ケの匂い
ぶわり。
黒い“ケ”が揺れた。
巨大腹虫の腹へ刺さった毫鍼が、
細かく震えている。
きゅるるるる……
腹が鳴る。
わらびではない。
巨大腹虫の腹だ。
「……腹減りすぎだろ」
祠の空気は重かった。
湿った土。
腐りかけた供物。
甘ったるい菓子の匂い。
そして、
濁った感情。
巨大腹虫は、
じっとわらびを見ていた。
六本腕。
白い腹。
赤い舌。
その姿は、
御園堂の腹虫紋そのものだった。
「なんなんだよお前……」
よしろが前へ出る。
仮面が、
かたん、と揺れた。
「ケの匂いするケ」
キュッ!!
「いてっ……!」
わらびが腹を押さえる。
痛い。
ただの腹痛じゃない。
感情が流れ込んでくる。
寒い。
暗い。
腹が減る。
誰も来ない。
ずっと独り。
「……っ」
わらびの呼吸が乱れる。
巨大腹虫の身体には、
黒い染みが浮かんでいた。
化。
感情が腐り始めている。
「化蟲化しかけてるのか」
その瞬間。
巨大腹虫が動いた。
ずるり。
「速っ!?」
地面を滑る。
一瞬で間合いを詰め、
六本腕が振り下ろされる。
どごぉっ!!
わらびが横へ飛ぶ。
直後、
背後の木が叩き割られた。
「おいおい……!」
よしろの帯腕が、
警戒するみたいに広がる。
「おなか、
いたいケ」
巨大腹虫は苦しそうだった。
暴れているというより。
どうしていいか分からず、
叫んでいるみたいだった。
きゅるるるる……
腹が鳴る。
その音だけで、
わらびの腹まで痛くなる。
「……やめろよ」
こんなの。
まともに受けたら、
頭がおかしくなる。
でも。
わらびには、
見えてしまう。
感情が。
腹の中が。
流れが。
巨大腹虫の奥で、
黒い感情が渦巻いていた。
飢え。
孤独。
怒り。
寂しさ。
全部、
行き場を失って腐っている。
「……捨てられたのか」
ぴたり。
巨大腹虫の動きが止まった。
赤い目が、
ゆっくりわらびを見る。
その瞬間。
どくん。
感情が、
一気に流れ込んできた。
冷たい山。
雨。
誰も来ない祠。
供物だけ置いていく人間。
腹が減る。
でも。
食っても、
食っても満たされない。
『さみしい』
「――っ!!」
わらびが膝をつく。
涙が零れた。
苦しい。
感情が重すぎる。
よしろが叫ぶ。
「わらび!!」
気づけば。
巨大腹虫が、
目の前まで迫っていた。
六本腕が振り下ろされる。
わらびは咄嗟に、
毫鍼を逆手へ持ち替えた。
「落ち着け!!」
突き刺す。
腹。
ちょうど、
腹虫紋と同じ位置。
びくんっ!!
巨大腹虫の身体が震える。
黒い“ケ”が揺らぐ。
「今だ!!」
よしろが飛ぶ。
ポンポコポン!!
一瞬で虫化。
白い身体。
六本腕。
まるで鏡写しだった。
巨大腹虫が唸る。
だが、
よしろは怯まない。
「たべるケ!!」
がぶり。
黒い“ケ”へ噛みつく。
ずるり。
黒い感情が、
煙みたいに引きずり出された。
孤独。
飢え。
寂しさ。
捨てられた痛み。
よしろはそれを、
静かに飲み込んでいく。
しかし。
仮面へ、
黒い染みが浮いた。
わらびの顔色が変わる。
「おい!!」
よしろの動きが止まる。
「……にがいケ」
黒い“ケ”が、
逆によしろへ流れ込み始めていた。
化。
感情の濁り。
主蟲ですら、
飲み込みきれない。
巨大腹虫が、
苦しそうに鳴いた。
きゅるるる……
わらびは歯を食いしばる。
「一人で抱えんなよ……!」
毫鍼を握る。
流れを見る。
感情を暴れさせない。
止めるんじゃない。
整える。
「落ち着け」
鍼を打つ。
「腹減ってるなら、
ちゃんと流せ」
黒い“ケ”が、
少しずつほどけていく。
怒りが。
孤独が。
静かに崩れていく。
やがて。
巨大腹虫の身体が、
ゆっくり縮み始めた。
六本腕。
白い腹。
赤い舌。
それは最後には、
小さな幼虫みたいな姿になっていた。
祠へ静けさが戻る。
雨音だけが響いている。
わらびはその場へ座り込み、
長く息を吐いた。
「……終わったか」
よしろが、
ふらふら戻ってくる。
仮面を押さえながら、
嫌そうに顔をしかめていた。
「にがかったケ……」
きゅるっ♪
同時に、
わらびの腹が鳴る。
わらびは思わず吹き出した。
「こんな後でも腹減るのかよ」
よしろは少し黙って。
やがて小さく言った。
「……さみしかったケ」
わらびは、
小さくなった腹虫を見る。
捨てられて。
飢えて。
化けかけた虫。
雨が、
静かに祠を濡らしていた。




