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黒流

―夜―




 若者は動けなかった。




 足が震える。




 逃げろ。




 そう思うのに身体が言うことを聞かない。




 鹿は一歩。




 また一歩。




 こちらへ近付いてくる。




 胸の穴から黒い流注が垂れていた。




 草が腐る。




 土が黒ずむ。




 獣の臭いではない。




 死の臭いだった。




「く、来るな……」




 震える声が漏れる。




 鹿は止まらない。




 赤い目だけが若者を見ていた。




 その時だった。




 ヒュッ――




 何かが飛んだ。




 一筋の光。




 一本の鍼。




 鹿の額へ突き刺さる。




 鹿がぴたりと動きを止めた。




「え……?」




 若者は振り返る。




 そこに立っていたのは、




 大飯爺とわらびたちだった。




 大飯爺の肩から小さな影が顔を出す。




「最悪わい……」




 大飯爺は鼻を鳴らした。




「そうじゃな」




 鹿が唸る。




 胸の穴から黒い流注が溢れ出した。




 地面がさらに黒く染まる。




 大飯爺はわらびたちへ視線を向けた。




「お前らは下がっとれ」




 そして。




 口元を少しだけ緩める。




「しっかり見て盗め」




 わらびたちは慌てて後退した。




 次の瞬間。




 鹿が地面を蹴った。




 黒い尾を引きながら飛び掛かる。




 その瞬間だった。




「脾土循環!」




 大飯爺の身体を黄土色の流注が巡った。




 温かい。




 だが力強い。




 まるで大地そのものが脈打つような流れ。




 黒流が触れる。




 だが侵食しない。




 弾かれる。




 ガンジは目を見開いた。




「黒流を……弾いてる……!」




 花蓮も息を呑む。




「まさか……」




 ガンジが思わず叫ぶ。




「これが内蟲との二交脈か……!」




 鹿が牙を剥く。




 黒流が渦を巻く。




 しかし大飯爺は退かない。




 大飯爺が踏み込む。




 鹿も突進する。




 轟ッ――!




 流注と黒流が激突した。




 土が舞い上がる。




 鹿の牙が迫る。




 黒流が大飯爺の左腕へ這い上がる。




触れた瞬間、皮膚が黒く変色し始めた。




「ちっ……」




大飯爺は右腕で左腕を掴み、黄土色の流注を一気に押し込んだ。




黒流が弾かれる。地面に落ちた黒い滴が、土を溶かすように沈んでいく。




「老いぼれ扱いは早いわい!」




 大飯爺は笑った。




 そして。




 鹿を押し返す。




 地面を踏み抜く。




 さらに一歩。




 さらに一歩。




 わらびは息を呑んだ。




 押している。




 病を。




 死を。




 押し返している。




 大飯爺は静かに言った。




「こいつが浄化するか」




 一歩前へ出る。




「わしが倒れるのが先か」




 さらに一歩。




「勝負はそれだけじゃ」




 鹿が咆哮する。




 黒流が噴き出す。




 大飯爺の流注も膨れ上がる。




 二つの流れが激突した。




 そして。




 黄土色の流注が黒流を呑み込む。




 鹿の身体が崩れた。




 膝をつく。




 黒流が散る。




 鹿は静かに倒れた。




 動かない。




 今度こそ。




 本当に死んだ。




「ヤベえ……」




 わらびが思わず呟く。




 だが。




 大飯爺は鹿を見ていなかった。




 地面を見ていた。




 黒い流注。




 消えていない。




 土の中を。




 細く。




 ゆっくりと。




 這っている。




 大飯爺が顔をしかめる。




「大地が汚れる……」




 その顔に勝利の色はなかった。




「始まったわい」




 風が吹く。




 遠くで犬が吠える。




 ワンッ――




 そして。




 鳴き声が途切れた。




 大飯爺は闇の向こうを見つめた。




「昔と同じじゃ……」




 誰にも聞こえないほど小さな声だった。




 黒流は。




 一匹では終わらない。




 そんな予感がしていた。

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