初めてのデートと見えない鎖――希望という名の極上スパイス
初めてのデートと見えない鎖――希望という名の極上スパイス
土曜日の朝。
浅田家の広大なエントランスで、有希子は鏡の前に立ち、弾む胸の鼓動を必死に抑えていた。
「有希子。今日のドレス、とてもよく似合っているわ」
背後から、母親の恵美子が優しく声をかけた。
有希子が身に纏っているのは、上質なシルクで仕立てられた純白のワンピースだ。膝下まで隠れる清楚な丈で、胸元はしっかりと詰まっている。もちろん、その下には神宮寺から贈られた「特注のコルセット下着」が有希子の胸を平坦に締め付けていたが、今日の有希子にとって、その息苦しさすらも気にならないほど心が軽かった。
「ありがとうございます、お母様。あの……本当に、一人で出かけてもよろしいのですか?」
「ええ。おじさまが仰った通り、あなたももう高校生だもの。図書室で借りた本を、外のカフェで読むくらいの自由はあってもいいわよね」
恵美子は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、有希子の胸元に、一粒のパールがあしらわれたアンティーク調のブローチをそっと着けた。
「これは、おじさまからのプレゼントよ。『悪い虫がつかないように』って、特別なお守りなんですって。絶対に外しては駄目よ」
「はい! おじさまに、後でお礼をお伝えしなくちゃ」
有希子はブローチを愛おしそうに撫で、両親に見送られて家を出た。
重厚な門扉が閉まり、有希子の足音が遠ざかっていく。
その背中が見えなくなった瞬間、恵美子の顔から「優しい母親」の仮面がスルリと剥がれ落ちた。
「……行ったわね」
「ああ。愚かな娘だ。自分がどこへ向かっているのかも知らずに」
隣に立つ泰造が、冷笑を浮かべながらタブレット端末を起動する。
画面には、先ほど有希子の胸元に着けられたブローチからの「高画質のリアルタイム映像」と「音声」が鮮明に映し出されていた。
有希子に与えられた『自由』。それは、GPSと小型カメラによって完全に監視された、巨大な鳥籠の中での短い散歩に過ぎなかったのである。
* * *
待ち合わせ場所の駅前広場で、有希子は瀬尾蓮の姿を見つけ、パッと顔を輝かせた。
「蓮先輩!」
「有希子ちゃん! ……うわ、私服姿、初めて見た。すっごく……綺麗だね」
蓮は少し頬を赤らめ、照れくさそうに頭を掻いた。
有希子もまた、制服ではない蓮のラフな私服姿に胸を高鳴らせる。
二人は、普通の高校生カップルのように並んで歩き出した。向かった先は、駅前の大きなショッピングモールだった。有希子にとっては、見るものすべてが新鮮で、目が眩むような別世界だ。
映画館で、話題の恋愛映画を見る。
薄暗い館内で、二人の肩がほんの少しだけ触れ合い、有希子の心臓は破裂しそうなほどに脈打った。
映画の後、蓮は有希子をクレープ屋の屋台へと連れて行った。
「はい、イチゴと生クリームのクレープ。有希子ちゃん、甘いもの好きだろ?」
「ありがとう、ございます……!」
有希子は、両手で受け取ったクレープを恐る恐る口に運んだ。
薄い生地と、たっぷりのクリーム、そしてイチゴの酸味。
それは、あの時のピーチティーと同じように、お母様が「安っぽい毒」と呼ぶ味だった。しかし有希子にとっては、何十万円もする高級フレンチのデザートよりも、この数百円のクレープの方が何百倍も美味しく、輝いて感じられた。
「美味しい……。私、こんなに美味しいもの、初めて食べました」
「大げさだなあ。でも、良かった。……有希子ちゃんの親、怒ってなかった?」
「はい。おじさまが、外に出ることを許してくださったんです。おじさまも、お母様たちも、きっと少しずつ私のことをわかってきてくれているんだと思います」
有希子は、本心からそう信じて微笑んだ。
蓮は少しだけ複雑な表情を浮かべたが、すぐに優しい笑顔に戻り、有希子を見つめた。
「そっか。……ねえ、有希子ちゃん」
「はい」
「俺さ、大学に入ったら一人暮らしを始めるつもりなんだ。バイトしてお金貯めて、車も買って……そしたら、有希子ちゃんを色んなところに連れて行ってあげられる」
