崩壊する精神と十億円の夜――純白のドレスが穢れる時
崩壊する精神と十億円の夜――純白のドレスが穢れる時
「いやあぁぁぁぁっ! お父様っ! お母様ぁっ! 開けて、開けてぇっ!!」
完全防音の分厚いマホガニーの扉を、浅田有希子は力が入らない両手で必死に叩き続けた。
ドンドン、と鈍い音が響くが、外からは何の反応もない。
扉の向こうにいるはずの、自分を世界で一番愛してくれているはずの両親。彼らが自分を「納品」したという現実を、有希子の脳は激しく拒絶していた。
「無駄だよ、有希子ちゃん。このペントハウスは、銃を撃っても隣の部屋には聞こえない特別な防音構造になっている。それに……君の優しいご両親は、今頃スイートルームの別室で、シャンパンを開けて祝杯を挙げている頃だろうからね」
背後から、神宮寺善三の低く濁った声が響いた。
振り返ると、タキシードのジャケットを脱ぎ捨てた神宮寺が、ネクタイを緩めながらゆっくりと近づいてくる。その双眸に宿るドス黒い欲望の炎に、有希子はヒッと喉を引き攣らせ、絨毯の上を這うようにして後ずさった。
「来ないで……っ、おじさま、嘘ですよね!? だって、お父様とお母様は、私を愛して……っ」
「愛? ああ、愛していたとも。君という『数億円の価値がある商品』をね」
神宮寺は嘲笑しながら、懐から一枚の古びた紙を取り出し、有希子の目の前に放り投げた。
絨毯の上に落ちたその紙は、18年前に交わされた『契約書』のコピーだった。
「見てごらん。君が産まれたその日に、君の父親が私と交わした契約書だ。君の18年間の生育権を私に委ね、18歳の誕生日に傷一つない状態で私に引き渡す……その対価として、年間5000万円の維持費と、出荷時のボーナス『10億円』を支払うという誓約書だよ」
「え……?」
「君の着ている特注のシルクも、オーガニックの食事も、すべて私が君の父親に払った金から出ている。君は親に愛されていたんじゃない。私の金で『飼育』されていたんだ」
有希子の視線が、震える文字を追う。
そこには確かに、見慣れた父親・泰造の直筆サインと、実印が押されていた。
そして、自分を人間ではなく「目的物(商品)」として扱う無機質な条文の数々。
(嘘だ……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!)
『あなたは私たちの宝物よ』
優しく髪を梳かしてくれた母の笑顔がフラッシュバックする。
『お前は浅田家の誇りだ』
頭を撫でてくれた父の温もりが蘇る。
あれはすべて、自分がどれだけ高値で売れるかを確認するための「品質チェック」だったというのか。愛情という名の洗脳で、自分を逃げられないように調教していただけだというのか。
「あ、あぁ……あぁぁぁっ……!」
有希子の口から、言葉にならない嗚咽が漏れる。
あまりの絶望に、脳の処理能力が完全に限界を超えていた。
「素晴らしい。なんて素晴らしい表情だ……!」
神宮寺は歓喜の声を上げ、有希子の前にしゃがみ込むと、その純白のドレスの胸元を乱暴に掴んだ。
ビリィッ!!
高価なフランス製のレースとシルクが、無惨な音を立てて引き裂かれる。
18年間、虫一匹触れることすら許されなかった純白の肌が、冷たいホテルの空気に晒された。
「やめてっ! 触らないで、汚いっ、汚いっ!!」
有希子は最後の力を振り絞って神宮寺の胸を突き飛ばそうとした。しかし、腕にはまるで力が入らない。
それどころか、神宮寺の手が肌に触れた瞬間、背筋に電流が走ったような強烈な快感が有希子の脳を突き抜けた。
「ひっ……!? あ、ああっ……」
「おや、どうしたんだい? 嫌がっている割には、随分と声が甘いじゃないか」
「ちがっ……! 体が、熱く、て……っ!」
有希子は自分の体に起きている異常事態に、恐怖で目を見開いた。
神宮寺に触れられているという耐え難い嫌悪感で吐き気がするのに、体が勝手に熱を帯び、敏感に反応してしまうのだ。
「君のお母様に感謝するんだね。彼女がこの一週間、毎晩君に飲ませていた『魔法の薬』……最高級の媚薬と筋弛緩剤のブレンドは、完璧に効いているようだ」
「お母様、が……? あれ、は……お薬じゃ……」
「そう、君を私のベッドの上で最高の娼婦に変えるための、調教薬さ。実の母親から媚薬を飲まされて育った気分はどうだい、有希子ちゃん?」
悪魔の囁きが、有希子の耳元に叩き込まれる。
心がどんなに泣き叫び、拒絶しても、母親によって薬漬けにされた肉体は神宮寺の指先に甘く反応し、熱い吐息を漏らしてしまう。
精神と肉体の致命的な乖離。これこそが、神宮寺が望んだ「極上の屈辱」だった。
「やめ……いやっ、殺して……! こんなの、生きていけないっ……先輩っ、蓮先輩っ……!」
極限の恐怖と快楽の狭間で、有希子は無意識のうちに、自分を救ってくれるはずだった唯一の希望の名前を叫んでいた。
しかし、その名前を聞いた瞬間、神宮寺の顔から笑みが消え、底知れぬ凄みが宿った。
「……瀬尾蓮。あの小僧の名前を、今ここで呼ぶとはね」
「先輩……助けて、先輩っ……!」
「彼が君を助けに来ることは、永遠にないよ。有希子ちゃん」
神宮寺は有希子の顎を乱暴に掴み、逃げ場のない視線で貫いた。
「あの小僧の父親の会社を不渡りで倒産させたのも、多額の借金を背負わせて一家を夜逃げさせたのも……すべて私の手回しだ。君が彼に希望を抱き、『一緒に逃げよう』と誓い合ったあの雨の日に、私が君の親に命じて実行させたんだよ」
「え……?」
「わかるかい? あの小僧の人生を滅茶苦茶にしたのは、君だ。君が彼に希望などというくだらない感情を抱いたから、彼は社会の底辺へと叩き落とされた。君のせいだよ、有希子ちゃん」
ドクン、と。
有希子の心臓が、破裂しそうなほど大きく脈打った。
(私の……せい? 私が、先輩を……?)
