暴かれた狂気と逃避行の誓い――熟れ切った希望の果実 うだるような暑さが続く、高校二年生の夏休み。
暴かれた狂気と逃避行の誓い――熟れ切った希望の果実
うだるような暑さが続く、高校二年生の夏休み。
浅田有希子にとって、このひと夏は16年間の人生で最も色鮮やかで、息が詰まるほど幸福な時間だった。
「お母様、今日は図書館で夏休みの課題を終わらせてきますわ」
「ええ、気をつけてね。あまり遅くならないように」
両親の目を盗み、有希子は瀬尾蓮との逢瀬を重ねた。
涼しい映画館でのデート、少し遠出して足を伸ばした水族館、縁日でこっそり食べた綿飴の味。蓮と過ごす時間は、有希子がこれまで教え込まれてきた「泥水のような外界」とはまるで違う、温かくてキラキラと輝く宝石箱のようだった。
(お父様たちには申し訳ないけれど……私、今、すっごく幸せだわ)
有希子は胸元に着けたパールのブローチを無意識に撫でながら、微笑みを深めた。
自分が両親の監視の目をかいくぐり、完璧な嘘をつき通せていると信じて疑わなかった。
そのブローチの奥に仕込まれた超小型レンズが、彼女の幸福な瞬間をすべて「極上のエンターテインメント」として、狂った富豪のモニターへ生配信していることなど、知る由もなかった。
* * *
8月も終わりに近づいた、ある日の夕暮れ。
二人が郊外の大きな公園を散歩していると、突然の夕立がアスファルトを激しく叩き始めた。
「うわ、急に降ってきた! 有希子ちゃん、あそこの東屋に走ろう!」
「は、はいっ!」
蓮に手を引かれ、有希子は雨宿りのために屋根のあるベンチへと駆け込んだ。
幸い、有希子の白いサマードレスはそれほど濡れずに済んだが、蓮のTシャツは肩のあたりが雨で色を変えていた。
「濡れちゃったね。風邪ひかないように拭きなよ」
蓮が鞄から清潔なタオルを取り出し、有希子の肩口の水滴を優しく拭ってくれた。
その時だった。
蓮の手が、有希子の背中から脇腹にかけて触れた瞬間、ピタリと止まった。
「……え?」
蓮は怪訝な顔をして、もう一度、有希子の背中に軽く触れた。
服の下にあるはずの、柔らかい肉の感触がない。代わりに、まるでプラスチックか金属の板のような、不自然に固くて冷たい構造物が有希子の肋骨から胸元にかけてを覆っているのがわかった。
「有希子ちゃん……服の下、これ、何着てるの……? まるで鎧みたいに固いけど」
「あっ……!」
有希子は弾かれたように体を引いた。
顔が真っ赤になり、恥ずかしさと動揺で言葉が詰まる。
「そ、それは……姿勢を矯正するための、特別な下着で……」
「下着? こんなガチガチに固められたものを、こんな暑い夏の日にも着けてるの? 息苦しくないのか?」
「……おじさまが、私が綺麗なレディになれるようにって、海外から特注で買ってくださったものだから……。私、寝る時以外はずっと着けていなくちゃいけなくて……」
有希子が言い訳をするように早口でまくし立てると、蓮の顔からスッと血の気が引いた。
「おじさんって……あの、君の家に頻繁に出入りしてるっていう、親戚のおじさん?」
「はい」
「……異常だよ」
蓮の低い声に、有希子はビクリと肩をすくめた。
「前からずっと思ってた。スマホを持たせないのも、友達と遊ばせないのも、異常なくらいの門限も。でも、親戚のおじさんが高校生の女の子に『特注の矯正下着』を買い与えて、それを親が四六時中強制して着せているなんて……絶対に狂ってる」
「先輩、そんなこと……!」
「有希子!」
蓮は両手で有希子の肩を強く掴み、真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んだ。
「君の両親は、君を守ってるんじゃない。君を、自分たちの思い通りに動く『人形』か『ペット』として飼育してるだけだ。君が何も知らないのをいいことに、君の自由も、心も、全部縛り付けてるんだよ!」
その言葉は、有希子の心の一番脆い部分を容赦なく打ち砕いた。
有希子の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「私だって……私だって、本当は苦しい……っ。この下着も息が詰まるし、みんなが持っているスマホも欲しい。先輩ともっと自由に会いたい……! でも、お父様たちに嫌われたら、私、生きていけない……っ」
泣き崩れる有希子を、蓮は強く、痛いほど強く抱きしめた。
