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聞こえぬ声

その夜。


 ガンジは妙な感覚で目を覚ました。


 誰かに呼ばれた気がした。


 だが声ではない。


 胸の奥を軽く叩かれたような感覚だった。


 ゆっくり目を開く。


 窓から月明かりが差し込んでいる。


 窓辺に小さな影が座っていた。


 見覚えはある。


 昨日もいた。


 いや。


 もっと前からいた気もする。


 たぶん。


 こいつは俺の中の蟲だ。


「山見てるばろ」


 ガンジは固まった。


「……喋ったか?」


 影は振り返らない。


「前から喋ってるばろ」


「聞いてねぇぞ」


「聞いてなかったばろ」


「朝からばろばろうるせえんだよこいつ」


「まだ夜だばろ」


「そこじゃねぇ」


 その時だった。


 隣でもぞりと何かが動く。


 よしろだった。


 欠伸をしながら窓辺を見る。


「ニガリケ」


 影がちらりと振り向く。


「久しぶりだばろ」


 ガンジが眉をひそめる。


「ニガリ?」


「そうだばろ」


 よしろが頷く。


「ようやく出てこれたケ」


「出てこれた?」


「見えるようになったケ」


 ガンジは窓辺を見る。


 ニガリ。


 それがこいつの名前らしい。


「前からいたばろ」


「見えてなかっただけだばろ」


「意味が分からん」


「そういうもんだばろ」


 その時。


 わらびが目を擦りながら起き上がった。


「あれ?」


 窓辺を見る。


「なんか増えてねぇか?」


「増えてないばろ」


「喋った!?」


「ニガリケ」


「お前そんな名前だったのか」


「今さらだばろ」


 わらびはしばらく黙った。


「やっぱばろばろうるせぇな」


 わらびが呆れたように言う。


「失礼ケ」


 よしろが頬を膨らませた。


「お前もケケうるさいばろ」


 ニガリが即座に返す。


「なんだとケ」


 よしろが身を乗り出す。


「事実だばろ」


「言わせておけばケ」


「朝から食うことしか考えてないばろ」


「食は大事ケ」


「知ってるばろ」


 わらびは額を押さえた。


「なんで蟲同士で言い争ってんだよ」


 ガンジは思わず吹き出した。


 不思議だった。


 昨日まで聞こえなかった声。


 昨日まで見えなかった存在。


 だが今は。


 当たり前のようにそこにいた。



 翌朝。


 いつものように畑仕事だった。


「今日も草むしりじゃ」


 大飯爺が言う。


「もう農家になった方が早くねぇか」


 わらびがぼやく。


「帰るか?」


「やります」


 即答だった。


 花蓮が小さく笑う。


 本当に僅かだった。


 だが大飯爺は見逃さない。


「娘さん」


「はい」


「最後に心の底から泣いたり笑ったりしたのはいつじゃ」


 花蓮の手が止まる。


 風が吹く。


 何も浮かばない。


 思い出そうとした瞬間。


 胸の奥が少し痛んだ。


 無意識に考えるのをやめる。


「……覚えておりません」


 大飯爺は静かに頷いた。


「そうか」


 それだけだった。


 だが花蓮の胸には小さな棘が残った。


 覚えていない。


 本当に覚えていない。


 いつから夢を見なくなったのだろう。


 いつから泣かなくなったのだろう。


 胸の奥で。


 おねむが小さく身じろぎした。


 だが花蓮には届かない。



 夕方。


 作業を終えた帰り道。


 ガンジはふと山を見た。


 その瞬間。


 目の蟲が反応した。


 銀白の流注。


 草木。


 獣。


 人。


 いつもの景色。


 だが。


 山の奥だけが違った。


「……?」


 黒い。


 流注が。


 真っ黒な流れが山肌を這っている。


 蛇のように。


 木々の間を蠢いている。


 見たことがない。


 冷たい。


 淀んでいる。


 昨日見た景色が脳裏をよぎる。


 山火事。


 崩れた巣。


 逃げ惑う獣達。


 そして。


 炎の向こうにいた何か。


 形は思い出せない。


 だが。


 あれだけは獣ではなかった。


 黒い流注はゆっくりと森の奥を進んでいた。


 その時だった。


 鹿が一頭。


 林の中から飛び出した。


 必死だった。


 何かから逃げている。


 二頭。


 三頭。


 続いて飛び出してくる。


 獣達は我先に逃げていた。


 だが。


 一頭が崩れた。


 どさり。


 前触れもなく。


 糸が切れたように。


 続いて二頭目。


 三頭目。


 立ち上がろうとする。


 だが。


 立てない。


 震える。


 そして動かなくなる。


 ガンジは息を呑んだ。


 その周囲の草が。


 すうっと色を失った。


 青が抜ける。


 枯れる。


 一本。


 また一本。


 草木が茶色へ変わる。


 枝がひび割れる。


 葉が落ちる。


 命が抜けていく。


 黒い流注はなおも進む。


 その後ろだけ。


 森が死んでいく。


 風が吹いた。


 枯葉が舞う。


 その向こう。


 森の最奥。


 何かが立っていた。


 人影のようにも見える。


 鳥のようにも見える。


 頭に何かを被っている気がした。


 だが。


 黒い流注が邪魔をして。


 輪郭が定まらない。


 見えない。


 ただ。


 胸の辺りだけが。


 ぽっかりと暗かった。


 まるで。


 そこだけ世界が抜け落ちているように。


 影が動く。


 こちらを見た気がした。


 ぞわり。


 背筋を冷たいものが這った。


 次の瞬間。


 黒い流注も。


 影も。


 何もかも消えていた。


 ただの山。


 ただの夕暮れ。


「……なんだよ」


 ガンジの声は掠れていた。


 肩の上で。


 ニガリが低く呟く。


「知らないばろ」


 その声に。


 初めて恐怖が混じっていた。



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