無菌室のプリンセスと親切なおじさん――愛情という名の完全飼育
無菌室のプリンセスと親切なおじさん――愛情という名の完全飼育
「痛っ……ママ、少し痛いよ」
朝の柔らかな日差しが差し込む豪奢なリビングで、小さな声が漏れた。
鏡の前に座らされているのは、今年で8歳になった有希子だ。彼女の背後には母親の恵美子が立ち、最高級の猪毛ブラシを使って、有希子の艶やかな黒髪を何度も何度も梳かしている。
「我慢しなさい、有希子。少し絡まっているだけよ。あなたは世界で一番綺麗なお姫様なのだから、髪の毛一本だって乱れていてはいけないの」
恵美子の声は甘く優しかったが、その手つきには一切の妥協がなかった。
有希子が少しでも身じろぎすると、恵美子の目がスッと冷たく細められる。それは娘を愛おしむ母親の目ではなく、数千万円の価値がある骨董品を磨き上げる鑑定士の目だった。
(……切れ毛や枝毛なんて言語道断。神宮寺会長への『今月の生育報告書』に写真と動画を添付しなければならないのだから、完璧な状態を維持しなきゃ)
恵美子の脳内には、娘への愛情ではなく、毎月口座に振り込まれる莫大な「養育費」のことしかない。
有希子の肌に直接触れる衣類は、すべて特注のオーガニックシルク。食事は専属の栄養士(口止め料を支払っている)が計算し尽くした、無添加で薄味の有機野菜と高級魚が中心。市販のスナック菓子やファストフードなど、有希子は生まれてこの方一度も口にしたことがない。
外遊びは極力制限され、どうしても外に出る際は、紫外線を完全に遮断する衣服と日傘が義務付けられていた。
すべては、神宮寺が求める「無菌室で育った純白の果実」を完成させるためだ。
「さあ、出来たわ。今日も本当に可愛いわね、私の天使」
恵美子が有希子の頬にキスを落とすと、有希子は鏡の中で嬉しそうに微笑んだ。
痛みに耐えたご褒美のように与えられた母親からの賞賛に、有希子の胸は幸福感で満たされていた。
「ありがとう、ママ! 私、ママとパパの娘に産まれて本当に良かった!」
有希子の純粋無垢な笑顔。それは、恵美子にとって何よりの「成果物」だった。
有希子は、自分が外の世界から隔離され、異常なまでの管理下に置かれていることなど微塵も疑っていない。なぜなら、両親はいつも「有希子を愛しているから」「有希子が特別だから」という甘い言葉で、すべての行動を正当化してきたからだ。
愛という名の完璧な洗脳。有希子にとってこの家は、世界で最も安全で幸せな箱庭だった。
「おや、今日も我が家のお姫様はご機嫌だね」
リビングの扉が開き、スーツ姿の泰造が満足げな笑みを浮かべて入ってきた。
「パパ!」
「おはよう、有希子。……うん、肌の艶もいい。恵美子、よくやってくれているな」
泰造は有希子の頭を撫でながら、妻と視線を交わした。その視線が意味するのは『今月の品質チェックも合格だ』というビジネスパートナーとしての合図である。有希子には、それが両親の仲の良さの証にしか見えなかった。
「今日は午後から、神宮寺のおじさまがいらっしゃるわ。有希子、おじさまにご挨拶の練習は完璧?」
「うんっ! 私、おじちゃま大好き!」
有希子の言葉に、泰造と恵美子は口角を深く引き上げた。
神宮寺善三。浅田家にとっての最大のパトロンであり、有希子という商品の唯一の『買い手』。
彼は数ヶ月に一度、「親切な親戚のおじさん」という名目で浅田家を訪れ、有希子の成長ぶりを直接その目で『鑑賞』していくのだ。
* * *
午後二時。
厳重なセキュリティのゲートを抜け、黒塗りのマイバッハが浅田家の車寄せに到着した。
玄関の扉が開くと同時に、待ち構えていた有希子が飛び出していく。
「神宮寺のおじちゃま!」
「やあやあ、有希子ちゃん。今日も一段と愛らしいね」
仕立ての良いスリーピースのスーツに身を包んだ神宮寺が、鷹揚な笑みを浮かべてしゃがみ込み、有希子を両腕で受け止めた。
初老に差し掛かった男の分厚い手が、有希子の華奢な背中を撫で下ろす。その手の動きが、子どもをあやすものにしては異様に遅く、ねっとりとしていることに、有希子はもちろん気づかない。
