第2話 最初の分裂
水たまりのそばで震えていた魔力の塊は、一晩かけてゆっくりと形を整えていった。
朝――と呼んでいいのか分からないが、迷宮内の時間感覚で一区切りついた頃、そこには小さなスライムが座っていた。透き通った青緑色の体表が、迷宮の淡い光をぬめりと反射している。
「お、生まれたか」
思わず声が弾んだ。醜くもなければ恐ろしくもない、素朴で愛嬌のある姿だった。スライムは、しばらくその場でふるふると震えていたが、やがてぴょこんと一度跳ねてみせた。
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【鑑定】
種族:スライム
個体ランク:F
攻撃:3 防御:4 素早さ:2
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「よろしくな。お前が、この迷宮の一人目だ」
誰に聞かせるでもない言葉に、スライムはふるん、と震えて応えた。言葉は通じていないはずなのに、なぜか通じ合っている気がする。都合のいい思い込みかもしれないが、それならそれで悪くない。
最初の一体をどう扱うかは、これから先の方針を占う意味でも重要だった。丁寧に、根気強く。それが、俺なりの答えだった。
俺はしゃがみ込み、スライムの様子をしばらく観察した。表面は思っていたよりずっと弾力があり、押すとゆっくりと形を戻す。体温らしきものはないが、触れるとほのかに魔力の温もりを感じる、不思議な質感だった。
迷宮の感覚を通じて、スライムの状態がぼんやりと伝わってくる。栄養――というより魔力が不足気味らしい。何か与えられるものはないかと考えて、俺は迷宮の壁に滲む魔力の残滓に目をつけた。
「まずは飯からだな」
壁を撫でるようにして魔力を集め、スライムの前に差し出す。スライムは戸惑うように少し身を引いたが、やがておそるおそる触れ、するりと吸収していった。ぷるん、と一際大きく震える。気のせいでなければ、心なしか嬉しそうに見えた。
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名前くらいはつけてやろう、と思い立った。深く考えたわけではない。とっさに浮かんだ響きが、そのまま口をついて出た。
「スラト、でどうだ」
我ながら、大した由来もないただの響きだった。だが、こういうのは案外、勢いが大事だ。深く悩んで決めたところで、結局しっくりくるかどうかは別の話だろう。
スラトは、応えるように体を弾ませた。気に入ったのか、単に反射なのかは分からないが、悪くない反応だった。
それから数日――いや、迷宮内の感覚では数刻だったのかもしれない――俺はスラトの世話を焼くことに専念した。餌になりそうな魔力の残滓を集めては与え、様子を観察し、記録をつける。前世の記憶にあった「進捗管理」の発想が、思わぬところで役に立っていた。
最初のうちは、どれくらいの間隔で魔力を与えればいいのかも分からず、手探りだった。与えすぎればスラトの動きが妙に鈍くなり、間隔を空けすぎれば、体表の色がわずかに濁って見える。何度か試すうちに、ちょうどいい頻度が感覚として掴めてきた。
こうした地道な観察を、俺は簡単な記録として頭の中に整理していった。前世の記憶に残る「PDCA」という言葉が、こんな場所で役立つとは思ってもみなかった。計画を立て、試し、確認し、次に活かす。相手が人間の部下ではなくスライムだという点を除けば、やっていることは驚くほど似通っていた。
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【鑑定】
種族:スライム
個体ランク:F(↑)
攻撃:5 防御:7 素早さ:3
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「伸びてるな」
数値が上がるたびに、スラトの体表の色も心なしか濃くなっていく気がした。地味な作業の繰り返しだったが、数字が伸びていく様を見るのは、素直に楽しかった。前世でどんな仕事をしていたのかは思い出せないが、こういう手応えに飢えていたのかもしれない。
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ある日、スラトの様子が急に変わった。
いつもより大きく体を膨らませたかと思うと、ぷるぷると小刻みに震え始めたのだ。心配になって近づこうとした瞬間、スラトの体の一部が、ぽとりと分離した。
「うわ、大丈夫か、それ!?」
慌てて駆け寄る。だが、分離した塊は、苦しむ様子もなく、むしろ嬉しそうに――そんな表情はないはずなのに、そう見えた――小さく震えていた。スラト本体も、心配していたこちらが拍子抜けするほど平然としている。
