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旅の鍼師


 旅立ちの朝は、

 妙に静かだった。


 山には薄い霧。


 御園堂の軒先では、

 風鈴が小さく鳴っている。


 わらびは店の前へ立ち、

 荷物を見下ろしていた。


 薬包。


 灸箱。


 管鍼筒。


 替えの作務衣。


 そして、

 腹虫紋入りの古い薬袋。


「……本当に行くのか」


 ぼそりと呟く。


 祖父は店先で薬草を干していた。


「嫌なら残れ」

「いや、そういう言い方ずるいだろ」

「外を見ろと言っただけだ」

「理由言えって」


 祖父は答えない。


 ただ、

 腹虫紋の暖簾を見上げていた。


「わさびー」

「誰がわさびだ」


 よしろが荷物の上へ飛び乗る。


 今日は妙に機嫌が悪い。


 仮面も不機嫌そうに揺れている。


「おいてくケ」

「旅なんだから当たり前だろ」

「イヤケ」


 キュッ。


「いてぇっ!」


「お前ほんとそれやめろ!」


 その時。


 店の前へ巨大な影が落ちた。


「準備できたか坊主」


 ガンジだった。


 赤黒い作務衣。


 三稜鍼。


 肩には大荷物。


 どう見ても旅慣れている。


「……なんでついてくるんだよ」

「放っとくと死にそうだから」

「失礼すぎるだろ」


 ガンジは大笑いした。


「主蟲連れてる見習い鍼師なんざ、

 面白ぇに決まってんだろ」


 よしろがじとっと睨む。


「キライケ」


 キュッ。


「いてっ!」


「ははは!!」


 祖父が静かに近づいてきた。


 わらびへ、

 一本の毫鍼を差し出す。


 黒い鍼。


 見たことのない材質。


「これは?」

「御園の鍼だ」

「いや説明になってねぇ」

「使う時が来たら分かる」


 そう言って、

 祖父はわらびの額を軽く小突いた。


「腹ばかり空かせるな」

「じいちゃんに言われたくない」


 村を出る時、

 わらびは一度だけ振り返った。


 御園堂。


 古い薬店。


 腹虫紋の暖簾。


 雨の匂い。


 漢方の香り。


 ずっとそこにあった景色。


「……行くか」

「だんごケ」

「朝から食うのかよ」

「たべるケ」


 きゅるっ♪


 わらびの腹も鳴る。


 ガンジが笑った。


「ほんと変な共生してんなお前ら」


 山道を下り、

 三人と一匹は街道へ出た。


 旅人。


 行商。


 荷車。


 村の外は、

 思ったよりずっと騒がしい。


 よしろはきょろきょろしていた。


「におい多いケ……」

「人が多いからな」

「ケの匂いもするケ」


 わらびの顔が少し変わる。


「化蟲か?」

「ちがうケ」

「じゃあなんだ」


 よしろは少し黙り込んだ。


 仮面が、

 かたんと揺れる。


「……いやなケ」


 その時だった。


 どんっ!!


 遠くで爆音が響く。


 悲鳴。


 煙。


 街道の先。


 小さな宿場町から、

 黒煙が上がっていた。


「おいおい……」


 ガンジが眉をひそめる。


 わらびは空気を吸い込んだ。


 嫌な感情の匂い。


 怒り。


 恐怖。


 焦り。


 そして――


 強い“ケ”。


「化蟲化してる」


 わらびの顔色が変わる。


「放っといたら死ぬ!」


 わらびが走り出す。


「おい坊主!」


 よしろの帯腕が風へなびく。


「ケが増えてるケ!」


 宿場町へ近づくにつれ、

 空気が変わっていく。


 人々が逃げ惑っていた。


「化蟲だ!!」

「離れろ!!」


 黒い“ケ”が、

 霧みたいに漂っている。


 そして。


 宿場町の入口には、

 白装束の集団が立っていた。


 全員、

 白い蓮の紋を付けている。


 清浄局。


 その中央。


 長い銀髪の少女が、

 静かに立っていた。


 周囲が騒いでいるのに、

 少女だけが異様なほど静かだった。


 冷たい目。


 白い鍼筒。


 感情を切り落としたみたいな空気。


 少女の目が、

 よしろで止まる。


 空気が凍った。


「……主蟲」


 静かな声だった。


 だが次の瞬間。


 少女の殺気が、

 一気に膨れ上がる。


「なぜここにいる」


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