忘れないもの
どくん。
どくん。
流注が脈打つ。
わらびの意識は水の底へ沈んでいた。
冷たくない。
暗くもない。
ただ静かな水の中。
無数の青い光が漂っている。
少女がそこにいた。
白い髪。
青い瞳。
静かにわらびを見ている。
「……ここは」
「わたしの中」
初めて少女がはっきりと言葉を返した。
わらびは少し息を吐く。
「やっと喋ったな」
少女は首を傾げる。
「喋ってた」
「単語だけだったろ」
「大事なことしか言わない」
「面倒なやつだな」
少女は少しだけ笑った。
わらびは改めて聞く。
「お前は何なんだ」
少女は考える。
長い沈黙。
やがて小さく答えた。
「わからない」
「は?」
「昔は名前があった」
「でも忘れた」
青い光が一つ横切る。
少女はそれを見送る。
「長く眠りすぎたから」
どこか寂しそうだった。
わらびは周囲を見回す。
青い光が流れている。
まるで星空みたいだった。
「こいつらは」
少女は答える。
「置いていったもの」
「感情か」
「そう」
少女は光へ手を伸ばした。
その指先を一つの光が通り過ぎる。
「悲しかった人」
別の光。
「怒っていた人」
また別の光。
「寂しかった人」
光は静かに揺れる。
少女は続けた。
「昔はね」
「ちゃんと流れていたの」
わらびは黙って聞く。
「悲しい人も」
「怒った人も」
「泣いた人も」
「笑った人も」
「みんな流れていた」
青い流れが周囲を巡る。
「泣けば流れた」
「話せば流れた」
「一緒に食べれば流れた」
ふと。
おねむの顔が浮かぶ。
「でも」
少女の声が沈む。
「いつからだったかな」
「流れなくなったの」
わらびが眉をひそめる。
「流れなくなった?」
少女は頷く。
「抱えたままになった」
「止まるようになった」
「冷たい流れが増えた」
青い光が揺れる。
「昔はいなかった」
「知らない蟲も増えた」
わらびは聞き返す。
「知らない蟲?」
少女は首を振る。
「わからない」
「覚えてない」
そう言いながらも。
その目は何かを知っているようだった。
わらびは話を戻す。
「なんで全部抱えた」
少女は静かに光を見る。
「忘れないため」
「消えないため」
「誰かが泣いたこと」
「誰かが苦しかったこと」
「誰かが生きていたこと」
「誰かがここにいたこと」
光がゆっくり揺れる。
「わたしが忘れたら」
「本当に誰も覚えていないから」
その言葉に。
わらびは返す言葉を失った。
その時だった。
ふわふわと白い影が現れる。
「無茶しすぎやん……」
おねむだった。
少女が振り向く。
「おねむ」
「ひさしぶりやん」
初めて少女が少し笑う。
「寝てた」
「知ってるやん」
「ずっと寝てた」
「知ってるやん」
二匹はしばらく見つめ合う。
わらびは口を挟めなかった。
おねむは少女の隣へ座る。
「でも流してええやん」
少女は首を振る。
「忘れる」
「忘れへんやん」
「忘れる」
「残るやん」
少女は黙る。
おねむは小さく笑った。
「飯食ったこと忘れるか?」
少女は少し考える。
「……忘れない」
「やろ?」
「でも悲しいことは」
「残るやん」
「楽しいことも」
「残るやん」
おねむは空を見上げる。
「流れるのと」
「消えるのは違うやん」
少女の瞳が揺れた。
わらびは静かに言う。
「一人で抱える必要ねぇだろ」
少女は青い光を見る。
長い時間。
本当に長い時間。
抱え続けてきた光。
泣き声。
怒り。
後悔。
寂しさ。
全部。
全部。
一人で。
「……つかれた」
少女が初めて本音を漏らした。
おねむは頷く。
「知ってるやん」
その瞬間。
青い光が一つ浮かび上がる。
また一つ。
また一つ。
光はゆっくり空へ昇っていく。
「帰る……」
少女が呟く。
「みんな帰る」
光は夜空へ消えていく。
その姿を見つめながら。
少女は穏やかに笑った。
「そうか」
「流れても」
「消えないんだ」
どくん。
流注が脈打つ。
そして。
静かにほどけ始めた。
長い眠りが終わるように。
川を塞いでいた感情が流れ始める。
少女の身体が淡い光へ変わっていく。
おねむは手を振った。
「また寝るやん」
少女は少し笑う。
「寝すぎ」
「お互いやん」
初めて。
おねむが声を出して笑った。
青い光が夜空へ溶けていく。
わらびはその光景を静かに見上げていた。
流れは止まらない。
悲しみも。
喜びも。
人の心も。
全部。
どこかへ流れていく。
そしてきっと。
消えることなく残っていくのだと。
わらびはそう思った。




