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菩提樹の下で  作者: マーク・ランシット


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5/12

淳が通された部屋は、2階の角部屋だった。机にノートパソコンを置き、インターネットにつなぐと、メールを確認した。研究室のメンバーから、スリランカの女性はどうだった?などという如何わしいメールが入っていた。


「まったく、ガキっぽい奴等ばっかりだ」

 返事を書こうかと思っていると、窓の外から女性のハシャグ声が聞こえてきた。淳は、キーボードの手を休めて、窓の方に歩いて行った。


 裏庭のプールで、3人のビキニ姿の女性が泳いでいた。3人とも小麦色の肌をしている。プールサイドの椅子にはマリー・ラシンゲと、ラシンゲ夫人と思しき白人の女性が座っていた。


 淳の姿を見つけたのか、ラシンゲ夫人が彼の方に手を振った。それにつられて、他の4人も淳の方に視線を向ける。淳は、一瞬、逃げ出したい衝動に駆られたが、思い切って、窓を開けた。


「ジューン、一緒に泳ぎましょうよ」

 マリーの妹なのだろう。まだ、幼さを残した女性が叫んだ。彼女の友人らしい二人も笑顔で誘っている。


「残念だけど、カナヅチなんだ。こんど来る時までに練習しとくよ」

 淳は、いかにも残念そうな表情でそう言うと、窓を閉めた。だったら教えてあげる、という誘惑的な言葉が窓ガラスにぶつかって落ちて行った。淳は、女性達に手を振ると窓際を離れた。


「僕は、いま天国に来ています・・・」

 淳は、研究所の仲間にメールを書き始めた。 


淳は、さっきのマリー・ラシンゲとの会話を思い出した。

「・・でも、それがお金を目的としているのなら、結局、人間のエゴに利用されるだけの様な気がするんだけど」

 こんな立派な家に住み、BMWを乗り回している女が、なんで俺にそんな事が言えるのだろうか?

 アメリカに渡って気が付いた事があった。それは、結局、人生は金だという事である。自由の国アメリカ。人々は陽気で自由。金持ちは親切で、ボランティア活動に積極的に貢献する。

 しかし、実際はそうではなかった。ホテルでもレストランでも、結局、黒人や黄色人種、そして貧乏人は軽蔑され、白人の金持ちにはタップリの笑顔が供給される。


 アメリカに渡って直ぐのこと、こんなことがあった。休みの日、彼は中国人研究員のアンディーと洒落たレストランに入った。パサデナではチョット人気のある店だった。予約を入れていたにも関わらず、二人は20分以上も待たされた。そして事件は起こった。

 予約もしていない白人2人が、カップルで入って来た。白人のウエイターは、淳たちの目の前で、彼らを席に案内しようとしたのである。アンディーの静止を振り切って、淳は文句を言った。するとウエイターは“この東洋人が”という軽蔑の笑いを浮かべたのであった。


 淳は、店の責任者を呼ぶとカルテックの身分証を見せた。始めは軽くあしらって遣ろうと思っていたマネージャーの態度は、その身分証で一変した。

 最上級のサービスを受けた後、帰り際に媚びる様に近づいてきたあのウエイターに、淳は言った。

「さっきの事は気にしなくてもいいよ。所詮、頭の悪い人間は、いつまでもウエイターでしか生きられないんだ。死ぬまで、金持ちや白人に媚びて生きればいいさ」

 

 彼らの様なレベルの低い人間の為に、なんで自分が人生を掛けてコツコツと地道な研究などする必要があるのだろうか?


 彼らは知らない。この地球の命がそれ程長くは無い事を。


 アメリカが反対する各種の環境関連法案。多くの国際調査報書が2050年までに全生物種の4分の1が絶滅すると訴えている。それはまだ良いだろう。自分達だけはノアの箱舟に乗るつもりなのだから。


 巨大隕石の追突。火星と木星の軌道の間には、無数の小惑星の巣が存在する。さらに、海王星の軌道の外側にはエッジワース・カイパーベルト天体と呼ばれる氷の塊が、そしてさらにその外側にはオールトの雲と呼ばれる小天体の群れが存在しているのだ。


