最後の晩餐と純白の生贄――「大人の仲間入りね」と閉ざされた扉
最後の晩餐と純白の生贄――「大人の仲間入りね」と閉ざされた扉
その日の朝、浅田有希子は微かな熱っぽさと共に目を覚ました。
「ん……ぁ……」
体を起こそうとすると、手足の芯がゼリーのように溶けてしまったかのような、不思議な倦怠感があった。しかし、決して不快ではない。むしろ、体の奥底からフワフワとした多幸感が湧き上がり、皮膚の表面がやけに敏感になっているような気がする。
一週間、母親の恵美子から「最高に美しくなるための魔法の薬」として毎晩飲まされてきたあのシロップのせいだとは、有希子は露ほども疑っていなかった。
(今日は、私のお誕生日。いよいよ18歳になるんだわ……)
高鳴る胸を押さえながら、有希子はベッドを降りた。
「おはよう、有希子。お誕生日おめでとう」
「お母様! ありがとうございます」
寝室に入ってきた恵美子は、大きな衣装カバーを恭しく抱えていた。
その中から現れたのは、神宮寺が手配した特注の純白のドレスだった。最高級のシルクとフランス製のレースがふんだんに使われ、胸元には真珠があしらわれている。まるで、穢れを知らない花嫁のウェディングドレスのようだった。
「さあ、着替えましょう。今日はあなたが世界で一番美しいお姫様になる日よ」
恵美子の手によって、ドレスが有希子の体にぴったりと着せられていく。
コルセットで過剰に締め付けられていた胸元が解放され、代わりに、ドレスの計算し尽くされたカッティングが有希子の成長した女性らしい曲線を、痛いほど艶かしく浮かび上がらせていた。
鏡の前に立った有希子は、そこに映る「完璧なレディ」の姿に息を呑んだ。
「綺麗……これが、私……?」
「ええ、そうよ。私たちの最高傑作だわ」
恵美子が有希子の背後から肩を抱き、鏡越しにネットリと視線を絡ませる。
「お父様も、お母様も、おじさまも……今日という日を、本当に心待ちにしていたのよ。さあ、行きましょう。極上のパーティー会場へ」
* * *
黒塗りのリムジンに揺られ、浅田一家が到着したのは、都内の一等地に聳え立つ外資系超高級ホテル『グランド・インペリアル』だった。
一般客のいない地下のVIP専用エントランスから、専用のシークレットエレベーターに乗り込む。行き先は、最上階のペントハウス・スイート。
エレベーターが静かに上昇していく間、有希子は緊張と薬の作用で上気した顔を、両手でパタパタと扇いだ。
「緊張しているのか、有希子」
「はい、お父様……。こんなに素晴らしいホテル、初めてですから」
泰造が有希子の頭を優しく撫でる。
「お前は浅田家の誇りだ。今日は何もかも忘れて、存分に楽しみなさい」
チーン、という澄んだ音と共に、エレベーターの扉が開いた。
そこは、ワンフロアすべてを貸し切った巨大なスイートルームだった。壁一面のガラス窓からは、東京の煌びやかな夜景が宝石箱のように広がっている。
部屋の奥、最高級のシャンデリアの下に設えられたディナーテーブルの前に、一人の男が立っていた。
「やあ。待っていたよ、私の可愛いお姫様」
完璧に仕立てられたタキシードに身を包み、ワイングラスを傾けている神宮寺善三だった。
彼の視線は、有希子の純白のドレス姿を捉えた瞬間、獲物を前にした獣のように爛々と輝き、その瞳孔が極限まで収縮した。
「おじさま……! 本日はこのような素晴らしい席をご用意いただき、本当にありがとうございます。ドレスも、ぴったりでした」
「ああ……美しい。美しいよ、有希子ちゃん。君は今夜、世界中のどんな宝石よりも輝いている」
神宮寺はゆっくりと歩み寄り、有希子の手を取って手の甲に深くキスを落とした。
