霧の向こう
水底の主との出来事から一夜が明けた。
峡谷を抜ける風は穏やかだった。
あれほど荒れていた流注も、今は静かに流れている。
わらび達は再び長生郷への山道を歩いていた。
先頭を歩くガンジ。
その後ろを花蓮。
さらに後ろをわらび。
よしろは頭の上。
おねむは当然のように寝ている。
「重いんだよ」
「ねるやん……」
「起きろ」
「むりやん……」
全く反省していない。
わらびはため息をついた。
しかし頭の中は別のことでいっぱいだった。
水底の主。
流れなくなった感情。
知らない蟲。
冷たい流れ。
考えれば考えるほど分からなくなる。
しばらく黙って歩いた後。
わらびは前を歩くガンジへ声を掛けた。
「なあ」
「あ?」
「知らない蟲って何だと思う」
ガンジの足が少しだけ止まる。
だが振り返らない。
そのまま歩きながら答えた。
「……俺も全部知ってるわけじゃねぇ」
珍しく慎重な声だった。
花蓮も耳を傾ける。
「だがな」
ガンジは遠くの山を見る。
「近頃、この国の病は変わってきてる」
「病?」
「ああ」
わらびは首を傾げた。
病なんて昔からあるものだと思っていた。
「黒船が来てからだ」
ガンジは続ける。
「異国の薬」
「異国の食い物」
「異国の考え方」
「色んなもんが流れ込んできた」
「それが悪いって訳じゃねぇ」
「だが――」
そこで言葉を切った。
「今まで見たこともねぇ病が増えた」
わらびは黙る。
「鍼を打っても戻る」
「灸を据えても戻る」
「原因が分からねぇ」
「流注も読めねぇ」
ガンジは眉をひそめた。
「まるで最初から別の理で生まれたみてぇな病だ」
風が吹く。
どこか冷たい風だった。
「それが……知らない蟲か」
「さあな」
ガンジは肩をすくめた。
「本当に蟲なのかも分からねぇ」
「だが現場じゃそう呼ぶ奴もいる」
「西の病」
「異国蟲」
「流れなし」
「呼び名は色々だ」
わらびは少女主蟲の言葉を思い出していた。
流れなくなった。
冷たい流れ。
知らない蟲。
あれは本当に病のことだったのだろうか。
「じゃあ、その正体は」
ガンジは少し笑った。
「知ってたら苦労しねぇ」
わらびは苦笑した。
確かにその通りだ。
だがガンジは続ける。
「だがな」
顎で前を指した。
「この先で、その答えが見つかるかもしれねぇ」
「……見つからねぇかもしれねぇ」
「どっちだよ」
わらびは思わず突っ込んだ。
ガンジは笑う。
「知らねぇよ」
「だから行くんだろ」
風が吹く。
山の匂いがした。
「探さなきゃ」
ガンジは空を見上げる。
「一生分からねぇままだ」
わらびは黙る。
確かにそうだった。
母さんのことも。
黒笠のことも。
知らない蟲のことも。
水底の主が言っていたことも。
答えはまだ何一つ見つかっていない。
だから歩いている。
だからここまで来た。
「長生郷で?」
わらびが聞く。
「ああ」
ガンジの顔が少しだけ真面目になる。
「俺も聞きたいことは山ほどある」
わらびは思わず目を丸くした。
「ガンジでもか?」
「当たり前だ」
ガンジは鼻で笑う。
「分かった気になってる奴ほど危ねぇ」
「医術も」
「流れも」
「人間もな」
その言葉に。
花蓮が小さく頷いた。
「私も同じです」
わらびは意外そうに見る。
花蓮は前を向いたままだった。
「長生郷に何があるのか」
「私も知りません」
「ただ」
一瞬だけ目を伏せる。
「確かめたいことがあります」
それ以上は語らない。
わらびも聞かなかった。
きっと誰にでもあるのだろう。
答えが欲しいことが。
歩き続ける理由が。
しばらく進む。
すると。
前方の山霧がゆっくりと晴れていった。
ガンジが立ち止まる。
「見えてきたぞ」
わらびは顔を上げた。
霧の向こう。
巨大な門が姿を現していた。
古い石組み。
苔むした柱。
長い年月を越えてなお残る門。
その上には大きく刻まれている。
――伊吹長生郷。
わらびは息を呑んだ。
「ここが……」
母の故郷。
釜守の里。
そして。
多くの答えが眠る場所。
長生郷だった。




