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「元気そうだな」
ラシンゲ博士の家で、竹井竜一は息子の淳にそう言った。
「ええ、何とか・・」
3年ぶりだというのに、淳は伏せ目がちにそう言ったまま、口をつぐんだ。色々な思いが頭の中を駆け巡ったが、どれ一つ言葉には出来なかった。幼少の頃、肌と心を多く触れ合っていれば、親子関係はスムーズに進行する。しかし、その時期を逃した父と子は、どんな他人よりも厄介な関係になっていた。
「庭に出てみない」
夕食後、マリーに誘われて、淳はホッとした思いだった。父とラシンゲ博士はリビングに席を移し、紅茶を飲みながら談笑を始めていた。このまま、部屋に戻るのはまずいだろうなと思っていた矢先のことだった。
「ジュンを、お借りします」
二人に声を掛けると、マリーは手を引いて淳を裏庭に連れ出した。しっとりとした手の感触が残った。女性の手に触れたのは一体いつ以来だろう。
「数年前の自分を、見ているみたいだったわ」
プールサイドのベンチに腰掛けると、マリーはポツリと言った。視線の先で、プールのなかの透明な液体がキラメイテいる。
「どういう意味だ?」
また彼女の挑発が始まったのかと、淳は彼女を睨み付けた。しかし、案に相違して、その顔は穏やかだった。
「ラシンゲの名前に反発していたの。バカだったわ。父の気持ちも知らずに・・」
淳は眉をひそめた。彼女が何を言っているのか判らなかった。
「ラシンゲという名前は、このスリランカでは知らない人はいないわ。私は、どこへいってもラシンゲの娘らしく振舞うことを強要されていると思ってた。だから、チャラチャラした恋愛なんかしたいとも思わなかった」
その瞳は、悲しみと同時に、優しさを秘めていた。
「コロンボ大学の学生の時、好きな人が出来たの。クリケットのスター・プレーヤーで、女子学生の憧れの的だったわ。何回かすれ違うなかで、彼が私に好意を持っている事に気が付いたの。私は有頂天だった。ところが、ある日突然、彼が私の事を避けるようになった。薄々感じたの、私がラシンゲの娘で、親か教師か誰かに止められたんだって」
淳は、彼女の細い肩を抱きしめたい衝動に駆られた。彼女が他ならぬ、自分の事を話そうとしているのだと気が付いたからだった。
「私が、ケンブリッジじゃなく、東大を研究の場に選んだのもそれが原因よ。ケンブリッジじゃ、何も変わらないと思ったの。だって、そこは父のお膝元だったから」
彼女がクスリと笑った。彼女は初めて淳の方に顔を向けた。その瞳がエメラルドの色をしている事を、淳は始めて知った。
「ある時、気が付いたの。それは父の所為ではないってこと。そんなことを言ってるのは、世間の人たちじゃない。その為に、なぜ自分が父親と対立しなければならないのかって」
マリーが次の言葉を紡ぎ出そうとした時、淳はベンチから立ち上がった。
「凄い星だな。こんな星空見たことないよ」
マリーは、淳が気分を害したのかと思った。
淳は、プールの横を通って、庭の中央の樹に向かって歩いて行く。芝生の生えた空間に、一本だけ太い樹が立っていた。彼は、その樹の下で立ち止まった。人の頭を超えた当たりで無数の細い枝が突き出し、枝分かれを繰り返している。その枝の一本一本に、青々とした葉が息づいていた。
「インドボダイジュよ。我が家の一番の宝物」
マリーがいつの間にか、後ろに立っていた。
「この樹が?」
淳の目には、どこにでもある樹に思えた。
「スリランカが仏教国だって知ってた?」
マリーの質問に、淳は首を振った。残念ながら、スリランカという国については、ほとんど何も知らなかった。
「ここから北東130キロほどのところに、アヌラーダプラと言う都市があるわ。そこはおよそ2500年前にスリランカ最古の都だったところよ。紀元前3世紀。ティッサ王の時代に、インドのアショーカ王の息子マヒンダによって、スリランカに始めて仏教が伝えられたの」
3メートルほど離れたところで、マリーはその樹の葉を弄んでいた。
「その頃、ブッダガヤの菩提樹の分け枝も一緒に持ち込まれたの。あの仏陀が悟りを開いた菩提樹の分け枝。スリランカではスリー・マハー菩提樹として有名な樹よ」
「知らなかったよ」
淳も、近くにあった樹の葉に手を触れてみた。日本の菩提樹よりも、葉の先が尖っている様に思えた。
「1921年。コロンボ大学の前身である、ロンドン大学付属カレッジが創立された時、
その大学の象徴として、スリー・マハー菩提樹の分け枝が植樹されることになったの。ところが、直前になってイギリス側からクレームがついたの・・・」
「まさか・・」
淳は、手に持っていた葉を離した。その葉は、微風に静かにたなびいている。
「それが、この樹だって言うのか」
マリーは、ゆっくりと頷いた。
「当時、植樹の責任者だったのが、私の曽祖父だった。分け枝を戻す訳には行かなかったから、ここの植える事にしたの」
「と、言う事は・・・。これは仏陀が悟りを開いたのと同じ菩提樹ってこと・・・」
「そうよ。だから、この菩提樹は我が家の一番の宝物なの」
淳は、特にどんな宗教にも属してはいなかった。しかし、仏陀がこれと同じ菩提樹の下で悟りを開いたという事には、感動を覚えずにはいられなかった。
「この樹には、不思議な力があるらしいの」
マリーは、樹の幹を触りながら言った。
「不思議な力?」
淳は、マリーの言葉に引き寄せられた。
「君も体感したの?」
マリーは首を振った。
「子供の頃、祖父といっしょに何度か遣ってみたわ。でも、私には何も感じなかった。祖父が言ってたわ。この樹に選ばれた人間しか、それを感じる事は出来ないって」
「面白そうだね」
淳は、好奇心がフツフツを湧き出てくるのを感じた。
「これまでに千人以上の人達が、この樹の下で瞑想をしたらしいわ。でも、その力を知ることが出来たのは、ほんの数人だけだった」
マリーの言葉が、さらに淳の好奇心を高めて行った。
「マリー、ジュン。紅茶が入ったから戻ってきて」
その時、妹のサリーが二人を呼んだ。
「分かった。直ぐ行くわ」
マリーが、戻ろうとしたとき。淳が、彼女の肩に手を置いた。マリーが驚いた顔で振り返った。
「親父との件だけど、少し、時間をくれないか。自分なりに整理してみるよ」
彼女は一瞬、ポカンとした。そして、淳の言った事を理解すると、ウン、と言ってニッコリと頷いた。




