仕組まれた鳥籠の鍵――外の世界の優しさと、初めての「秘密」
仕組まれた鳥籠の鍵――外の世界の優しさと、初めての「秘密」
私立聖カトレア学園・高等部。
春の柔らかな日差しが差し込む中、16歳になった浅田有希子は、見慣れた図書室のカウンターで静かに本の貸し出し作業を行っていた。
高校生に進学した有希子は、周囲が息を呑むほどの美しさに成長していた。
艶やかな漆黒の髪、透き通るような白磁の肌、そして何よりも、現代の高校生とはかけ離れた「浮世離れした純粋さ」。その姿はまるで、ガラスケースの中に大切に飾られたアンティーク・ドールのようだった。
有希子にとって、高等部への進学は、人生における大きな転換点だった。
中学時代まで「放課後の居残り」や「委員会活動」を一切禁じられていた有希子に対し、両親が突然、図書委員になることを許可してくれたのだ。
『有希子ももう高校生。少しはレディとしての社会勉強も必要だわ。図書室のような静かで清潔な場所なら、お父様とお母様も安心だから』
恵美子は優しく微笑んでそう言った。
有希子は、両親からの深い愛情と信頼を噛み締め、胸を熱くした。
(お母様たちは、私の成長を認めてくださったんだわ。絶対に、期待を裏切らないようにしなくちゃ)
しかし、有希子は知る由もない。
この「わずかな自由」が、スポンサーである神宮寺善三の『絶望のスパイスを仕込むための計画』の一環に過ぎないことを。
彼女が図書委員に選ばれたのも、周囲の生徒たちが有希子を「遠巻きに見つめる」ように教師たちから見えない圧力がかけられているのも、すべては大人たちの手によって仕組まれた盤上の出来事であった。
「あの、すみません。返却、いいかな」
静寂に包まれた図書室に、爽やかな声が響いた。
ハッとして顔を上げた有希子の前に立っていたのは、見知らぬ男子生徒だった。
背が高く、少し日に焼けた肌。制服のネクタイの緩め方には清潔感があり、その瞳はまっすぐに有希子を見つめていた。
「あっ……」
有希子の体が、ビクリと硬直する。
(男の人……!)
中学二年生のあの夜、男の子と言葉を交わしただけで母親から浴びせられた、ヒステリックな叱責と恐ろしい洗脳の言葉がフラッシュバックする。
『外の世界にいる男は、すべて泥水にまみれた獣よ』
有希子は弾かれたように席を立ち、カウンターの奥へと後ずさった。胸元で、神宮寺から贈られた「南京錠のネックレス」がカチャリと冷たい音を立てる。
「ご、ごめんなさい……! 私、男の方とはお話しできないんです……っ」
有希子は怯えた小動物のように肩を震わせ、今にも逃げ出しそうな瞳で彼を見た。
普通であれば、そんな異常な反応を見せられた男子生徒は、気味悪がって立ち去るか、腹を立てるだろう。しかし、その男子生徒――高等部三年生の瀬尾蓮は、驚いたように瞬きをした後、フッと柔らかく微笑んだ。
「ごめん、驚かせちゃったね。急に声かけたから。俺、三年生の瀬尾蓮。君、一年生の浅田さんだよね?」
蓮の声には、有希子がこれまで男たち(父親や神宮寺)から受けてきた「ねっとりとした値踏みするような響き」が一切なかった。ただ純粋に、目の前の人間を気遣う、春風のような優しさがあった。
「あ……えっと……」
「返却、ここに置いておくよ。怖がらせて本当にごめんね」
蓮はカウンターの上に数冊のハードカバーをそっと置き、一歩だけ後ろに下がった。
その距離感に、有希子の強張っていた肩が少しだけ緩む。
蓮が置いていった本のタイトルに目を落とすと、それは有希子が好きな海外の古典文学だった。
「あの……」
有希子は、自分でも信じられないことに、逃げ出そうとする足を止め、蚊の鳴くような声で口を開いていた。
「……その本、私も、好きです。とても美しい言葉で書かれていて……」
言ってしまってから、ハッと口を塞ぐ。
(何をしているの、私! 見知らぬ男の人と会話するなんて……お母様に知られたら……!)