有希子の顔が蓮の胸に押し付けられる。分厚い胸板と、彼からする雨と汗の混じった、生きている人間の匂い。それは、有希子の知る「無菌室」には決して存在しない、力強い生命の匂いだった。
「嫌われたっていい。俺が、有希子を守るから」
蓮の力強い声が、雨音を切り裂いて有希子の耳に届いた。
「俺、来年の春には卒業して、就職する。お金を貯めて、ちゃんと自分の力で生活できるようになる。……そしたら、一緒に逃げよう」
「え……?」
「君を、あんな狂った家から連れ出してやる。誰も君を縛らない、俺と君だけの世界で一緒に生きよう。……俺と一緒に、逃げてくれるか?」
それは、有希子にとって夢のような「希望の頂点」だった。
泥水だと思い込まされていた世界に、自分を全身全霊で愛し、救い出してくれる白馬の騎士が現れたのだ。
「はい……っ、はいっ! 先輩と一緒なら、私、どこへでも行きます……!」
有希子は蓮の背中に腕を回し、力いっぱい抱きしめ返した。
その時、有希子の胸元に着けられたパールのブローチが、蓮の胸に当たってゴツンと音を立てた。
有希子はふと、自分と蓮の間にある「冷たい金属」が疎ましくなった。
「先輩……待って。これ……」
有希子は震える手でブローチを外し、レンズが下を向くようにして、隣のベンチの上にコトリと置いた。
「おじさまからもらったお守りだけど……今は、先輩の温かさを、ちゃんと感じたいから」
そう言って、有希子は再び蓮の胸に飛び込んだ。
雨音に紛れて、二人の甘い誓いの言葉と、互いの温もりを確かめ合うような衣擦れの音が響く。
この瞬間、有希子の心の中から、両親や神宮寺への依存は完全に消え去り、瀬尾蓮という一人の青年への愛と希望で満ち溢れていた。
* * *
「――ブラーヴォ。スタンディングオベーションだ」
薄暗いモニタールームの中で、神宮寺善三は一人、立ち上がってゆっくりと拍手を送っていた。
壁掛けモニターの映像は、有希子がブローチを外してベンチに置いたため、茶色い木目しか映っていない。しかし、ブローチに内蔵された高性能マイクは、雨音に混じる二人の「逃避行の誓い」を、寸分の狂いもなく拾い上げていた。
『先輩と一緒なら、私、どこへでも行きます……!』
有希子のその言葉を聞いた瞬間、神宮寺の全身の血が歓喜で沸騰した。
純白だったキャンバスが、「外の世界の男」という絵の具で鮮やかに塗り潰された。彼女は今、自分の人生が完全に救われたと確信し、幸福の絶頂にいるのだ。
「浅田くん」
神宮寺が声をかけると、背後の暗がりから泰造が無表情で進み出た。
泰造の目には、実の娘が別の男に心を奪われたことへの怒りすらなく、ただスポンサーの指示を待つ冷徹なビジネスマンの光しかなかった。
「極上のスパイスが、見事に完成した。有希子の心の中で、希望の風船がこれ以上ないほどパンパンに膨れ上がっている」
神宮寺は、ひび割れた笑みを浮かべながら、手元のタブレット端末を泰造に放り投げた。
「針を刺そう。……瀬尾の小僧を、文字通り『社会のゴミ』にしろ」
「承知いたしました。では、今夜決行します」
「ああ。徹底的にやれ。父親の会社を不渡りで倒産させ、一家の財産をすべて差し押さえろ。あの小僧から、進学の夢も、就職の希望も、有希子を迎えに行く力も、すべて根こそぎ奪い取ってやれ。……有希子という希望の果実に群がった害虫には、それに相応しい地獄を見せてやらねばな」
「かしこまりました。月曜日には、瀬尾蓮はこの世のどこにも居場所がなくなっているでしょう」
泰造は一礼し、冷酷に命令を下すために部屋を出て行った。
残された神宮寺は、マイクから聞こえる有希子の弾むような笑い声を聴きながら、ワイングラスを傾けた。
「さあ、有希子ちゃん。君の白馬の騎士は、もうすぐ死骸に変わる。君が絶望の淵で泣き叫び、再び私が用意した鳥籠の中に這って戻ってくるのを……私は両手を広げて待っているよ」
* * *
そして、9月。
新学期が始まり、蝉の鳴き声が秋の虫の音に変わり始めた頃。
有希子は、胸の奥に蓮との秘密の約束を抱きしめながら、足取り軽く図書室のカウンターに向かった。
しかし。
その日も、次の日も、一週間が経っても。
瀬尾蓮が図書室に姿を現すことは、二度となかった。
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