花蓮様
翌朝。
長生郷の朝は早かった。
鳥の声。
川の音。
薬草を干す匂い。
窓から差し込む光でわらびは目を覚ました。
「はらへったケ」
頭の上でよしろが鳴く。
「起きて最初がそれかよ」
「だいじケ」
「そうかよ」
隣ではおねむが丸くなっている。
「ねるやん……」
こちらはまだ起きる気がないらしい。
わらびは着替えを済ませ、釜守家の大広間へ向かった。
朝食は既に並んでいた。
山菜。
焼き魚。
味噌汁。
薬草粥。
薬膳茶。
見慣れない料理も多い。
ガンジは早速食べている。
「うまいな!」
「昨日も同じことを聞いたのう」
照海は笑った。
「今日もうまい」
「知っておる」
里の空気は穏やかだった。
だが。
わらびは一つ気になることがあった。
里人達の視線である。
皆。
花蓮を見る。
しかも敬うような目で。
「花蓮様」
通り過ぎる娘が頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
花蓮も静かに会釈する。
それが何度も続く。
わらびはついに我慢できなくなった。
「なあ」
「なんでしょう」
「花蓮って偉いのか?」
花蓮が固まる。
ガンジが吹き出した。
照海まで笑い出す。
「な、なんだよ」
「いや」
ガンジは肩を震わせる。
「面白ぇこと聞くなと思ってな」
照海が茶を飲む。
「どうじゃろうな」
「なんだそれ」
「難しい話じゃ」
また誤魔化された。
花蓮は黙っていた。
その横顔は少しだけ困っているようにも見えた。
朝食の後。
わらびは屋敷の中を案内されていた。
古い書庫。
施術室。
薬草庫。
どれも興味深い。
そして中庭へ出た時だった。
花蓮が井戸のそばで足を洗っていた。
旅の汚れを落としているらしい。
ふと。
わらびの視線が止まった。
左足首。
内側。
そこに奇妙な痕があった。
大きな火傷痕。
まるで三本の枝が交わったような形。
古い傷だった。
「その傷……」
花蓮が振り向く。
一瞬だけ。
動きが止まる。
「昔の火傷です」
すぐに裾を下ろした。
「子供の頃の」
それ以上は話さない。
わらびも深く聞かなかった。
だが。
妙に気になった。
夕方。
縁側。
照海がお茶を飲んでいた。
わらびは隣へ腰を下ろす。
「照海ばあちゃん」
「なんじゃ」
「花蓮の傷って知ってるか?」
照海の手が止まる。
本当に一瞬だけ。
「傷?」
「ああ」
「左足首の」
照海は静かに茶を置いた。
「知っておる」
「昔の火傷だって言ってた」
しばらく沈黙が続く。
庭の薬草が風に揺れた。
「そうじゃな」
「昔の傷じゃ」
照海は小さく頷く。
しかし。
その目は遠くを見ていた。
まるで昔の景色を見るように。
雨の日だった。
十数年前。
通里が長生郷へ戻ってきた。
腕の中には幼い少女。
泥に汚れ。
熱に浮かされ。
ほとんど意識もなかった。
照海は息を呑んだ。
「その子は誰じゃ」
通里は答えなかった。
ただ少女を抱きしめていた。
その時。
裾の隙間から足首が見えた。
左足首。
三陰交。
そこに残る大きな焼痕。
照海は凍り付いた。
通里が初めて口を開く。
「生き残りだ」
それだけだった。
それ以上は語らなかった。
照海も聞かなかった。
聞けなかった。
あの傷が何を意味するのか。
その時の通里の顔が全てを物語っていたからだ。
照海は現実へ戻る。
目の前にはわらびがいる。
「照海ばあちゃん?」
「……なんでもない」
照海は微笑む。
「長旅で疲れておるのじゃろう」
「今日はもう休みなさい」
わらびは首を傾げながら立ち上がる。
照海は去っていく背中を見送った。
夕暮れの風が縁側を吹き抜ける。
庭の薬草が静かに揺れた。
照海は目を閉じる。
雨の日。
幼い花蓮を抱いて戻った通里。
あの日の顔を。
今でも忘れることはない。
あの時。
通里は何も語らなかった。
そして自分もまた。
何も聞かなかった。
長い年月が過ぎた。
だが。
わらびはここへ来た。
花蓮も帰ってきた。
もう。
隠し続けることはできないのだろう。
照海は静かに空を見上げる。
「通里……」
小さく呟く。
「そろそろ」
「話をする時が来たのじゃな」
夕日が山の向こうへ沈んでいった。




