はりはら
夢の空が崩れていた。
黒い亀裂。
砕ける夕暮れ。
濁った感情の奔流が、
嵐のように渦巻いている。
よしろの仮面へ、
黒い“ケ”が広がっていた。
白かった腕も、
じわじわと黒く染まり始めている。
「よしろ!!」
わらびが叫ぶ。
だが返事はない。
夢喰いから流れ込む感情が、
あまりにも多すぎた。
孤独。
疲労。
絶望。
逃避。
抱えきれないほどの感情が、
よしろを押し潰そうとしている。
花蓮が白鍼を構えた。
「離れてください」
「待て!!」
「主蟲が化蟲化します」
白い殺気。
本気だった。
「今なら間に合います」
花蓮の瞳が揺れる。
「完全に化ければ、
もう戻せません」
わらびは答えなかった。
ただ、
よしろを見る。
団子を頬張って。
腹を鳴らして。
勝手についてきて。
勝手に食って。
勝手に騒いで。
それでも。
ずっと隣にいた。
旅の始まりから。
ずっと。
「……戻す」
花蓮が息を呑む。
「何をですか」
「よしろをだ」
夢喰いが咆哮した。
黒い感情が噴き上がる。
空が歪む。
野原が沈む。
夢の世界そのものが悲鳴を上げていた。
わらびの腹が鳴る。
きゅるるる……
感情が流れ込む。
苦しい。
吐きそうだ。
逃げ出したい。
だが。
わらびは一歩も退かなかった。
「よしろ」
赤い目が、
わずかに動く。
「食いすぎだ馬鹿」
仮面が、
かたんと鳴った。
「一人で抱えんな」
わらびは懐から一本の鍼を取り出す。
黒い毫鍼。
祖父から託された――
御園の鍼。
花蓮の表情が変わった。
「その鍼……!」
わらびは答えない。
ただ、
そっとよしろの腹へ手を置いた。
「半分持つ」
そして鍼を刺す。
瞬間――
どくんっ!!
感情が流れ込んできた。
「あ……っ!」
膝が崩れる。
頭が割れそうだった。
眠りたい。
消えたい。
逃げたい。
帰りたくない。
誰にも会いたくない。
無数の本音が、
腹の奥を掻き回す。
それでも。
わらびは鍼を離さなかった。
「……重っ……」
涙が落ちる。
「こんなの……」
息が詰まる。
「一人じゃ無理だろ……!」
よしろが、
ゆっくり顔を上げる。
赤い目。
少しだけ震えていた。
「わらび」
「なんだよ」
「……ばかケ」
きゅるっ♪
二人の腹が同時に鳴った。
その瞬間だった。
黒い“ケ”が、
二人の間をゆっくり巡り始める。
暴れていた感情が、
少しずつ落ち着いていく。
花蓮が息を呑んだ。
「感情を……」
信じられないものを見るように呟く。
「分け合っている……?」
御園流。
感情を消さない。
否定しない。
抱え込まない。
流し合う。
その在り方。
夢喰いが苦しそうに身をよじる。
わらびは毫鍼を構えた。
「よしろ!」
「たべるケ!!」
ポンポコポン!!
白い光が弾ける。
よしろが完全虫化した。
六本腕が広がる。
腹虫紋を思わせる白い姿。
今度は黒くない。
白いままだった。
よしろが飛び出す。
ずるり。
夢喰いへ噛みつく。
黒い“ケ”を喰らう。
わらびは流れを整える。
感情を止めない。
暴れさせない。
否定しない。
ただ流す。
やがて。
夢喰いの巨体が、
ゆっくり崩れ始めた。
黒い感情は消えない。
けれど。
静かにほどけていく。
絡まった糸が解けるように。
長い夜が明けるように。
夢の空が晴れた。
夕暮れの風が吹く。
よしろが、
ふらふらと戻ってくる。
「……はらへったケ」
わらびはその場へ座り込み、
思わず笑った。
「俺もだよ」
花蓮は黙っていた。
主蟲。
腹虫視。
化蟲。
そして。
感情を消さず、
受け止める鍼師。
自分が学んできたものとは、
まるで違う。
「……あなた達は」
小さく呟く。
「何なんですか」
わらびは少し考えた。
そして困ったように笑う。
「腹の虫と生きてるだけだ」
静寂。
その直後。
きゅるるるるっ♪
三人の腹が同時に鳴った。
花蓮が固まる。
わらびが吹き出す。
よしろが笑う。
そして。
夢の外から、
豪快な声が響いた。
「おーーーい!!」
ガンジだった。
「飯できてるぞーーー!!」
その瞬間。
夢の世界は、
ぱきん、と音を立てて砕けた。




