第3話 スラト、話し出す
その日は、なんの前触れもなく訪れた。
いつものように魔力を分け与えていると、スラトが体を震わせながら、聞き覚えのない音を発した。
「……ぬ」
「……今、なんか言ったか?」
聞き間違いかと思い、俺はスラトに顔を近づけた。スラトは、もう一度、確かめるように体を震わせる。
「ぬ……し」
「ぬし。……もしかして、主人の『ぬし』か?」
スラトが、勢いよく跳ねた。正解、と言わんばかりの反応だった。俺は思わず声を上げた。
「お前、本当に喋れるようになったのか!?」
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驚きが収まらないまま、俺はスラトの状態を鑑定してみた。
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【鑑定】
種族:スライム
個体ランク:F(↑↑)
攻撃:9 防御:11 素早さ:6
特殊傾向:言語理解(発現)
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言語理解、という項目が新たに増えている。迷宮の知識が、断片的に頭へ流れ込んできた。誕生時に注いだ魔力の量、そして最初の個体であるという特別な立ち位置――その二つが重なった時、ごく稀に、スライムであっても人語を解する個体が現れることがあるという。
「そんな特典まであるのか、この世界」
半信半疑のまま、俺はスラトに向かって話しかけてみた。
「スラト、俺の言葉、分かるか」
「ぬし……わかる。すこし」
たどたどしい、それでいて確かな言葉だった。俺は思わず両手を上げて喜びそうになったが、寸前で堪えた。相手はスライムだ。あまり大げさに騒ぐと、驚かせてしまうかもしれない。
「そうか。……いや、普通にすごいことだと思うぞ、これ、本当に」
結局、堪えきれずに声が弾んだ。
考えてみれば、この迷宮に来てからというもの、俺はずっと一人で喋り続けていた。独り言に応えてくれる相手すらいなかった。それが今、たった一言でも、言葉を返してくれる存在がいる。それだけで、迷宮の薄暗さが、少しだけ明るく感じられた。
「ちなみに、俺の名前は分かるか?」
「ぬし」
「いや、それは呼び方な。名前」
「ぬし、なまえ、ないの?」
「あるはずなんだけどな……思い出せないんだよ、これが、なぜか」
スラトが、不思議そうに小さく首を傾げるように体を揺らした。名前を思い出せない主人、という状況は、スライムから見てもいささか奇妙に映るらしい。
「じゃあ、ぬしは、もう、ぬしでいい」
「身も蓋もないな、おい、まったく」
それでも、悪くない響きだった。前世の名前も、素性も、思い出せないなら仕方がない。今はただ、この迷宮の「ぬし」として歩き出せばいい。
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それから数日、スラトの言葉は目に見えて上達していった。最初は単語一つを絞り出すのがやっとだったが、じきに短い文を紡げるようになり、俺の軽口にも、ぎこちないながら言葉で応じるようになった。
「ぬし、それ、へた」
「おい、俺の集客プランに文句あるのか」
「へた」
「手厳しいな、お前」
軽口の応酬ができる相手が増えたことに、俺は素直に浮かれていた。前世の記憶は曖昧なままだが、誰かと軽口を叩き合う感覚だけは、妙に馴染みがいい。
アズも、スラトほど流暢ではないものの、簡単な単語なら少しずつ理解し始めているようだった。まとめ役気質のスラトが、何くれとなくアズの面倒を見る様子は、姉妹のようにも見える。
「お前ら、本当に仲良いよな」
「ぬし、いま、ひまか」
「ひまじゃない。集客を考えてるんだよ、集客を。大事なことだぞ」
「ひまそう」
容赦のない指摘に、俺は返す言葉に詰まった。
実際のところ、集客の計画は遅々として進んでいなかった。迷宮ポイントは少しずつ貯まっているものの、看板を出すにも、噂を広めるにも、この場所からでは限界がある。前世の知識にあった「マーケティング」という言葉が、今更ながら重くのしかかってくる。
「まずは、誰か一人でいいから、来てもらわないとどうにもならないんだよな」
「ぬし、まちにいけば?」
「行けるなら行きたいけどな。俺、この迷宮から離れられないっぽいんだよ」
試しに入り口の外へ出ようとしてみたことがあった。だが、一定の距離を超えた途端、体が鉛のように重くなり、それ以上は一歩も動けなくなった。迷宮主という存在は、迷宮そのものと不可分らしい。
「不便な体質だよな、まったく」
愚痴をこぼしても、状況は変わらない。今は、迷宮の中でできることを、地道に積み上げていくしかなかった。