本来なら嫌悪感を抱くはずのそのねっとりとした唇の感触も、薬のせいで感覚が麻痺している有希子には「大人のレディとしての正式な挨拶」にしか感じられなかった。
「さあ、席に着きたまえ。極上の晩餐を始めよう」
四人がテーブルを囲み、専属のシェフが運んでくる見たこともないような高級食材のコース料理が始まった。
キャビア、フォアグラ、トリュフ。有希子の18年間で一度も口にすることを許されなかった「外の世界の美食」たちが、次々と皿を彩る。
ワイングラスには、未成年である有希子のためと称して、葡萄のジュースが注がれた。(しかしその中には、さらに強烈な媚薬が致死量すれすれまで混入されていた)。
「有希子。18歳の誕生日に、乾杯」
「乾杯!」
グラスを打ち合わせ、有希子は甘いジュースを喉に流し込んだ。
美味しい。何もかもが美味しくて、美しくて、夢のようだ。
頭の中がフワフワとして、視界の端が少しだけ白く滲む。体の奥底から、経験したことのないような熱い疼きが込み上げてくるが、有希子はそれを「感動」なのだと勘違いしていた。
ディナーが終盤に差し掛かった頃、泰造が優しげな声で口を開いた。
「有希子。お前が産まれてから18年。本当に、あっという間だったよ」
「お父様……」
「外の世界の泥水からお前を守るため、時には厳しくしたこともあった。だが、お前は本当に素直に、傷一つなく、我々の理想通りの『美しい娘』に育ってくれた。こんなに嬉しいことはない」
泰造の言葉に、恵美子も涙ぐむ演技を交えながら頷いた。
「ええ、本当に。お母様はね、あなたをこの手でここまで育て上げられたことを、心から誇りに思うわ。あなたは、私たちの最高の『宝物』よ」
両親からの最大級の賛辞。
有希子の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
外の世界でたった一度だけ信じた男(蓮)に裏切られ(と思い込まされ)、絶望の淵にいた自分を、変わらぬ愛情で見守り続けてくれた両親とおじさま。
「お父様、お母様、おじさま……っ」
有希子は立ち上がり、涙で声を詰まらせながら、深々と頭を下げた。
「私を産んでくださって、育ててくださって、本当にありがとうございます。私、外の世界の恐ろしさを知って……皆様の愛情がどれほど深いか、痛いほどわかりました。私はもう一生、皆様のそばから離れません。皆様に恩返しをするために、この命を使います……っ!」
それは、読者から見れば吐き気がするほど惨めで、胸糞の悪い「洗脳の完成」の証明だった。
自分を家畜として売り飛ばそうとしている毒親たちに対し、これ以上ない感謝と忠誠を誓う少女。
「……くっ、ふふっ。あはははははっ!」
たまらず、神宮寺が肩を震わせて笑い出した。
それは温厚なおじさんの笑い声ではなく、獲物が自ら罠の奥底まで歩いてきて、自ら首輪をはめたことに対する、純粋な嘲笑だった。
有希子は、神宮寺がなぜ笑っているのかわからず、不思議そうに瞬きをした。
「お、おじさま……?」
「いや、すまない。あまりにも君が愛おしくてね……最高だよ、有希子ちゃん。君のその言葉が聞きたくて、私は今日まで莫大な金を払い続けてきたのだから」
「え……? お金……?」
有希子の頭の中に、小さなクエスチョンマークが浮かんだ。
しかし、思考がひどく鈍り、言葉の意味を正確に処理できない。体が熱い。息を吐くたびに、甘い熱が喉の奥から漏れそうになる。
泰造が、ゆっくりと立ち上がった。
それに合わせて、恵美子も立ち上がる。
「さて。ディナーはここまでだ」
「えっ? お父様、お母様、どこへ行くの?」
有希子が問いかけると、恵美子は有希子の背後に回り、その首筋に顔を寄せて、耳元で毒蛇のように囁いた。
