産声は絶望の始まり――極上商品の青写真
祝福なき産声と、悪魔の事業計画
「――オギャア、オギャアッ!」
無機質な白い壁に囲まれたVIP専用の特別分娩室に、新しい命の誕生を告げる甲高い産声が響き渡った。
血と羊水、そして消毒液の入り混じった独特の匂いが漂う中、汗だくになった妻の恵美子が、分娩台の上で荒い息を吐きながらも安堵の笑みを浮かべている。
「おめでとうございます、浅田様。元気な女の子ですよ」
助産師が朗らかな声で告げ、手早く汚れを拭き取られた赤ん坊を、肌触りの良い純白のおくるみに包み込んだ。そして、立ち会い出産のために防護服を着ていた父親――浅田泰造の腕の中に、その小さな命をそっと抱かせた。
赤みを帯びた猿のような顔。ギュッと力強く握りしめられた小さな拳。命の熱を帯びたその小さな塊は、泰造の腕の中で必死に生きる喜びを主張するように、全身を震わせて泣き声を上げ続けている。
本来であれば、父親として感動の涙を流し、新たな家族の誕生を妻と喜び合うべき至福の瞬間である。
しかし、泰造の瞳には、一切の温度が存在しなかった。
(……女、か。最悪だな)
腕の中の赤ん坊を見下ろす泰造の脳内を支配していたのは、新しい命への愛おしさでも、痛みに耐えた妻への労いでもない。極めて冷徹で、機械的な「損益計算」だった。
泰造は、若くして投資会社を立ち上げ、冷酷なまでの合理主義で莫大な富を築き上げた男である。彼にとって、人生におけるすべての事象は「投資」と「回収」、そして「資産」か「負債」かの二元論でしか成り立っていない。
彼にとって自らの子供とは、自分の老後を盤石にし、浅田家の資産をさらに拡大させるための最も有望な『投資先』でなければならなかった。だからこそ、自分の事業を引き継ぎ、将来的に強大な稼ぎを生み出す「男」を強く望んでいたのだ。
しかし、産まれてきたのは女だった。
泰造の冷え切った計算式によれば、現代社会において「良家の娘」を育てることは、割に合わない不良債権を抱え込むに等しい。
名門の幼稚園からエスカレーター式に大学まで通わせれば、最低でも数千万の教育費が飛ぶ。それに加えて、着飾らせ、ピアノやバレエといった役に立たない習い事をさせ、上流階級としての教養を身につけさせるための維持費。
そして極めつけは、それほどの莫大な資本(金と時間)を投じて育て上げたとしても、最終的にはどこかの馬の骨と結婚して家を出ていき、他人の家の戸籍に入ってしまうという事実だ。
自らが投じた数千万円の投資が、全くの無価値となって手元から消え去る。利回りゼロ。いや、完全なマイナスである。
(ふざけるな。冗談じゃない。俺の人生において、見返りのない投資などあり得ない。こんな負債を抱えるために、高いマタニティクリニックのVIP費用を払い続けてきたわけではないぞ)
泰造の端正な顔に、微かな、しかし決定的な苛立ちの皺が刻まれた。
分娩台の上から夫の横顔を窺っていた恵美子は、その僅かな表情の変化を敏感に察知し、スッと血の気を引かせた。
彼女は泰造の徹底した合理主義と、自らの利益にならないものを容赦なく切り捨てる冷酷さを誰よりも知っている。以前、業績が少しでも傾いた子会社を、泰造がゴミでも捨てるように切り売りし、大勢の社員を路頭に迷わせたのを間近で見てきたからだ。
(どうしよう……男の子じゃなかった。見捨てられる……!)
恵美子の背筋を悪寒が走る。
男の子を産めなかった自分は、夫からの寵愛と評価を失い、この裕福で快適な生活から切り捨てられるのではないか。毎月の限度額のないクレジットカード、高級エステ、ママ友たちの間で浴びる羨望の眼差し。そのすべてを奪われる恐怖が、恵美子のわずかな母性を一瞬にして塗りつぶした。
「……あなた。ごめんなさい、私……」
掠れた声で謝罪する妻を、泰造は一瞥だにしなかった。
彼の視線は、腕の中で泣き疲れて微睡み始めた赤ん坊の顔に完全に釘付けになっていた。
(……待てよ?)