外に出られないという制約は、確かに不便だった。だが、見方を変えれば、この迷宮という一つの場所に、とことん向き合う理由にもなる。腐らずにやっていくしかない、と俺は自分に言い聞かせた。
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そんなある日、迷宮の入り口付近から、これまでにない気配が近づいてきた。
人ではない。だが、獣とも違う、迷宮の魔物特有の気配だった。俺は迷宮の感覚を通じて、その正体を探る。
ゴブリンだった。それも、傷だらけの、ひどく弱った個体だ。群れからはぐれ、森を彷徨った末に、この誰にも見向きもされない迷宮へと逃げ込んできたらしい。
「ぬし、あれ」
「ああ、見えてる」
スラトが警戒するように身を寄せてきた。ゴブリンは、迷宮の入り口でうずくまり、荒い息を繰り返している。今にも力尽きそうな様子だった。
ゴブリンの息遣いは荒く、今にも倒れそうな様子だった。敵意を向けてくる気配はなく、ただ助けを求めるように、迷宮の奥を見つめている。
「敵、として扱うべきなんだろうけどな」
迷宮の知識では、モンスターの侵入は基本的に迎撃対象になる。だが、目の前で行き倒れかけている相手を、それだけの理由で見捨てる気にはなれなかった。
「ぬし、たおす?」
スラトが、静かに尋ねてきた。責めるような色はなく、ただ純粋に選択肢を確認しているだけの声色だった。
「いや……あの状態の相手を叩いて、何か得るものがあるとも思えないしな」
迷宮ポイントの観点で見ても、瀕死の相手を無理に討伐したところで、大した得点にはならないだろう。それに、前世の記憶に残る「人材」という言葉が、頭の片隅をよぎった。敵か味方か、決めるのはまだ早い。
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「悪いようにはしない。少し休んでいけ」
声をかけると、ゴブリンはびくりと体を震わせた。警戒しているのが分かる。それでも、力尽きかけた体には、逃げる余力も残っていないようだった。
俺は迷宮ポイントを使い、傷を癒す効果のある簡単な魔力を編み出し、そっとゴブリンに近づけた。ゴブリンは一瞬身構えたが、やがて観念したように、その魔力を受け入れた。
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【迷宮ポイント消費】
治癒用魔力:2pt消費
残高:11pt→9pt
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決して安い出費ではない。だが、ここで出し惜しみをして手遅れになる方が、よほど惜しい気がした。数字だけを見れば非効率かもしれないが、この手の投資は、目先の損得だけで測るものでもないだろう。
「ぬし、やさしい」
「やさしいっていうか……単に、放っておけない性分なだけだよ」
スラトの言葉に、俺は苦笑しながら答えた。
ゴブリンの息が、少しずつ落ち着いていく。傷も、ゆっくりとだが塞がり始めていた。まだ油断はできないが、峠は越えたようだった。
「お前、名前は?」
ゴブリンは答えなかった。当然だろう。だが、こちらを見る目には、先ほどまでの怯えとは違う、何か別の色が浮かび始めていた。
鑑定を試みると、ぼんやりとした情報が浮かび上がった。
```
【鑑定】
種族:ゴブリン
個体ランク:F(消耗)
攻撃:6 防御:5 素早さ:8
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群れからはぐれた個体特有の、痛々しいほど低い数値だった。本来ならもう少し高い数値が出るはずの種族だが、長い逃避行で相当に消耗しているらしい。
「まあ、いい。おいおい決めよう、名前は」
スラトが、興味津々といった様子でゴブリンに近づいていく。ゴブリンは一瞬身を強張らせたが、スラトが敵意のないことを察したのか、やがて警戒を緩めた。
種族の違う二体が、こうして自然と距離を縮めていく様子は、見ていて不思議と心が和んだ。この迷宮には、種族も出自も関係なく、誰もが居場所を見つけられる。そんな空気が、既に芽生え始めているのかもしれなかった。
「なかよく、できそう?」
「さあな。でも、少なくとも今は、敵対する理由がない」
鑑定を通じて伝わってくるゴブリンの状態は、まだ本調子には程遠かった。長い逃避行の疲労が、骨の髄まで染み付いているようだった。しばらくは、無理をさせずに見守るのが良さそうだった。
俺はそう言って、ゴブリンの傍らに腰を下ろした。休むにしても、誰かがそばにいた方が、多少は安心できるだろう。理屈というより、ただの直感だったが、悪くない判断だという確信があった。
誰にも見向きもされなかった迷宮に、また一つ、新しい命が転がり込んできた。