どうやら、これは事故でもトラブルでもないらしい。迷宮の知識が、少し遅れて頭の中に流れ込んできた。スライム系統の個体が一定のランクに達すると、自らの意思で――あるいは半ば本能的に――体の一部を分け与え、新たな個体を生み出すことがあるという。人間で言えば、独り立ちする我が子を送り出すようなものなのかもしれない。
「そうか、悪いことじゃないんだな」
胸を撫で下ろしつつ、俺はあらためて分離した塊を観察した。まだ形も定まらず、ふにゃふにゃと不安定に揺れている。それでも、確かに一つの命として、そこに存在していた。
スラト本体を見ると、心なしか体表の色が薄くなっているように見えた。分裂には、それなりの魔力を消費するものらしい。
「大丈夫か、スラト。無理してないか」
スラトは、大丈夫だとでも言うように、力強く体を弾ませた。それでも念のため、俺は魔力を追加で分け与えることにした。
しばらくすると、その塊は独立した一体のスライムへと姿を変えた。スラトより一回り小さく、体色もほんの少し違う、淡い水色をしている。
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【鑑定】
種族:スライム(分裂個体)
個体ランク:F
攻撃:3 防御:4 素早さ:2
特殊傾向:擬態(発現途上)
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「分裂……そういう繁殖の仕方もあるのか、面白いな」
迷宮の知識が、ぼんやりと頭に流れ込んでくる。スライム系統は、一定以上の個体ランクに達すると、自身の一部を分けて子スライムを生み出すことがあるという。魔力や餌の状況によって、子スライムはそれぞれ異なる特性を発現していくらしい。
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新しく生まれた子スライムに、俺はまた適当な名前をつけた。
「お前は……アズ、でいいか」
アズは、周囲の水たまりの色に合わせるように、体表をわずかに変化させてみせた。まだ拙いが、擬態の兆しは確かにあった。スラトが、そんなアズを見守るように寄り添う。まるで面倒見の良い姉のような佇まいだった。
二体が並ぶ様子を見ていると、既に何らかの絆が芽生えているように見えた。血の繋がりというものが、この世界の魔物にもあるのだとすれば、それはきっとこういう形なのだろう。
「まとめ役、って感じだな、お前は」
スラトは、応えるようにゆっくりと体を上下させた。二体を並べて眺めていると、不思議な満足感が込み上げてくる。前世の記憶にあった「チームが一人増えた日」の高揚感に、どこか似ていた。
アズは最初のうちこそぎこちなく動いていたが、時間が経つにつれ、少しずつ周囲の環境に馴染んでいった。水たまりのそばに寄ると、体表がわずかに透けて水面と同化するような素振りを見せる。まだ拙いが、確かな兆しだった。
「その調子で、隠れるのが得意になっていくのか」
鑑定を重ねるたびに、アズの「擬態」の項目にわずかな変化が現れた。派手さはないが、着実な伸びだった。俺はその変化を、簡単な記録として頭の中に書き留めていった。
迷宮ポイントの残高も、わずかながら増えていた。
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【迷宮ステータス】
名称:(未設定)
ランク:F
迷宮ポイント:9
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冒険者は相変わらず誰も来ないが、迷宮内でスラトたちが動き回るだけでも、ほんの少しずつポイントが積み上がっているらしい。生きているだけで資源になる、というのもなかなか奇妙な仕組みだった。
「これなら、いずれ二体目、三体目も狙えるか」
欲を出しかけて、俺は苦笑した。焦る必要はない。まずは目の前の二体に、きちんと向き合うことが先決だ。
夜――と呼べるほどの区切りがあるのかも怪しいが――俺は迷宮の隅に腰を下ろし、スラトとアズの様子を眺めた。二体は寄り添うように並び、時折ふるふると震え合っている。会話をしているようには見えないが、何かしらのやり取りがあるのかもしれない。
「お前ら、仲良いんだな」
声をかけると、スラトがぴょこんと跳ねた。アズも、遅れて控えめに体を弾ませる。その様子を見ていると、自然と頬が緩んだ。
「派手さはないが、着実ではあるな、うん」
二体のスライムが、迷宮の隅でぷるぷると寄り添う様子を眺めながら、俺は小さく息をついた。前途はまだ、途方もなく長い。誰も見向きもしない最弱ランクの迷宮が、いつか誰かの目に留まる日が来るのかどうかも、今はまだ分からない。それでも、確かに何かが始まっていた。
明日は、また新しい発見があるだろうか。そんなことを考えながら、俺は静かに目を閉じた。焦らず、一歩ずつ。それが、今の俺にできる、唯一のやり方だった。