蓮の言葉に、有希子はハッと息を呑んだ。
「海を見に行ったり、夜景の綺麗なところをドライブしたり。有希子ちゃんが知らない世界を、俺が全部教えてあげるよ。だから……」
蓮は、そっと有希子の右手に自分の手を重ねた。
大きくて、温かい手。
有希子の鳥籠の鍵を開けてくれる、希望の手だった。
「俺が卒業しても、ずっと一緒にいてほしい」
「先輩……っ」
有希子の目に、じわりと涙が浮かぶ。
胸元で、神宮寺から着けられた「南京錠のネックレス」が冷たく肌に触れていたが、今の有希子には、蓮の温もりしか感じられなかった。
(私、自由になれる。先輩となら、この箱庭から出て、普通の女の子になれるんだわ)
有希子は、震える手で蓮の手を握り返し、満面の笑みで頷いた。
「はい……! 私、先輩と一緒に、色んな世界を見てみたいです!」
それは、16歳の少女が初めて抱いた、美しく無垢な「未来への希望」だった。
* * *
「――あはははははっ! 傑作だ! 涙が出るほど美しい三文芝居じゃないか!」
その頃。
都内を一望できる超高級ホテルのスイートルームで、神宮寺善三は腹を抱えて狂ったように笑い転げていた。
巨大な壁掛けモニターには、有希子のブローチのカメラが捉えた「蓮の真っ直ぐな瞳」と、マイクが拾った「愛の告白」が克明に映し出されている。有希子が蓮の手を握り返した瞬間、神宮寺の歓喜は最高潮に達した。
「見たまえ、浅田くん! あの小僧の得意げな顔を! 自分が囚われの姫を救い出す『白馬の騎士』だと、本気で信じ込んでいる! 自分の一族の首元に、すでに私のナイフが突きつけられているとも知らずに!」
「ええ。実に滑稽な男です」
神宮寺の背後に控えていた泰造が、冷たい声で同調する。
「会長。瀬尾の父親が役員を務めるメーカーですが、すでに我々のダミー会社を通じて株式の過半数を握りました。取引先銀行にも根回しは完了しております。会長が指を鳴らせば、明日にもあの小僧の家を破産させ、路頭に迷わせることが可能です。……今すぐ、潰しましょうか?」
泰造の言葉に、神宮寺はピタリと笑いを止め、グラスの中の氷をカランと鳴らした。
「馬鹿を言うな。まだ早い」
神宮寺の目が、爬虫類のように細く、ねっとりとした欲望の光を放つ。
「有希子ちゃんの心の中で、あの小僧という名の『希望』が、もっと大きく、絶対的なものに膨れ上がるのを待つんだ。夏休みの間、あの二人に甘く楽しい青春を謳歌させろ。有希子ちゃんに、二人の幸せな将来を確信させろ」
神宮寺はモニターに映る蓮の顔を、画面越しに指先でなぞった。
「有希子ちゃんが『親やおじさまよりも、彼を選ぶ』と決意したその瞬間。……もっとも彼女が幸福の絶頂にいる瞬間に、叩き潰す」
「承知いたしました。では、秋口までは自由に泳がせると」
「ああ。最高の果実を収穫するためには、肥料が必要だからね」
神宮寺は、ワイングラスを高く掲げた。
「乾杯しよう。我々の無知で可愛いお姫様と……近いうちに社会のゴミとなる、憐れな少年に」
* * *
夕暮れの駅前。
「じゃあね、有希子ちゃん。また月曜日に、図書室で」
「はい、蓮先輩。今日は本当に、ありがとうございました」
蓮と手を振り合って別れた有希子は、夕日に照らされた帰り道を、スキップしたくなるような軽い足取りで歩いていた。
鞄の中には、蓮と一緒に撮ったプリクラが隠してある。
私の初めての彼氏。私を外の世界へ連れ出してくれる、優しい人。
(お父様、お母様、おじさま……ごめんなさい。私、絶対に先輩と一緒に幸せになります)
有希子は、胸元の南京錠のネックレスをギュッと握りしめ、青空に向かって誓った。
しかし、彼女のすぐ胸元に着けられた小さなパールのブローチ(カメラ)のレンズが、その無邪気な笑顔を冷酷に見つめ続けていることには、気づく術もなかった。
希望という名の猛毒は、有希子の純白の心に完全に回りきっていた。
大人たちが仕掛けた「極上の絶望」へのカウントダウンが、いよいよ最終段階へと入ろうとしている。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