泰造は、自らの腕の中にある「不良債権」の顔を、値踏みするようにじっと観察した。
まだ産まれたばかりだが、恵美子譲りの透き通るような白い肌と、形の良い小さな鼻梁、そして長い睫毛。顔のパーツの配置は完璧なシンメトリーを描いており、成長すれば間違いなく人の目を引くほどの美貌に育つであろう片鱗が、すでにそこにあった。
その瞬間、泰造の脳裏に、かつてビジネスの席で交わしたある「裏社会の富豪」との会話が鮮明にフラッシュバックした。
『浅田くん。世の中にはね、ただ抱くための処女には興味がないという、酔狂な美食家がいるんだよ』
紫煙をくゆらせながら、爬虫類のようなねっとりとした笑みを浮かべていた男――神宮寺善三。総資産数百億とも言われる、底知れぬ欲望を抱えた怪物。
『生まれ落ちた瞬間から無菌室で育てられ、外の世界の汚れを一切知らず、完璧な美しさと無知を保ったまま熟成された果実。……その18年間のストーリーごと買い取れるなら、億単位の金をキャッシュで積むという狂人がね。私は、結果としての純潔が欲しいわけじゃない。一人の少女が、私の好みの味に仕上がっていくその”過程”を独占したいのだよ』
泰造の目が、スッと細められた。
腕の中の赤ん坊を見る目が、ただの「負債」を見るものから、「極上の金融商品」を見定める冷徹な相場師のそれへと反転した瞬間だった。
(そうだ。普通に育てるから投資を回収できないんだ。最初から『売却』を前提として、最高値を叩き出すためのプロデュースをすればいい)
泰造の胸の奥で、ドス黒い野心が音を立てて燃え上がった。
ただの美しい女なら、いくらでもいる。金を出せば買える。だが、外界の汚れを一切知らず、親の愛情という完璧な洗脳下で育てられた、絶対的に従順で無垢な少女。
あの神宮寺という怪物をスポンサーにつけ、18年計画で「純粋培養」するのだ。
日々の食事、肌のケア、交友関係の制限、思考の誘導。すべてをコントロールし、スポンサーの嗜好に合わせた完全なオーダーメイドの芸術品として仕上げる。
18年後、この娘は数千万の負債どころか、数億円の利益を浅田家にもたらす「金の卵」となる。
「……何を謝る必要があるんだ、恵美子」
泰造の唇が、ゆっくりと弧を描いた。それは父親の慈愛に満ちた笑顔などでは決してなく、底知れぬ狂気を孕んだ悪魔の笑みだった。
「可愛い女の子じゃないか。俺たちの、大切な……本当に価値のある、最高の娘だ」
「あ、あなた……?」
予想外の優しい言葉に、恵美子は戸惑いの声を漏らした。
泰造は赤ん坊をコット(新生児用のベッド)に寝かせると、ゆっくりと妻のベッドに近づき、その耳元に顔を寄せた。そして、周囲で片付けをしている助産師たちに聞こえないほどの低い声で、地獄の契約を持ちかけた。
「よく聞け、恵美子。この子を、最高級の『商品』として育てるんだ」
「……え?」
「莫大な金になる。俺が最高のパトロンを見つけてくる。お前には、この子を傷一つない、純白で無知な人形に育て上げるための『完璧な飼育係』になってもらう。18年後、この娘を出荷するその日まで……絶対に、外の汚れに触れさせるな。俺たちの手で、完全な箱庭を作り上げるんだ」
その言葉の異常性に、恵美子は一瞬だけ息を呑み、目を見開いた。
自分の腹を痛めて産んだ我が子を、売り飛ばすための商品として飼育しろと言われているのだ。普通の母親であれば、狂乱して夫を罵倒し、赤ん坊を抱きしめて逃げ出す場面だろう。
だが、恵美子もまた、泰造の妻として選ばれただけのドス黒い歪みを持っていた。
彼女の根底にあるのは、娘への無償の愛ではなく、自らの虚栄心と自己保身である。
(夫に見捨てられずに済む。どころか、この子を『管理』するだけで、私はこれからもこの贅沢な生活を約束される……!)
しかも、自分は「娘を美しく着飾り、徹底的に溺愛する完璧な母親」という理想の役を演じるだけでいいのだ。娘への教育費や美容代という名目で、夫から無限の予算を引き出すこともできる。まるで、最高級の着せ替え人形を与えられたようなものだ。
金と地位への執着が、瞬時に母親としての倫理観を跡形もなく喰い破った。
「……ふふ、ふふふっ」
恵美子の喉から、歪な笑い声が漏れた。
産後の疲労で青白かった彼女の顔に、妖しい恍惚の色が浮かび上がる。
「ええ、ええ……わかったわ、あなた。誰よりも美しく、素直で、私たちなしでは生きられないような……最高の『いい子』に育て上げてみせるわ。私たちの、大切な商品ですものね」
「ああ、そうだ。お前なら最高の管理ができると信じているよ。予算は惜しまない」
夫婦は視線を絡ませ、分娩室の片隅で、血よりも濃い狂気に満ちた共犯関係を結んだ。
そんな親たちのドス黒い思惑など知る由もなく、コットに寝かされた赤ん坊は、無邪気に小さな口を開けてスヤスヤと眠っている。
「名前は、有希子にしよう」
泰造が、まるで新しい事業計画のプロジェクト名を発表するように、堂々と宣言した。
「雪のように白く、純粋で……そして我々に、莫大な希望(金)をもたらす子だ。これ以上の名前はないだろう?」
「有希子……。本当に、素晴らしいお名前ね」
恵美子がうっとりと呟く。
病室に、再び医師と看護師が戻ってくる足音が聞こえた瞬間、二人は顔に張り付いた狂気を一瞬にして拭い去り、「娘の誕生に涙ぐむ、心優しい理想の夫婦」の完璧な仮面を被った。
「有希子、産まれてきてくれてありがとう……。パパもママも、あなたのことを世界で一番愛しているわ」
恵美子が感動の涙を流しながら偽りの愛情を囁き、泰造が優しくその肩を抱く。周囲の医療スタッフたちは、その光景を見て「なんて愛情深いご夫婦だろう」と目を細めた。
かくして、一人の少女の人生は、産声を上げたその瞬間から完全に強奪された。
愛という名の、絶対に逃れられない檻。
優しさという名の、甘く残酷な洗脳。
18年後に確定している「絶望の出荷」に向けて、浅田有希子という名の極上商品の純粋培養が、今、静かに幕を開けたのである。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