激しい罪悪感が込み上げてきたが、蓮の反応は有希子の予想を裏切るものだった。
「本当? 浅田さんもこれ好きなの? 俺、この作家の言い回しがすごく好きでさ。クラスの奴らに言っても『古臭い』って笑われるんだけど」
蓮の顔がパッと明るくなり、嬉しそうに目を細めた。
その笑顔は、なんの裏表もない、ただ純粋な喜びから来るものだった。
有希子は戸惑った。彼女の世界において、笑顔とは「大人が有希子を褒め称える時のもの」か、「おじさまが有希子を抱きしめる時のもの」しか存在しなかった。
同年代の男子が、こんなにも屈託なく、美しい笑顔を見せるなんて知らなかった。
「ええ……あの、特に、二章の……星空を描写するシーンが、素敵で……」
「わかる! あそこ、最高だよね。なんだか、浅田さんと話してたら、もう一回読み直したくなってきたな」
蓮はカウンターに近づくことなく、一定の距離を保ったまま、穏やかな声で有希子と少しだけ言葉を交わした。
その時間は、ほんの数分だった。
しかし、有希子にとっては、16年間の人生で初めて触れた「外の世界の、本物の優しさ」だった。
泥水でも、獣でもない。ただの、本が好きな優しい先輩。
「じゃあ、俺はそろそろ行くね。また借りに来てもいいかな?」
「……はい」
有希子が小さく頷くと、蓮は「ありがとう」と微笑み、図書室を後にした。
誰もいなくなった図書室で、有希子は自らの胸元に手を当てた。
特注のコルセット下着で常に締め付けられている胸の奥が、今はなぜか、トクン、トクンと早く脈打っている。
頬が熱い。
(私、男の人とお話ししてしまった……。でも、ちっとも嫌じゃなかった。泥水のような臭いなんてしなかった)
有希子は、カウンターに残された蓮の返却本をそっと撫でた。
両親とおじさまには、絶対に言えない。
これは、有希子の人生で初めてできた、自分だけの「秘密」だった。
鳥籠の中で生きてきた純白の小鳥が、初めて外の世界の空気に触れ、その心地よさに少しだけ羽を広げた瞬間。
だが、有希子は知る由もなかった。
その「秘密」すらも、分厚いガラス越しに監視されているということに。
* * *
図書室の窓の外。
校舎の敷地外の道路に停められた、黒塗りのマイバッハ。
スモークガラスで覆われた後部座席の中で、神宮寺善三は、最新鋭の望遠カメラのモニターに映し出された有希子と蓮のやり取りを、ワイングラスを傾けながらじっと見つめていた。
「ほう……。瀬尾、蓮。三年生の剣道部主将。親は中堅メーカーの役員か」
助手席の秘書が読み上げる蓮のプロフィールを聞き流しながら、神宮寺の唇が歪に吊り上がる。
モニターの中の有希子は、蓮の後ろ姿を見送りながら、頬を赤らめて胸元を押さえている。その顔は、これまで神宮寺や両親に向けていた「作られた無垢な笑顔」ではなく、年相応の少女が初めて恋に触れた瞬間の、生々しく、匂い立つような表情だった。
「素晴らしい」
神宮寺の喉から、歓喜の笑い声が漏れた。
「素晴らしいよ、有希子ちゃん。君のその顔が見たかった。親でも、私でも引き出せなかった、外の男に向けた『初めての感情』。……ああ、なんて美しく、そして……汚らわしい!」
パキンッ!
神宮寺の握りしめたバカラのグラスが、強い圧力によってひび割れ、砕け散った。
高級な赤ワインが、まるで血のように彼の手のひらを濡らし、革張りのシートへと滴り落ちる。
秘書が慌ててハンカチを差し出すが、神宮寺はそれを手で制し、血の混じったワインを自らの舌でゆっくりと舐め取った。
「泳がせろ」
神宮寺の瞳孔が、極限まで細く収縮している。
「あの瀬尾という小僧を、ギリギリまで有希子に近づかせろ。彼女の心の中に『希望』という名の芽が完全に根を張り、あの小僧と結ばれる未来を夢想するまで……。彼らの逢瀬を、私にすべて報告しろ」
「承知いたしました、会長。では、浅田夫妻には……」
「まだ黙っておけ。あの夫婦は馬鹿だからな。勝手に小僧を潰して、私の『極上のスパイス』を台無しにしかねない」
神宮寺は、モニターの中で恥じらう有希子の顔を、ひび割れた指でねっとりと撫でた。
「恋を知りなさい、有希子ちゃん。世界はこんなにも美しく、優しいものだと信じなさい。君がその空虚な希望の絶頂に達した時……私がこの手で、君の愛する小僧を社会的にも肉体的にも完全にすり潰し、君を本当の絶望の底へと引きずり下ろしてあげるからね」
マイバッハのエンジンが、野獣の唸り声のように低く響き、ゆっくりと走り出す。
有希子の初めての恋心は、狂った富豪の掌の上で、残酷な破滅に向けてカウントダウンを始めようとしていた。
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