夜想曲(ノクターン)と毒の晩餐――完璧な操り人形の証明
夜想曲と毒の晩餐――完璧な操り人形の証明
ショパンの『ノクターン(夜想曲)第2番』の甘美で物悲しい旋律が、広大なリビングルームに響き渡っていた。
浅田有希子(14歳)は、スタインウェイのグランドピアノに向かい、背筋を完璧な角度に伸ばして鍵盤の上で白い指を滑らせていた。
中学二年生になった彼女は、少女から大人の女性へと差し掛かる過渡期特有の、危うくも透き通るような美しさを放っていた。しかし、その胸元は相変わらず神宮寺から贈られた「特注のコルセット下着」によって平坦に締め付けられており、彼女の呼吸は常に浅く、それがかえって儚げな令嬢の雰囲気を際立たせている。
(間違えないように……完璧に弾かなくちゃ。お父様、お母様、そしておじさまのために)
有希子は息を詰め、最後の和音を優しく響かせた。
余韻が空気に溶けていくのを待ち、静かに立ち上がって、優雅にカーテシー(膝を折るお辞儀)をする。
「素晴らしい。ブラボーだ、有希子ちゃん」
パチパチパチ、と。
革張りの特注ソファの特等席から、神宮寺善三がゆっくりと拍手を送った。その横では、泰造と恵美子が「自慢の娘」を見る誇らしげな笑顔で同調している。
「ありがとうございます、おじちゃま……いえ、おじさま」
年齢に合わせて言葉遣いを直された有希子が、頬をほんのりと赤らめて微笑む。
その無垢な笑顔を見た瞬間、神宮寺の瞳孔が爬虫類のように縦に細く収縮した。手にしたバカラのグラスの中で、血のように赤いワインが揺れる。
神宮寺の目には、有希子の奏でる音楽の美しさなど欠片も入っていなかった。
彼が鑑賞していたのは、有希子の「自我のなさ」である。
彼女の演奏には、寸分の狂いもない技術がある反面、芸術家としての情熱や感情の昂りが一切欠落していた。ただひたすらに、「大人たちに褒められるため」だけにプログラムされた自動手記人形のような演奏。
(ああ、なんと愛おしく、空っぽな娘だろう。私が14年かけて作り上げた、完全なる無菌室の芸術品だ)
神宮寺はグラスを置き、有希子を手招きした。
「おいで、有希子ちゃん。今日も本当に綺麗な音色だったよ」
「嬉しいです。おじさまに聴いていただくために、毎日三時間練習しましたの」
「そうかそうか。偉いね。……さあ、私からのご褒美だ」
神宮寺は懐からベルベットの小箱を取り出し、パチンと開けた。
中に入っていたのは、プラチナのチェーンに、重厚な「南京錠」のモチーフがあしらわれたネックレスだった。
「まあ……! なんて綺麗……」
「後ろを向いてごらん。着けてあげよう」
有希子が素直に背中を向けると、神宮寺の分厚い指が、有希子の白く細い首筋にねっとりと触れた。ビクリと有希子の肩が揺れるが、神宮寺は気にする素振りも見せず、ゆっくりと金具を留めた。
南京錠の冷たい重みが、有希子の鎖骨の間に収まる。
「似合うよ、有希子ちゃん。君は私たちの、何よりも大切な『宝物』だ。この鍵は、私たちが君を悪い虫から守るためのものだよ」
「はい、おじさま。私、ずっと大切にします」
有希子は胸元の南京錠を両手で包み込み、心底幸せそうに微笑んだ。
自分が「首輪」を着けられた奴隷であることなど、微塵も疑っていない。
* * *
その後のディナーの席は、和やかな空気に包まれていた。
専属のシェフが腕を振るった有機野菜のコース料理を味わいながら、有希子は学校での出来事を嬉しそうに語り始めた。
「今日ね、図書室で高いところにある本を取ろうとしたら、クラスの男の子が手伝ってくれたの」
その一言が落ちた瞬間。
リビングの温度が、氷点下まで急降下した。
泰造の手からナイフとフォークの音が消え、恵美子の口元の笑みがピタリと硬直する。神宮寺に至っては、ワイングラスを持ったまま、微動だに停止していた。
有希子は大人たちの異様な空気に気づかず、無邪気に言葉を続ける。
「佐藤くんっていうの。彼、『浅田さんって、お姫様みたいで可愛いね』って言ってくれて……」
「有希子」
恵美子の、氷のように冷たく、刃物のように鋭い声が響いた。
有希子はビクッと肩を跳ね上がらせた。
「お、お母様……?」
「あなた、その『佐藤』という男の子と、何秒言葉を交わしたの?」
「えっと……五秒くらい……本を取っていただいて、お礼を言って……」
ガチャン!