「有希子。今日からあなたは18歳。大人のレディよ」
「お母様……?」
「だから……ここからは『大人の仲間入り』の儀式なの」
恵美子は有希子の純白のドレスの背中を、愛おしそうに、そして値踏みするように撫でた。
「神宮寺会長……いえ、おじさまの言うことを、何でもよく聞くのよ。おじさまが望むことには、すべて『はい』と答えなさい。それが、私たちへの一番の恩返しになるのだから」
「恩返し……おじさまの言うことを、聞く……?」
朦朧とする頭でオウム返しにする有希子を残し、泰造と恵美子は部屋の出口である重厚なマホガニーの扉へと向かった。
「待って、お父様、お母様……! 私を置いていかないで!」
有希子は慌てて立ち上がろうとしたが、足に全く力が入らず、床にへたり込んでしまった。
薬が完全に回っているのだ。
扉の前に立った泰造が、最後に振り返り、この18年間で一度も見せたことのない、氷のように冷徹な「商売人」の顔で言った。
「会長。納品は完了いたしました。18年間の純粋培養プロジェクト……どうか、骨の髄までご堪能ください」
「ああ、ご苦労だった浅田くん。明日の朝、君たちの口座には約束の金が振り込まれているだろう」
神宮寺が、ワイングラスを掲げて答える。
「さようなら、有希子。私たちの、最高に高価な『商品』」
恵美子が嘲笑うように手を振り、泰造が扉を閉めた。
バタン、という重い音に続き。
――ガチャンッ。
外側から、南京錠のような頑丈な鍵がかけられる、冷たく無機質な金属音がスイートルームに響き渡った。
「え……? 鍵……?」
床にへたり込んだ有希子は、霞む視界の中で、信じられないものを見るように扉を見つめた。
状況が、理解できない。
両親はなぜ、自分を商品と呼んだのか。なぜ、外から鍵をかけたのか。
「有希子ちゃん」
背後から、低く、鼓膜にねっとりと張り付くような声がした。
振り返ると、神宮寺がタキシードのジャケットを脱ぎ捨てながら、ゆっくりと有希子に近づいてきていた。
その目は、これまで見せていた「親切な親戚のおじさん」のそれでは決してない。18年間、ただこの日のためだけに何億円もの金を注ぎ込んできた、底知れぬ欲望と狂気を隠し持った「真の捕食者」の眼球だった。
「お、おじさま……? これ、どういうこと……? お父様とお母様は……」
有希子が後ずさろうとするが、手足が痺れて動かない。
神宮寺は有希子の前にしゃがみ込み、自らの分厚い手で、有希子の恐怖に引きつった頬をガッシリと掴んだ。
「まだわからないのかい、愚かで可愛い私の果実。君は今日、私という神様に『出荷』されたのだよ」
「しゅっか……? いや、いやぁっ……!」
「君が信じていた愛情も、箱庭の平和も、すべては私が書いた脚本だ。瀬尾蓮という羽虫を君に近づけ、希望を抱かせ、そしてすり潰したのも……すべて私だ。君が絶望の淵から、自らこの鳥籠に戻ってくるように調教するためにな」
その言葉が有希子の脳髄を撃ち抜いた瞬間。
彼女の中で18年間信じ続けてきた「世界」が、ガラスが粉々に砕け散るような音を立てて崩壊した。
――すべてが、嘘。
両親の愛も。先輩の失踪も。この男の優しさも。
「ひっ……ああああっ! いやあぁぁぁぁっ!」
逃げ場のない完全防音の密室に、真実を知って精神が崩壊した少女の、絶望の悲鳴が響き渡った。
「さあ、始めようか。極上の絶望と、本当の『大人』の授業を」
神宮寺の獣のような顔が、悲鳴を上げる有希子の純白の首筋へと、ゆっくりと沈み込んでいった。
読んでいただきありがとうございます。
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