怒蟲
御園堂の朝は早い。
雨上がりの山道を、
薬草籠を背負ったわらびが歩いていた。
後ろから、
ぺたぺたと足音。
「まだねむいケ……」
「じゃあ来るなよ」
「イヤケ」
キュッ。
「いてっ」
わらびが腹を押さえる。
よしろは眠そうに仮面を揺らしながら、
わらびの背中へ寄りかかった。
昨日の化蟲。
あれからずっと、
わらびの中に嫌な感覚が残っていた。
あの内蟲は、
最後に確かに“感情”を流してきた。
飢え。
孤独。
寒さ。
まるで人間みたいだった。
「……内蟲って、なんなんだ」
ぽつりと呟く。
よしろは少し黙り込み、
やがて小さく言った。
「わからないケ」
珍しく、
本当に分からない声だった。
その時。
「ふざけんなぁ!!」
山の下から怒鳴り声が響いた。
わらびが顔を上げる。
村道。
男が一人、
荷車を蹴り飛ばしていた。
目が真っ赤だ。
肩で荒く息をしている。
その腹。
黒い内蟲が、
どくどくと脈打っていた。
「……怒蟲か」
わらびが眉をひそめる。
「近づくケ」
「分かってる」
男の周囲には、
怯えた村人達。
「最近ずっとああなんだ……」
「急に怒鳴るようになって……」
男は地面を殴りつけ、
さらに叫んだ。
「全部俺のせいだってかぁ!?」
どんっ!!
地面が割れる。
わらびの顔色が変わる。
「おいおい……」
怒蟲が、
化け始めていた。
肩から黒い筋が浮き出ている。
化の兆候。
「わらび」
よしろが低く言う。
「ケが濃いケ」
きゅるる……
わらびの腹が重く鳴る。
怒りが流れ込んでくる。
悔しい。
苦しい。
誰も分かってくれない。
働いても。
耐えても。
責められる。
腹の奥が、
焼けるみたいに熱かった。
「……っ」
わらびが顔をしかめる。
怒りの奥にある感情が、
流れ込んでくる。
苦しい。
助けてほしい。
でも。
怒鳴ることしかできない。
「まだ間に合う」
わらびは管鍼筒へ手を伸ばした。
しかしその瞬間。
ごぉんっ!!
重い音が響く。
巨大な三稜鍼が、
男の目の前へ突き刺さった。
「――暴れんな馬鹿野郎!!」
山道の上。
大男が立っていた。
赤黒い作務衣。
無精髭。
肩には巨大な鍼筒。
そして腰には、
三角刃の太い三稜鍼。
男はにやりと笑った。
「久々にデカい怒蟲だなぁ」
わらびが呆れ顔になる。
「……誰だよあんた」
男は肩を鳴らしながら笑う。
「通りすがりの鍼師だ」
どんっ。
三稜鍼を肩へ担ぐ。
「ガンジって呼ばれてる」
怒蟲化した男が咆哮する。
黒い感情が噴き上がった。
怒り。
苛立ち。
行き場を失った感情。
だがガンジは笑っていた。
「いいねぇ」
怒りを前にして、
楽しそうだった。
「腹ァ立ってんじゃねぇか」
ガンジが口角を吊り上げる。
「溜め込みすぎなんだよ」
次の瞬間。
ガンジが地面を蹴る。
轟音。
一瞬で間合いを詰め、
三稜鍼を振り抜いた。
ぶしゅっ!!
黒い“ケ”が、
血みたいに噴き出した。
「がっ……!?」
男の身体が震える。
怒りが、
腹から無理やり引きずり出されていく。
黒い感情が、
煙みたいに散った。
「……っ、あ……」
男の膝が崩れる。
涙が落ちた。
「なんで俺ばっか……」
怒りの奥にあった声が、
ぽつりと零れる。
わらびは目を細めた。
「強引だな」
「細ぇ鍼ばっか使ってると、
こういう時困るぞ坊主」
ガンジは笑いながら、
三稜鍼を肩へ担ぎ直した。
その時だった。
よしろが、
ガンジを見てぴたりと止まる。
仮面が揺れる。
「……イヤケ」
キュッ。
「いてっ!」
わらびが腹を押さえる。
「お前またかよ!」
ガンジは大笑いした。
「なんだそりゃ!」
しかし次の瞬間。
ガンジの表情が少し変わる。
視線。
わらびの腰。
薬袋。
そして――
腹虫紋。
「……その紋」
空気が少しだけ変わる。
わらびは眉をひそめた。
「なんだよ」
ガンジは少し黙り込み、
やがて小さく笑った。
「いや」
だがその目は、
笑っていなかった。