恵美子がわざとらしく、乱暴にフォークを皿に置いた。有希子の顔から血の気が引く。
「お母様は、あなたに何と教えて育ててきたかしら? 外の世界にいる男は、すべて『泥水にまみれた獣』だと言ったわよね?」
「は、はい……」
「あなたが安っぽい男と口を利けば、その男の口から吐き出される汚れた空気で、あなたの美しい肌も髪も、ドブのような臭いに染まってしまうのよ。……ああ、可哀想な私の有希子。今すぐ熱いシャワーで、その汚れを洗い流してあげたいわ」
恵美子の言葉は、常軌を逸した異常な潔癖症の押し付けであった。
しかし、生まれてからずっとこの価値観を「愛情」として刷り込まれてきた有希子にとって、それは世界の絶対的な真理だった。
「ご、ごめんなさい……! 私、そんなつもりじゃ……」
有希子の目に、大粒の涙が浮かぶ。
「自分が汚れてしまったかもしれない」「両親とおじさまを失望させてしまった」という強烈な罪悪感が、彼女の心を締め上げる。
そこへ、神宮寺が静かに口を開いた。
「泣かないでおくれ、有希子ちゃん」
神宮寺は立ち上がり、有希子の背後に回ると、その華奢な肩を両手で優しく包み込んだ。
「君は悪くない。君のような美しい花を見れば、汚い羽虫は寄ってくるものだ。だがね……私たちは、君が羽虫にたかられて、病気になり、枯れてしまうのが耐えられないんだ。君を心の底から愛しているからこそ、ね」
「おじさま……っ」
「約束できるかい? もう二度と、私たち以外の男とは口を利かないし、目も合わせないと」
有希子は涙をポロポロと零しながら、何度も何度も首を縦に振った。
「はいっ……約束します! もう二度と、誰も見ません! 私には、お父様とお母様と、おじさまだけいればいいの……っ!」
「ええ、いい子よ有希子」
恵美子がハンカチで有希子の涙を拭い、泰造が優しく頭を撫でる。
神宮寺は有希子の肩を抱きしめたまま、泰造と恵美子に向けて「完璧だ」とでも言うように、満面の、しかし底知れぬ狂気を孕んだ笑みを向けた。
* * *
その日の深夜。
有希子が泣き疲れて眠りについた後、大人三人は高級なシガー(葉巻)の煙が燻るリビングで、極秘の「品評会」を続けていた。
「浅田くん。あの『佐藤』という羽虫だが……」
「ご安心ください、会長。明日の朝一番に、学校の理事長に多額の寄付金を積み、あの男の子の親の会社に圧力をかけます。一週間後には、一家もろとも夜逃げさせ、有希子の視界から完全に消し去りましょう」
泰造が冷酷なビジネスマンの顔で即答する。娘に声をかけたというだけで、一人の少年の人生を社会的に抹殺する。彼らにとって、数億円の価値を持つ商品の品質維持に比べれば、他人の人生など路傍の石に等しかった。
「結構。……だがね、浅田くん」
神宮寺は葉巻の灰を落とし、妖しい光を宿した目で夫婦を見た。
「来年の春、有希子ちゃんは高校生になる。エスカレーター式で高等部に上がるわけだが……少しだけ、彼女の『首輪』を緩めてやろうと思う」
「え……? それは、どういう意味でしょうか」
恵美子が戸惑ったように問い返す。
外の汚れに触れさせるなと一番厳しく命令していたのは、神宮寺本人である。
「ずっと真っ暗な箱の中にいては、自分が箱に閉じ込められていることすら気づかない。有希子ちゃんには、少しだけ『自由』という名の外の光を見せてやるのだ」
「自由、ですか」
「そうだ。例えば、高等部では彼女に同年代の友人を作ることを少しだけ許す。そして……もし彼女が、今日のように別の男に惹かれるようなことがあれば、ギリギリまで泳がせてやろう」
神宮寺の唇が、三日月のように吊り上がる。
その笑顔は、純粋な悪意の塊だった。
「人は、希望を知らなければ、本当の『絶望』を味わうことはできない。彼女が外の世界に一縷の希望を抱き、恋という名の甘い夢を見たその瞬間に……私がすべてを奪い、叩き潰し、逃げ場のない真っ暗な檻へと引きずり戻してやるのだ」
神宮寺はグラスの底に残った赤いワインを、一息に飲み干した。
「18歳の誕生日に、彼女が最も美しい悲鳴を上げるための、極上のスパイスの仕込みだよ」
泰造と恵美子は、背筋に冷たい粟立ちを感じながらも、深く首を垂れた。
有希子の知らないところで、最悪の脚本が書き換えられようとしていた。
高校生になれば、きっと素敵な未来が待っている。そう信じて眠る有希子に用意されたのは、希望の形をした「地獄への落とし穴」であった。
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