からの上がり?」
声をかけてきたのは向こうからだった。男は足を止め、外套の肩を軽く払った。
「旅だ。オーレンってんだ。荷の口を利く仕事をしてる。……あんた、センジュだろ」
「うわ、もう名前まで届いてんのか。参ったな、俺そんな有名じゃないよ」
センジュは笑い、木箱の隣を叩いて座れと示した。男は座らず、少し離れた壁に背を預けた。座れば逃げ足が半分になる。センジュはそれを見て、笑顔のまま一度だけ瞬きをした。
「で? 用があって俺のとこまで潜ってきたんだろ?」
「売れる情報を持ってきた」
「おっ。いいねぇ、朝から縁起がいい」
男は、値のつくものから先に出した。それが流儀だった。
河の港の名を挙げる。半年前、そこで荷の枝分かれがあり、扱った仲買が調べの入る前の週に病で死んだ。荷を運んだ男は、その半月後に別の都市で、別の名を使って同じ仕事をしていた。名前だけが替わって、癖は替わっていなかった。
「壁沿いの関所でも同じことがあった。前の月に草を通した運び屋が、名簿からきれいに消えてる。ギルドの記録にも、教団の施療の名簿にも残ってねえ。死んだんじゃなく、消されてんだ。記録が」
センジュの膝の上で、指がひとつ跳ねた。笑顔は動かない。
「怖い話だなあ。で、それ何の値打ちがあるんだよ」
「あんたが今、誰の荷を通してるかは知らねえ。だが、それに触った人間から順に名簿が薄くなる。あんたも仲介人だ。名簿ってのは、あんたのことだよ」
油皿の灯が一度膨らんで、センジュの目の下に短い影を落とした。
「……親切だね」
「親切じゃねえ。売り物だ。だから、こっちも買う」
男は質問を始めた。順番を間違えないよう、慎重に選んだ。
まず、この街の鑑定所の話をした。深いものを扱わない、と自称している一軒の名を挙げ、あそこは実際どうなのかと訊いた。センジュは、あそこは扱わないんじゃなくて札を書かないだけだ、と即答した。切り捨てても困らない情報だ。誰でも知っている、と言い添えるところに、この男の器用さがあった。
次に、荷車の泥の話をした。北西の搬出路を、北東の泥をつけた車が通る理由。センジュは笑って、御者が女に会いに行ってんだよ、と言った。男は笑い、そうかい、と流した。嘘だとわかったが、嘘の置き方を見た。この男は、守るべきものの前でだけ冗談を使う。
三つめ。数ヶ月前、崩落坑道を使って六層から上がってきた小さな木箱について訊いた。厳重に封がされ、魔法がかかっていたという荷だ。
センジュの答えが、そこで初めて半拍遅れた。
「箱なんて毎日上がってくるよ」
「中身は聞いてねえ。俺が知りたいのは、誰が箱の話を最初に持ってきたかだ」
沈黙が入った。地下の沈黙は、上と違って軽い。誰かの咳や水の落ちる音が、すぐに隙間を埋めてしまう。
センジュは膝を抱え直し、それまでよりゆっくり喋った。
「あんたさ。荷を取り戻しに来た口じゃないな」
「ああ」
「荷を追う奴は、値段を訊く。あんた、一度も値段を訊いてない。誰が段取ったか、誰が名前を消したか、そればっかりだ」
男は答えなかった。否定も肯定もしないのが、この場では最も安い返事だった。
「悪いけど、名前は出せない」センジュは両手を軽く広げた。
「俺がケチだからじゃないよ。あんたの話が本当なら、名前を言った次の週に、俺が名簿から消えるってことだろ。俺は死にたくないんだよ、まだ二十代なんだから」
「賢い」
「だろ?」
センジュは笑った。今度の笑いは、いくらか本物に近かった。
そして、指を一本だけ立てた。
「名前はやらない。場所を一個だけやる。それで終わりだ」
「聞く」
「三日後の日暮れ、地上スラムの〈折れ釘〉の水場。あそこの裏に、運び屋の詰所がある。荷が動く日じゃない。銭が動く日だ。……あんたが探してる癖の持ち主が、そこに顔を出すかは知らないよ。でも、そこに来る奴の顔を覚えれば、あんたの言う末端ってのは一本つながる」
男は繰り返した。水場、裏、日暮れ、三日後。声に出さず、目でだけ数えた。
「礼は」
「いらない」センジュは即座に言った。
「貸しにするのはやめとく。あんたに貸しを作ると、いつか取りに来られる気がするんだよ。だから、これはさっきの話と引き換え。等価。互いに何も残ってない。いいだろ?」
「いいさ」
「あとひとつ。俺は今日、あんたに会ってない」
「俺もだ。顔も覚えてねえ」
センジュは声を上げて笑い、木箱から腰を浮かせて、通りかかった水売りに手を振った。もう次の商売に移っている。切り替えの速さが、この男の生存術だった。
男は壁から背を離した。二歩進んで、思い出したように振り返る。
「センジュ。名簿の話は、脅しじゃねえぞ」
「わかってる」
笑顔のまま返ってきた声は、少し掠れていた。男はそれ以上言わず、灯の列の向こうへ歩き出した。
地下から地上へ上がる階段の途中で、男は一度足を止め、外套の内側を確かめた。帳面はまだ開いていない。宿に戻るまでは開かない。
