照海
長生郷の門をくぐると、空気が変わった。
山の匂い。
湯の匂い。
薬草の匂い。
どこか懐かしいような香りが風に混じっている。
石畳の道の両脇には古い家々が並び、軒先には乾燥させた薬草が吊るされていた。
里人たちはわらび達を見ると一瞬足を止める。
そしてガンジを見る。
「おや」
「久しぶりだな」
「まだ生きておったか」
「失礼な連中だな」
ガンジは笑った。
どうやら顔見知りらしい。
花蓮は静かに周囲を見ている。
その横顔はどこか硬かった。
わらびはそれに気付いたが何も言わなかった。
里の奥へ進む。
やがて大きな屋敷が見えてきた。
長生郷の中心。
釜守家の屋敷だった。
重厚な門。
古い瓦屋根。
庭には薬草畑が広がっている。
その奥。
縁側に一人の老女が座っていた。
白髪を綺麗に結い上げ、静かに茶を飲んでいる。
誰も声を掛けていないのに、
老女は顔を上げた。
「遅かったのう」
穏やかな声だった。
ガンジが肩をすくめる。
「寄り道が多くてな」
「昔からじゃ」
老女は小さく笑う。
そして視線がわらびへ向いた。
その目が細くなる。
懐かしいものを見るように。
「そちらにおるのは……」
しばらく見つめる。
「三里の子じゃな」
わらびは目を丸くした。
「え?」
「目元がそっくりじゃ」
老女は笑う。
「若い頃の三里によく似ておる」
「母さんを知ってるのか」
「当たり前じゃ」
老女は茶を置いた。
「わしの娘だからのう」
わらびは言葉を失った。
目の前にいるのが。
母の母。
自分の祖母。
初めて会うはずなのに、不思議と初めての気がしなかった。
「照海様」
花蓮が静かに頭を下げる。
老女――照海は視線を向けた。
そして優しく微笑む。
「おかえりなさいませ」
花蓮は一瞬だけ目を伏せた。
「……ただいま戻りました」
わらびは思わず花蓮を見る。
花蓮がこんな表情をするのを初めて見た。
照海は満足そうに頷く。
「長い旅でしたね」
「はい」
「苦労も多かったでしょう」
「いえ」
花蓮は静かに首を振る。
「皆に助けられました」
照海は微笑む。
そしてふと尋ねた。
「通里は元気にしておりますか」
花蓮はすぐに理解した。
「黒笠様でしょうか」
照海は頷く。
「はい」
「清浄局にて施術をなさっております」
「お変わりなく」
照海は少しだけ安心したように笑った。
「そうですか」
「それなら良かった」
その表情は長生郷の長ではなく。
一人の母親だった。
しばらくして。
照海は改めて全員を見回した。
そしておねむを見る。
「おや」
「まだ生きておったか」
「ねるやん……」
「相変わらずじゃな」
照海は楽しそうに笑う。
どうやら昔からの知り合いらしい。
わらびは縁側へ腰を下ろした。
周囲を見回す。
そして気付く。
「そういえば」
「ん?」
「通里とか三里とか」
「変わった名前だな」
照海は少し頷いた。
「この里の者はな」
「経穴の名を冠しておる」
わらびは首を傾げる。
「経穴?」
「通里も」
「三里も」
「照海もじゃ」
わらびは少し驚く。
「へぇ……」
確かに鍼師らしい。
ガンジは笑った。
「だから変な名前ばっかなんだよ」
「お前に言われとうない」
照海は即座に返す。
わらびはふと気付く。
「じゃあ」
「花蓮は?」
その瞬間だった。
空気が少しだけ変わる。
花蓮の指先が僅かに動く。
照海はしばらく黙っていた。
やがて静かに微笑む。
「その話は後じゃ」
「長旅で疲れておる」
「まずは休むがよい」
それ以上は語らない。
だが。
語らなかったこと自体が答えだった。
花蓮だけは違う。
わらびはそう感じた。
夕暮れの風が庭を吹き抜ける。
長生郷。
母の故郷。
そして。
花蓮の秘密が眠る場所。
わらびは知らず拳を握りしめていた。
まだ何も分からない。
だが。
答えは確かに、この里のどこかにある。
そんな気がしていた。




