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枯れ山

―大飯爺への報告―


 翌朝。


 朝食を終えた頃だった。


 ガンジは大飯爺の前に座っていた。


「山がおかしい」


 大飯爺は湯飲みを置く。


「ほう」


 ガンジは昨日見たものを話した。


 黒い流注。


 逃げる獣。


 倒れた鹿。


 枯れていく草木。


 そして。


 森の奥に見えた影。


 大飯爺は最後まで黙って聞いていた。


「見間違いではないのか」


「違う」


 ガンジは即答した。


 その肩で。


 ニガリが頷く。


「本当ばろ」


 大飯爺の眉が動いた。


 初めてニガリを見る。


「ほう」


「見えるようになったか」


 ガンジは首を傾げる。


「そんなに珍しいのか」


「主蟲はおる」


「じゃが見える者は少ない」


 大飯爺は静かに言った。


「二交脈へ足を踏み入れ始めた証じゃな」


 ガンジは少し照れ臭そうに鼻を掻く。


 その様子を見ていたわらびが笑う。


「昨日まで虫の声なんか聞こえなかったくせに」


「うるせぇ」


「朝からばろばろ騒いでたばろ」


「黙れ」


 ニガリは平然としていた。


 大飯爺は立ち上がる。


「行くぞ」


「どこへ」


「山じゃ」


―枯れ始めた森―


 わらび。


 花蓮。


 ガンジ。


 そして大飯爺。


 四人は山へ入った。


 最初は何も変わらなかった。


 いつもの森。


 いつもの流れ。


 だが。


 奥へ進むほど違和感が増えていく。


 花蓮が立ち止まった。


「……」


「どうした」


 わらびが聞く。


「流れが弱いです」


 花蓮は地面を見る。


 草木を流れるはずの流注。


 それが痩せている。


 細い。


 弱い。


 生気が薄い。


 大飯爺もしゃがみ込む。


 草を一本抜いた。


 根が黒い。


「妙じゃな」


 さらに進む。


 鳥の声が消える。


 虫の羽音も聞こえない。


 静かだった。


 静かすぎた。


 まるで森が息を止めているようだった。


 ガンジの目が反応する。


 黒い流注。


 昨日より薄い。


 だが確かに残っている。


 地面を這うように。


 森の奥へ続いている。


「こっちだ」


 ガンジが言った。


 誰も反対しなかった。


Cパート 鹿


 しばらく進んだところで。


 ガンジが足を止めた。


「あった」


 木の根元。


 一頭の鹿が横たわっていた。


 昨日見た個体だった。


 間違いない。


 近づく。


 腐ってはいない。


 傷もない。


 血も流れていない。


 だが。


 死んでいる。


 花蓮が膝をつく。


「変です」


「何がじゃ」


「何もないんです」


 大飯爺が眉をひそめる。


 花蓮は鹿の胸へ手を当てた。


「流れがありません」


「死ねば無くなるじゃろ」


「違います」


 花蓮の声が少し震えた。


「消えています」


 誰かが奪ったように。


 切り取ったように。


 流注そのものが存在しない。


 ガンジが鹿を見る。


 その時だった。


 目の蟲が反応した。


「……!」


 胸だった。


 毛に隠れて見えなかった。


 鹿の胸。


 そこだけ黒い。


 小さな穴。


 指が一本入る程度。


 ぽっかりと空いている。


 ガンジの背筋が冷える。


「なんだよ……これ」


 誰も答えない。


 大飯爺も。


 花蓮も。


 わらびも。


 言葉を失っていた。


 肩の上で。


 ニガリが低く唸る。


「嫌な匂いばろ」


 風が吹く。


 森の奥から。


 冷たい風が。


 ゆっくりと流れてきた。


***


その夜。


 花蓮は久しぶりに夢を見た。


 白い霧が漂う世界。


 風もない。


 音もない。


 ただ静かな場所だった。


 小さな足音が響く。


 おねむだった。


 霧の奥を見つめながら呼びかける。


「しずり」


 しばらくして。


 霧の向こうから声が返ってきた。


「……呼んだなむ?」


 ゆっくりと一つの影が現れる。


 長い髪。


 淡いピンクの着物。


 どこか花蓮を思わせる静かな面影。


 しずりだった。


 おねむは腰に手を当てた。


「しずり、そろそろ出てくるころやん」


 しずりは目を伏せる。


「まだ早いなむ」


「にがりも出てきたやん」


 その言葉に。


 しずりの表情がわずかに揺れた。


「……そうなむ」


「ガンジも進んでるやん」


「わらびも進んでるやん」


「みんな変わり始めてるやん」


 しずりは答えない。


 ただ遠くを見る。


「出ていけば花蓮の心がもたないなむ」


 小さな声だった。


 守るように。


 言い聞かせるように。


 おねむはため息をつく。


「昔ならそうやったかもしれんやん」


 しずりは黙る。


「泣けば壊れると思ったなむ」


「怒れば傷付くと思ったなむ」


「だから閉じたなむ」


 おねむは頷いた。


 それは知っている。


 ずっと見てきた。


「閉じすぎやん」


「知ってるなむ」


 しずりは苦く笑う。


 その笑顔はどこか寂しかった。


「でもなむ」


「もし蓋を外して」


「昔のことを全部思い出したら」


「花蓮は……」


 言葉が続かない。


 おねむは静かに答えた。


「それでも歩くやん」


 風が吹いた。


 白い霧が揺れる。


「仲間がおるやん」


「一人やないやん」


 しずりは目を閉じる。


「……」


「主が怖いだけやん」


 おねむがぽつりと言った。


 長い沈黙。


 やがて。


 しずりは小さく笑った。


「相変わらず鋭いなむ」


「知ってるやん」


「考えてみるなむ」


 その姿が少しずつ霧へ溶けていく。


 遠ざかる。


 消えていく。


「待ってるやん」


 おねむが手を振った。


 白い世界が揺れる。


 花蓮は目を覚ました。


 まだ夜明け前だった。


 頬に冷たい感触がある。


「……あれ」


 指で触れる。


 涙だった。


 なぜ泣いているのか分からない。


 夢を見ていた気がする。


 だが内容は思い出せない。


 胸の奥が少しだけ温かかった。


 そして。


 少しだけ痛かった。

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