叩き潰された白馬の騎士と、鳥籠への帰還――完成された依存
叩き潰された白馬の騎士と、鳥籠への帰還――完成された依存
九月。
新学期が始まり、聖カトレア学園の敷地内には秋を知らせる金木犀の香りが漂い始めていた。
放課後の図書室。
浅田有希子は、いつものカウンター席に座り、入り口の扉を食い入るように見つめていた。
鞄の奥底には、あの夏の日に蓮が買ってくれた「ピーチティーの空き缶」が、まるでお守りのように大切にハンカチに包まれて隠されている。
『一緒に逃げよう。俺が有希子を守るから』
雨音に混じって聞こえた、蓮の力強く温かい声。その言葉を思い出すだけで、有希子の胸の奥は甘く締め付けられ、頬が自然と緩んだ。
しかし。
新学期が始まってから一週間。瀬尾蓮は、一度も図書室に姿を現さなかった。
(先輩、どうしたのかしら……。部活の大会が近くて忙しいのかな。それとも、三年生だから受験勉強で……)
有希子には、蓮に連絡を取る手段がない。
同年代の高校生であれば、LINEやSNSで「どうしたの?」と一言メッセージを送るだけで済むことだ。しかし、スマホを持たされず、外界との通信手段をすべて両親に遮断されている有希子には、ただ彼が図書室の扉を開けてくれるのを「待つ」ことしかできなかった。
自分が置かれている『鳥籠』の不便さと残酷さを、有希子は今、身をもって味わっていた。
さらに一週間が過ぎた。
窓の外から聞こえていた蝉の鳴き声は完全に消え、秋の冷たい風が吹き込み始めた頃。
有希子は、廊下を歩いている時に、すれ違った三年生の女子生徒たちの会話を耳にして、ピタリと足を止めた。
「ねえ、瀬尾くんの話、聞いた?」
「聞いた聞いた。マジでビビったんだけど。夜逃げって本当?」
……え?
有希子の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「なんかさ、お父さんの会社が急に大手の会社に買収されて、あっという間に倒産したらしいよ。しかも莫大な借金背負わされて、家も銀行に差し押さえられたって」
「嘘でしょ、あの瀬尾くんが? 剣道部の主将で、あんなに爽やかだったのに」
「本当だって。親戚中からもお金借りまくって、結局首が回らなくなって、一家全員で夜逃げしたらしいよ。学校にも退学届だけ郵送されてきて、ロッカーの荷物もそのままなんだって」
「うわぁ……。人生、一寸先は闇ってやつだね。可哀想に」
女子生徒たちは、まるでドラマのゴシップでも消費するかのような軽い口調でそう言い合い、笑いながら去っていった。
有希子は、その場に縫い付けられたように動けなかった。
頭の中が真っ白になり、周囲の音がすべて遠のいていく。
(夜逃げ……? 退学……? 先輩が?)
足元がぐらりと揺れた。
抱えていた図書室の返却本が、手から滑り落ちて床に散乱する。
息が、できない。胸を締め付けている特注の下着のせいではない。もっと深い、心の底からせり上がってくる絶望感が、有希子の喉を塞いでいた。
『俺、来年の春には卒業して、就職する。お金を貯めて、ちゃんと自分の力で生活できるようになる』
『そしたら、一緒に逃げよう』
あんなに力強く、希望に満ちた目で語っていた先輩の未来が。
有希子を外の世界へ連れ出してくれるはずだった、白馬の騎士の存在が。
ある日突然、誰にも知られず、社会の底辺へと転がり落ち、無残に叩き潰されてしまったのだ。
「あ……ああ……っ」
有希子は震える手で口元を覆い、廊下の壁にずるずると背中を預けて崩れ落ちた。
これが、外界の恐ろしさ。
お母様が『泥水』と呼んでいた世界の、本当の姿。
ほんの数ヶ月前まで、あんなに温かく笑っていた先輩が、抗うこともできない暴力的な『社会の闇』に飲み込まれて消えてしまった。
自分と一緒に逃げるどころか、自分自身の明日を生きる場所すら奪われて。
(先輩……っ、先輩……っ!)