「おじちゃま、今日は何のお話を聞かせてくれるの?」
「ふふ、そうだね。その前に、有希子ちゃんにプレゼントがあるんだ」
神宮寺の背後に控えていた運転手が、恭しく大きな箱を差し出した。
リボンを解くと、中にはフランス製のアンティーク・ビスクドールが入っていた。透き通るような白い肌、艶やかな黒髪、そして純真な瞳。それはまるで、有希子自身を模して作られたかのような人形だった。
「わあ……! 綺麗! ありがとう、おじちゃま!」
「有希子ちゃんにそっくりだろう? 傷つけないように、大切に、大切に……愛してあげるんだよ。私たちが、君を愛しているようにね」
神宮寺の言葉は優しく、しかしその眼の奥には、爬虫類が獲物を丸呑みする前のようなドロドロとした欲望が渦巻いていた。
リビングのソファに腰掛けた神宮寺は、ごく自然な動作で有希子を自分の膝の上に乗せた。
「さて、有希子ちゃん。最近は何の本を読んでいるのかな?」
「えっとね、ママが選んでくれた妖精さんの絵本! とっても素敵なの!」
「ほう、それは素晴らしい。君は妖精のように純粋なままでいなさい。外の世界には、汚い泥水のようなものがたくさんあるからね……」
神宮寺は有希子の耳元で囁きながら、その首筋に顔を近づけた。
スゥ、と。
深く、深く息を吸い込む。
高級なオーガニックソープの香りと、まだ汗腺の未発達な子ども特有の、甘く無垢な匂い。
神宮寺の顔が恍惚に歪む。彼は有希子の存在そのものを、まるで極上の麻薬のように肺の奥深くまで吸い込んでいた。
少し離れたキッチンカウンターからその異様な光景を見ていた泰造と恵美子は、止めるどころか、満足げにワイングラスを傾けていた。
スポンサーが商品に満足している。それは彼らにとって、これ以上ない喜びなのだ。
「有希子、おじさまはお仕事でお疲れなの。そろそろお部屋に戻って、お人形で遊んでいなさい」
「はーい! おじちゃま、またね!」
恵美子の声掛けで有希子が膝から降りると、神宮寺は名残惜しそうにその小さな背中を見送った。
有希子の足音が二階へと消え、完全に姿が見えなくなった瞬間。
温厚な「おじさん」の仮面が剥がれ落ち、神宮寺の顔に絶対的な支配者の笑みが浮かんだ。
「素晴らしい」
神宮寺はブランデーのグラスを揺らしながら、泰造たちに向かって深く頷いた。
「肌の滑らかさ、髪の艶、そして何より……あの無知で愚かな瞳。自分が周囲の大人から心底愛されていると信じ切っているあの顔! 年間5000万の価値は十分にある。君たちの『飼育』は完璧だ、浅田くん」
「勿体なきお言葉です、会長。有希子には、外の汚れた情報(インターネットや俗悪なテレビ番組)は一切与えておりません。彼女の世界は、我々が用意した美しいものだけで構成されています」
「ええ。反抗期など決して来ないよう、完全に依存させておりますわ」
泰造と恵美子が卑屈な笑みを浮かべて擦り寄る。
神宮寺は葉巻を取り出し、ゆっくりと火を点けた。紫煙が、高級感あふれるリビングに禍々しく広がっていく。
「あと10年だ」
神宮寺の低い声が、静寂の空間に響いた。
「あと10年。あの無垢な果実が18歳に熟すその日まで、絶対に傷一つ、虫一匹寄せ付けるな。彼女が初めて知る『絶望』は、私がこの手で直接与えてやるのだから」
「もちろんでございます」
大人三人の、狂気に満ちた笑い声がリビングに低く響き渡る。
その頃、二階の子供部屋では。
有希子が神宮寺からもらったビスクドールを抱きしめながら、ベッドの上で幸せそうに微笑んでいた。
「おじちゃま、優しかったな。パパもママも大好き。私、世界で一番幸せな女の子だわ……」
有希子は知る由もない。
自分が大切に抱きしめているその人形が、いずれ自分自身が辿る「感情を持たないただのオモチャ」としての未来を暗示していることに。
彼女の純白の人生は、あと10年後に迎える「出荷」の日に向けて、着実に、そして完璧にカウントダウンを刻み続けていた。
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