狼煙
―朝―
長生郷は騒然としていた。
畑は黒く染まり始めている。
井戸の水は濁り。
川では魚が腹を見せて浮いていた。
昨夜の病鹿の話も村中へ広がっている。
不安は隠せなかった。
―集会所―
村では緊急会合が開かれていた。
長生郷の長老たち。
猟師たち。
畑を預かる者たち。
そして。
大飯爺とわらびたち。
全員の表情が硬い。
照海が口を開いた。
「大飯爺」
「事は急を要する」
「山で見たことを話してくれ」
大飯爺は静かに頷いた。
黒いヒト型。
胸に空いた大穴。
黒流。
腐る獣。
死んだ鹿。
全てを聞き終えた後。
集会所は静まり返った。
照海が重い口を開く。
「黒いヒト型……」
「胸に穴……」
「またかの?」
大飯爺は静かに頷く。
「そうじゃ」
「間違いなかろう」
長老たちの顔色が変わる。
若い者たちは意味が分からない。
だが。
事態がただ事ではないことだけは理解できた。
照海は立ち上がった。
「ではすぐに狼煙を上げよ」
一拍置く。
「今すぐじゃ」
誰も反対しない。
照海は続ける。
「女、子供は隣村へ避難させよ」
「男衆は残れ」
空気が張り詰めた。
照海は大飯爺へ視線を向ける。
「男衆は大飯爺の指示に従うがいい」
「異論は認めん」
誰も口を開かなかった。
長生郷で大飯爺を知らぬ者はいない。
その時。
猟師頭の源蔵が立ち上がった。
「大飯爺」
「防蟲服を出しましょうか」
大飯爺は即座に頷く。
「そうじゃ」
「みんなに早く配れ」
そして。
集会所を見回した。
「それと棒灸を各自に持たせよ」
男衆の顔が引き締まる。
大飯爺は静かに続けた。
「黒流には温度がない」
集会所が静まり返る。
「奴らは冷たい」
「流れを止め」
「命を腐らせる」
照海が腕を組む。
「なるほどの」
大飯爺は頷いた。
「じゃから温めるんじゃ」
「奴らには棒灸で対抗させる」
「冷えた者を放置するな」
「震え始めたら炙れ」
「黒ずみが出たらすぐ知らせろ」
「一人で抱え込むな」
男衆は黙って頷いた。
源蔵が振り返る。
「聞いたな」
「急げ」
―狼煙台―
山の上。
積み上げられた薪。
油。
乾いた薬草。
火打石が打たれる。
火が走る。
黒煙が空へ昇った。
真っ直ぐ。
高く。
空を裂くように。
長生郷の非常狼煙だった。
わらびは空を見上げる。
「来るんか」
大飯爺は煙を見つめたまま答えた。
「ああ」
「来るじゃろう」
風が吹く。
煙は遠くへ流れていく。
その時だった。
ガンジが空を見上げた。
「なんだ?」
花蓮も視線を向ける。
山の向こう。
空に鳥の群れが見えた。
渡り鳥だった。
だが。
様子がおかしい。
一羽。
また一羽。
翼を止める。
そのまま落ちた。
ばさり。
ばさり。
まるで石のように。
空から降ってくる。
わらびは息を呑んだ。
「なんやあれ……」
花蓮の顔色が変わる。
「病気……?」
大飯爺は首を振った。
「違う」
静かな声だった。
「病そのものじゃ」
黒煙の向こう。
さらに遠く。
森が黒く染まり始めている。
肩の小さな影が顔を出した。
「最悪わい……」
大飯爺は小さく頷く。
「始まっとる」
空からまた一羽。
鳥が落ちた。
黒煙はなおも空へ昇り続けていた。