有希子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
悲しみ。喪失感。そして何より、抗いようのない「恐怖」が有希子の全身を震わせていた。
* * *
その日の夕方。
有希子はフラフラとした足取りで、浅田家の豪奢なエントランスに辿り着いた。
制服のリボンは乱れ、目は泣き腫らして真っ赤になり、顔面は幽鬼のように蒼白だった。16年間、完璧な純白の令嬢として育てられてきた彼女が、初めて見せた「壊れた姿」だった。
「ただいま、戻り……ました……」
掠れた声で靴を脱ぐと、リビングの扉が開き、母親の恵美子が血相を変えて飛び出してきた。
「有希子!? どうしたの、その顔! 何があったの!?」
「お母様……っ」
有希子は恵美子の顔を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、その場に泣き崩れた。
リビングの奥からは、父親の泰造と、そしてソファーで優雅に紅茶を飲んでいた神宮寺善三が、驚いたような顔(を完璧に装って)近づいてきた。
「有希子、どうしたんだ。誰かに苛められたのか?」
「浅田くん、有希子ちゃんを早くソファーへ。顔が真っ青じゃないか」
大人三人に抱き抱えられるようにしてソファーに座らされた有希子は、嗚咽を漏らしながら、必死に言葉を紡いだ。
「お母様……お父様……私、怖い……っ、外の世界が、怖いっ……!」
「有希子、落ち着いて。何があったのか、ゆっくり話しなさい」
恵美子が有希子の背中を優しく撫でる。
その手の温もりにすがりつくように、有希子は泣き叫んだ。
「学校の先輩が……優しかった先輩が、急にお家がなくなって、夜逃げして、学校からいなくなっちゃったの……っ! あんなに元気だったのに、急に、全部なくなっちゃったの……っ!」
有希子は、蓮と恋仲であったことや、一緒に逃げる約束をしていたことは伏せたまま、ただ「顔見知りの先輩が悲惨な運命を辿った恐怖」として打ち明けた。
もちろん、目の前にいる大人三人は、その先輩(蓮)の人生を物理的にすり潰し、一家離散に追い込んだ張本人たちである。
有希子の悲痛な叫びを聞きながら、泰造と恵美子は内心で(計画通りだ)とほくそ笑み、神宮寺に至っては、有希子の流す絶望の涙を、極上のヴィンテージワインを舐めるような恍惚の表情で見つめていた。
「……ああ、なんて可哀想な有希子ちゃん」
神宮寺が、わざとらしく、心底同情したような低い声で口を開いた。
彼は有希子の前にしゃがみ込み、その冷え切った両手を、自らの分厚く温かい手で包み込んだ。
「だから私たちは、君を外の世界から守りたかったんだよ。君がそんな悲しい思いをしなくて済むようにね」
「おじさま……っ」
「外の世界はね、泥水のように汚くて、残酷だ。今日笑っていた人間が、明日は借金取りに追われて首を吊るかもしれない。愛だの夢だのと甘い言葉を吐く人間ほど、いざとなれば君を置いて、逃げてしまうものなんだよ」
神宮寺の言葉は、有希子の心の傷口に、致死量の毒を優しく塗り込んでいく作業だった。
「その先輩も、君に見せていた優しさは本物だったかもしれない。だが、彼は弱かった。外の荒波に耐えきれず、自分の身を守るだけで精一杯になってしまったんだ。……君を守るどころか、ね」
ビクリ、と。
有希子の肩が震えた。
『俺が、有希子を守るから』と言ってくれた蓮は、結局、有希子を迎えに来る前に消えてしまった。
蓮が嘘をついたわけではないと思いたい。でも、現実に彼は消え、有希子は一人取り残された。外界とは、そんな理不尽がまかり通る地獄なのだ。
「有希子」
今度は泰造が、有希子の頭を優しく撫でた。
「お前は何も心配しなくていい。うちの会社は盤石だ。お前が明日、家を失うことも、食べるものに困ることも絶対にない。お父様とお母様、そしておじさまが……お前の明日を、絶対に守り抜いてみせるから」
「そうよ、有希子。あなたは私たちの宝物なんだから。ずっと、この綺麗で安全なお家の中で、私たちと一緒に幸せに暮らせばいいのよ」
恵美子が有希子を抱きしめる。
高級な香水の匂い。ふかふかのソファー。冷暖房の完璧に効いた、清潔な部屋。
これらがすべて「蓮の父親の会社を不渡りで倒産させた金」で維持されている狂気など、有希子は知る由もない。
有希子の心の中で、夏の間に大きく膨らんでいた「外の世界への希望」が、音を立てて完全にしぼんでいった。
代わりに、以前よりもずっと強固で、ドス黒い「依存」が、彼女の精神の隅々まで根を張っていく。
(先輩は、外の世界の波に飲まれてしまった……。私じゃ、駄目なんだ。私は、このお家の中で、お父様たちの庇護がなければ、一日だって生きていけない無力な子供なんだわ)
もう、誰も信じない。
外の世界なんて、二度と見たくない。
有希子は、恵美子の腕の中で、狂ったように首を振り、泣きじゃくった。
「お母様……お父様……おじさまっ……ごめんなさい、私、外の世界の真似事なんて、二度としない……っ! ずっと、ずっとここで、みんなのいい子でいるから……私を見捨てないで……っ!」
有希子は、自らの手で、鳥籠の鍵を内側から固く閉ざした。
もう二度と、外の世界へ飛び立とうなどと思わないように。自らの意思で、絶対的な従順を誓ったのだ。
「ええ、ええ。見捨てるはずないわ。あなたは世界で一番賢くて、可愛いレディよ」
「私たちは、永遠に君を愛しているよ、有希子ちゃん」
大人たちが、有希子を囲んで優しく微笑み合う。
神宮寺は、恵美子の肩越しに有希子の髪を撫でながら、音の出ない笑い声を上げた。
彼の目には、すっかり絶望の味に染まり切り、自ら進んでまな板の上に横たわった「極上の果実」が映っていた。
(素晴らしい……。希望という名のスパイスは、見事に彼女の精神(肉)を柔らかくした。もはや彼女は、我々なしでは息をすることすら恐怖に感じるだろう)
神宮寺の舌が、乾燥した唇をねっとりと舐め上げる。
(さあ、有希子ちゃん。残るはあと二年。君が18歳になるその日まで、この甘く温かい地獄(鳥籠)の中で、たっぷりと熟成させてあげよう。……すべては、私の最高のディナーのために)
浅田家のリビングには、少女の悲痛な泣き声と、大人たちの「優しさに満ちた悍ましい慰め」が、いつまでも不気味に響き続けていた。
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