歪んだ美食家との密約――18年後の出荷契約
歪んだ美食家との密約――18年後の出荷契約
東京・銀座の裏路地にひっそりと佇む、完全紹介制の高級料亭。
その最奥にある防音設備の整った特別VIP室には、最高級の伽羅の香りが仄かに漂っていた。
「――それで? わざわざ私の貴重な時間を割いてまで、浅田くんが持ち込みたかった『極秘の投資案件』とやらは、一体何かな」
上座で紫煙をくゆらせながら、低く、鼓膜にねっとりと絡みつくような声で問いかけたのは、神宮寺善三だった。
表向きは不動産や多数の企業を束ねるコングロマリットの会長だが、裏社会にも太いパイプを持ち、あらゆる非合法な娯楽を知り尽くした男。現在40歳という働き盛りでありながら、その眼光は老獪な捕食者のように鋭く、冷たい。
対面して座る浅田泰造は、空調が完璧に効いた室内であるにもかかわらず、額にじっとりと嫌な汗を浮かべていた。
目の前の男は、機嫌を損ねれば泰造の会社など指先一つで社会的に抹殺できる怪物だ。しかし、この商談を成功させれば、浅田家は未来永劫の富を約束される。
「はい。神宮寺会長……本日は、会長の『真の御趣味』に叶うであろう、至高のプロジェクトをご提案に上がりました」
泰造は震えを抑えながら、テーブルの上に分厚い革張りのファイルと、一枚の写真を差し出した。
写真に写っているのは、数日前に産まれたばかりの娘、有希子だ。純白のおくるみに包まれ、天使のように無邪気な寝顔を見せている。
神宮寺は葉巻を灰皿に置き、写真を手に取った。その眉が、微かにピクリと動く。
「……赤ん坊? 人身売買の仲介なら他を当たれ。私は裏のオークションで買えるような、出来合いの女には興味がないと以前から言っているはずだがね。貧困から売られた小娘も、薬で思考を奪われた女も、ひどく退屈でひもじい味がする」
「ええ、重々承知しております。だからこそ……これは、会長のためだけに一から作り上げる『オーダーメイドの芸術品』の企画書なのです」
泰造の言葉に、神宮寺の目がスッと細められた。
泰造はファイルをめくり、自らが数日徹夜して組み上げた狂気の事業計画――『有希子・純粋培養プロジェクト』の全貌を熱弁し始めた。
「この子は私の実の娘です。妻は容姿端麗で、遺伝的な骨格や肌質は保証します。この娘を、本日この日から18年間……会長の好みに合わせて、我々が完璧な『箱庭』の中で飼育いたします」
「……ほう?」
「食事、肌のケア、交友関係、読む本、見るテレビ。すべてを徹底的に管理します。ですが、ただの監禁では思考が澱み、会長の求める『無垢な美しさ』は失われてしまう。ですから我々は、両親からの『惜しみない愛情』という完璧な洗脳を施します。娘は自分が世界一愛されている幸福な存在だと信じて疑わず、素直で、心優しく、大人の言うことを何でも聞く純白の人形に育つでしょう」
泰造は身を乗り出し、ギラギラとした目で神宮寺を見つめた。
「そして18年後。心身ともに最も美しく熟れた18歳の誕生日に……傷一つない完璧な状態で、会長のもとへ『出荷』いたします」
静寂が、VIP室を満たした。
神宮寺は写真をテーブルに置き、目を閉じて深く息を吸い込んだ。そして、低く、しかし腹の底から湧き上がるような歓喜の笑い声を上げた。
「くっ……ふふ、あははははっ! 浅田くん、君は本当にイカれているな。実の娘を、私への貢ぎ物として18年かけて育て上げると言うのか」
「私は投資家です。不良債権を抱える趣味はありません。最高の価値を生む商品に育てることこそが、私の使命ですから」
神宮寺の笑い声がピタリと止む。
その双眸が、爛々とした欲望の色を帯びて泰造を射抜いた。
「素晴らしい。ただ抱くためだけの処女など、三流の成金が喜ぶガラクタだ。私が求めているのは『ストーリー』なのだよ。両親に愛され、世界は美しいと信じ切って育った無菌室の少女。その純白のキャンバスが、18歳の夜、私が用意した絶望の絵の具で黒く塗り潰される瞬間……! あぁ、想像しただけで喉が渇く」
神宮寺はグラスに注がれた高級なコニャックを一口含み、舌なめずりをした。
「契約しよう、浅田くん」