唯一の希望だった蓮の不幸が、自分と関わったせいだった。
自分が、彼の未来をすべてすり潰してしまったのだ。
神宮寺の放ったその言葉は、有希子の心に残っていた最後の支柱を、粉々に叩き折った。
「あ……ああ……あぁぁぁぁぁぁっ!!」
有希子の瞳から、完全に光が消え失せた。
焦点の合わない目で虚空を見つめ、糸の切れた操り人形のようにダラリと両腕を床に落とす。心を守るために、有希子の精神が完全に『崩壊』を選んだ瞬間だった。
「ははっ……あはははははっ! 完成だ! これだ、私が18年間待ち望んでいた絶望の味だ!」
精神が死に絶え、ただ薬によって発情させられただけの純白の肉の塊。
それを見下ろす神宮寺の目は、狂喜に満ちていた。
彼は有希子の首元にかかっていた「南京錠のネックレス」を乱暴に引きちぎり、その純白のドレスの残骸をすべて剥ぎ取った。
「いただきます。私の、最高のディナー」
窓の外に広がる東京の美しい夜景を背に、狂った富豪による、純白の少女への凄惨で甘美な「食事」が始まった。
有希子の口からは、もはや意味のある言葉は紡がれず、ただ薬に支配された獣のような喘ぎ声と、時折漏れる壊れたような笑い声だけが、防音の密室に空しく響き続けていた。
* * *
翌朝。
眩しい朝日が、グランド・インペリアルホテルのペントハウスに差し込んでいた。
キングサイズのベッドの上には、全身に無数の赤い痣と噛み痕をつけられた有希子が、シーツにくるまって横たわっていた。
その瞳は虚無そのものであり、焦点はどこにも合っていない。頬には涙の跡がカピカピに乾き、美しかった黒髪は汗と涙で無惨に顔に張り付いている。
彼女の人生における「人間としての尊厳」は、昨夜の数時間で、骨の髄まで神宮寺によって喰い尽くされていた。
そのベッドの傍らで、ガウンを羽織った神宮寺が、満足げなため息をつきながらワイングラスを傾けている。
「素晴らしい味だった。数億円の投資に見合う、極上の絶望と純潔だったよ」
神宮寺は有希子の虚ろな頭を撫でると、傍らに置いてあったスマートフォンを手に取り、一つの番号に発信した。
『――はい。おはようございます、会長。いかがでしたでしょうか』
「ああ、浅田くん。最高の夜だったよ。君たちの18年間の純粋培養プロジェクトは、大成功だ。……今、約束の金をスイス銀行の口座に振り込んだ」
電話の向こうから、泰造と恵美子の歓喜の叫び声が漏れ聞こえてくる。
『確認いたしました! きっかり10億円……! ありがとうございます、神宮寺会長!』
『有希子は本当に、親孝行な良い子に育ってくれましたわ!』
自分を地獄に突き落とした張本人たちが、自らを売った金で歓喜の声を上げている。
その声は、静かな部屋の中で有希子の耳にも届いていたはずだが、ベッドの上の有希子は瞬き一つせず、ただ虚空を見つめているだけだった。
「これからもよろしく頼むよ。彼女の『所有権』は完全に私に移った。今日から彼女は、私の別荘の地下にある新しい鳥籠で、一生私の人形として暮らすことになる」
『はい! どうぞ、壊れるまで存分にお使いください!』
電話が切れる。
神宮寺はベッドに腰掛け、人形のように動かない有希子の唇に、ねっとりとしたキスを落とした。
「さあ、起きる時間だよ、有希子。今日から君は、名前も過去も持たない、私だけのオモチャだ。永遠に、この地獄から出してはあげないよ」
朝日が照らし出す密室。
18年間の嘘と狂気によって完璧に育て上げられた「純白の商品」は、その役目を終え、誰にも救済されることなく、永遠の暗闇の中へと沈んでいった。
(完)
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