三日後、日暮れ。折れ釘の水場の裏。
荷ではなく、人。今度は末端まで、切らずに追う。
頭上の穴から落ちてくる薄い光の中を、男は肩を片方だけ下げた歩き方で上がっていった。
三日後の日暮れ。折れ釘の水場は、思ったより静かだった。
水場そのものは、地上スラムの共同井戸だ。石を積んだ縁は半分崩れ、水を汲む列は日が落ちる前に途切れる。その裏手、板と布で継いだ小屋が四つ並び、いちばん奥の一軒だけが戸を閉めきらずにいた。中から油の灯と、銭を数える音がしていた。
男は水場の反対側、荷を積んだままの空き車の陰に腰を下ろした。膝の上に破れた麻袋を広げ、繕う真似をした。誰も繕い物をしている男の顔は見ない。それが繕い物の一番の効能だった。
銭が動く日、というセンジュの言い方は正確だった。日暮れから一刻のあいだ、奥の小屋には次々と人が出入りした。男は顔を覚えた。歩幅、履物の減り方、手のどこに力が入るか。名前は誰も名乗らないが、身体は毎回同じことを喋る。
六人めが出て、しばらく間があった。
七人めは、他の六人と入り方が違った。
戸の前で一度だけ足を止め、路地の両端へ目をやってから入った。振り返ったのではない。入る前に、出る道を確かめたのだ。身の丈は男とほとんど変わらない。冒険者らしくがっちりした肩に、使い込んだ長袖と半ズボン。胸と脇腹だけを守る薄いレザープレート。腰のベルトには小袋がいくつも並んでいて、その並び順に迷いがない。すぐ取り出す物が手前、めったに使わない物が後ろ。荷を担ぐ人間の作りではなく、道を選ぶ人間の作りだった。
小屋の中の声は聞こえなかったが、勘定の音の間隔が変わった。数える手が急かされている。
出てきた男は、入ったときより上機嫌だった。井戸の縁に腰かけ、袖をまくって手を洗った。二の腕に、輪の形をした墨が一瞬だけ見えた。故郷の刑印だ。盗みを働いた者の腕に輪を彫る。彫った側は、それで一生見分けがつくと考える。彫られた側は、それで一生袖を下ろすことになる。
男は袋の縫い目に針を刺しながら、その輪の位置と幅を頭に置いた。翌日、大穴の換金窓口で照合するための一点だ。
二日かかった。
換金窓口には、依頼の受注記録と受け取りの控えが残る。名も等級も、金を受け取る以上は書かねばならない。男は記録官の見習いに、二の腕の刑印について世間話をした。あれは珍しいのか、この街にもいるのか、と。見習いは得意げに、去年から今年で三人見た、と言った。三人のうち二人は素材の売り買いにしか来ない。残る一人だけが、迷宮の帰りに毎回、二人分の換金をしている。
ヴァルター。
名前は、思っていたより簡単に落ちてきた。
もう一人分の控えを見る術はなかった。だから男は、換金窓口の列に並ぶ人間の並び方を見ることにした。
ヴァルターは、金の話になると右手の指で卓を三度叩いた。
三度目で必ず値を言う。強欲だが、いい強欲だった。金を惜しむ者は嘘をつくが、金を稼ぐ者は約束を守る。仲間の分の換金を代わりにやり、上納の割合を職員と笑いながら値切り、そのあいだ一度も背中を壁から離さない。シーカーだ。悪い噂の立たない類の、腕のいい生き残り屋だ。
問題は、その連れだった。
似ている。それも、恐ろしいほどに。
だが、それで終わらせるべき種類の考えだった。似た顔になら、この街を歩けば何度でも行き当たる。男は自分にそう言い聞かせ、いつもの勘定のやり方へ意識を引き戻した。身の丈は高い。肩幅もある。それだけの体を持っていながら、立ち方でそれを全部台無しにしていた。背は丸く、首は前に落ち、膝はいつも半分抜けている。目つきは焦点が甘く、話しかけられてから返事までに一拍余る。長袖を季節に関係なく着て、手首まで布で覆っている。
周りの冒険者は、その男を見ないという形で見ていた。肩をぶつけても謝らない。順番を抜かす。名を呼ぶときは笑いを含める。冴えない薬中の役立たず、という値札が、この街ではもう剥がれないほど貼り付いている。
——薬が切れかかると、左肩がわずかに落ちる。
——歩幅が乱れるのは足からではなく、呼吸から。息が浅くなる順に、踵の音が二拍だけ揃わなくなる。
——人混みの中で苛立つと、まず音のほうを見る。荷車の車軸、割れた皿、子どもの叫び。危険のない音から順に確かめて、確かめ終わってから舌打ちをする。
——酒場の卓では、いつも入口と、入口ではない出口の両方が見える席に座る。座り方は投げやりだが、席の選び方は投げやりではない。
三日目、換金の列で背中が伸びたのを見た。ほんの一瞬、二人の男が揉めて片方が刃に手をかけたときだけだ。猫背が消えて、肩の高さが揃い、首が起きた。それは疲れた冒険者の反射ではなく、間合いを測る人間の姿勢だった。揉め事が収まると、連れはまた背を丸め、あくびをして、指の腹で鼻の下をこすった。
男の掌が汗ばんだ。帳面は宿でしか開かないから、その日は文字にしなかった。