「……っ! ありがとうございます!」
「ただし、条件がある」
神宮寺の声が一段低くなり、絶対的な支配者の響きを帯びた。
「第一に、物理的な『傷』は一切許さん。幼少期の転び傷、日焼けによるシミ、安物のシャンプーによる髪の痛み。すべてにおいて最高級のケアを怠るな。虫刺され一つでも見つけたら、契約は即刻破棄する。
第二に、精神の純潔だ。下世話な大衆文化、特に『恋愛』には一切触れさせるな。彼女の心は、純粋なまま出荷の日を迎えさせろ。
第三に――」
神宮寺の唇の端が、三日月のように吊り上がる。
「私は時折、『親切な親戚のおじさん』として、君たちの家を訪問させてもらう」
「……おじさん、ですか?」
「そうだ。彼女が私の用意した箱庭で、どれほど無邪気に、愚かに育っていくか。この目で定期的に鑑賞し、愛情を注ぐふりをしてやるのだ。彼女が私に懐けば懐くほど、18年後の収穫祭は極上のエンターテインメントになるだろう?」
なんと悪趣味で、悍ましい男か。
泰造の背筋に冷たいものが走ったが、彼にとって重要なのは神宮寺の嗜好ではなく、彼が提示する対価だけだった。
「承知いたしました。では、資金面のお話を……」
「年間、5000万円。これを『養育費および設備投資費』として君のダミー会社に振り込もう。そして18年後の誕生日、約束通り彼女が完璧な状態で私のベッドに献上された暁には……ボーナスとして、現金で10億円を支払う」
「じゅ、10億……!」
泰造の呼吸が荒くなる。
娘一人を騙し通すだけで、生涯遊んで暮らせるほどの莫大な富が転がり込んでくるのだ。断る理由など、天地がひっくり返っても存在しなかった。
「契約成立だな、浅田くん」
「はい。神宮寺会長……いえ、『おじさま』。有希子を、必ずやご満足いただける極上の果実に育て上げてみせます」
二人の男は、悪魔の契約を交わすように、固く握手を交わした。
その手は、一人の少女の人生と尊厳を、数億の紙切れと等価交換する穢れに満ちていた。
* * *
数時間後。
都内の一等地にある超高級マンションの最上階。
帰宅した泰造を出迎えたのは、真新しいベビーベッドの前で赤ん坊をあやす妻の恵美子だった。
「あなた、おかえりなさい。……どうだったの?」
期待と不安の入り交じった声で尋ねる恵美子に対し、泰造はコートを脱ぎ捨てながら、隠しきれない狂喜の笑みを浮かべた。
「大成功だ。年間5000万の予算が降りた。しかも18年後の出荷日には、10億だ」
「まあ……! 10億……!」
恵美子は両手で顔を覆い、恍惚としたため息を漏らした。
彼女の頭の中にはすでに、娘への教育にかこつけて手に入る最高級のブランド品や、エステの予約、ママ友たちの上位に君臨する自分の姿しかない。
二人は揃って、ベビーベッドを覗き込んだ。
そこには、神宮寺から『商品』としての価値を認められ、莫大な値札を付けられた有希子が、何も知らずに健やかな寝息を立てている。
「有希子。可愛い、私の宝物……。ママが、世界で一番綺麗なお姫様にしてあげるからね」
恵美子は、まるで数千万円の宝石を撫でるような手つきで、有希子の柔らかい頬をそっと撫でた。
泰造もまた、愛おしそうに目を細める。
「ああ。絶対に傷一つつけず、純白のまま……18年後に、あの化け物の胃袋に放り込んでやる」
静まり返った夜の寝室に、両親の歪んだ愛情という名の『呪い』が満ちていく。
彼らは知っていた。この子がこれから与えられるすべての幸福が、18年後の絶望を深めるためのスパイスに過ぎないことを。
そして読者だけが知っている。
この日から18年間、浅田有希子という少女には、自らの意思で選べる未来など一秒たりとも存在しないという残酷な真実を。
カチャリ、と。
目に見えない重い南京錠が、有希子の人生に掛けられた。
地獄へ向かうための、世界一甘く優しい箱庭の扉が、今完全に閉ざされたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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