 6500万年前、メキシコのチチュルブに落下し、恐竜を絶滅させたとされる隕石の直径はわずか10キロに過ぎなかった。友人の天文学者の言葉を借りれば、地球にその程度の隕石が落ちる可能性は、我々の想像を遥かに越えて大きく、むしろ、何かの力で守られていると言っても良いほどなのだ。


 そして、淳が最も恐れているのは、核の脅威である。チエルノブイリ、スリーマイルアイランド、そして日本での原子力発電所での事故。原子力発電所は先進国だけではなく、いわゆる発展途上国にも広がりつつある。


 核兵器の管理にしても、単なるミスもあれば、不安定な政権下で死なばもろとも的に使用されることもあるだろう。金の為にテロリストに売られることを考えれば、人間の将来はそれ程明るいとは言えない。

 そんな時代に、なんで人の為に生きる必要があるのだ。自分には金を稼げるだけの能力があり、そのチャンスは目の前に転がっている。肌の色で差別をするような、低レベルの連中など放って置けばいいのだ。俺は自分の力でノアの箱舟に乗ってみせる。




 コロンボ大学からの帰り道、竹井竜一とラシンゲの二人は、夕暮れ時のコロンボ市街の喧騒を、ベンツの後部座席から眺めていた。


「淳の事では、手数を掛けたね」

 竹井は、ラシンゲ博士の方を向くと、すまなそうに言った。いつこの話を切り出そうかと迷っていたのだ。


「いや、どうって事はない。淳くんの上司に顔の利く人物を知っていただけの事だ。でもどうしてこの時期に、彼をここに呼んだりしたんだ」

 ラシンゲの質問に、竹井はわざと視線をそらして、反対側の窓の方を見た。竹井の気持ちを察したのか、ラシンゲは黙って彼の返事を待った。


「淳に、ここの自然と歴史を見せて置きたかった・・」

 竹井はしんみりとした口調で言った。大学でのスピーチは、誰よりも自分の息子へのメッセージであったのだ。


「じっくり、話でもするつもりなのかね」

「いや、聞く耳を持っていない時に、話をしても意味はない」

 竹井は、チラリとラシンゲを見た。彼は照れ笑いを浮かべた。


「君の言う通りだ。マリーの事では、世話になった。先週、日本から帰国して、3年ぶりにキスをしてくれたよ」

 ラシンゲは、いかにも嬉しそうだった。家族に愛され、尊敬されること、それ以上の幸福があるだろうか。


「私は、べつに何もしてない。彼女の方が悩んでいたんだ。だから、私の事を話してあげた」

「どんな話だね」

「私と父の話だ」

 竹井は、静かに目を閉じた。遠い記憶を呼び起こしているのだろう。


 やがて竹井は目を開けてチラリとラシンゲの顔を見た。

「父は厳格で無口な人だった。私の記憶のなかには、父から優しくして貰った事は殆んどない。なにより母親への見下した態度が許せなかった。それなのに、他人は私の事を、東大教授の息子と呼んだ」


 海岸の向こうに、巨大な太陽が沈もうとしていた。竹井の顔が真赤に照らされている。

「高校2年の時、私は父と喧嘩をして家を飛び出した。追っ掛けてきた母に、私は言った。

どうしてあんな人と一緒にいるのか、さっさと別れるべきだと・・・」


 太陽の光が次第に暗くなっていく。


「すると、母は、真赤な顔をして私の頬っぺたをしたたかに打った。初めて見た、母の厳しい表情だった。父は若くして教授になり、大学でも妬みの対象に成っていた。まさに四面楚歌の状況だった。そんな父を、誰が支えてあげるんだと、母は泣きながら私に言ったんだ。その時になって、父もただの弱い人間だと知った。私は父に頭を下げた。例え、誰ひとり父を評価しなくても、私が父の後を継いで遣る。その時、私はそう誓ったんだ」


 ラシンゲは、竹井の頬を何かが伝っている様に見えた。しかし、陽はすっかり沈んでいた。


「あの菩提樹の下で、瞑想をさせてあげたいんだ」

 しばらくの沈黙の後、3年前に体験した、菩提樹の下で瞑想の事を、竹井は切り出した。


「どうやら、君はあの菩提樹の下で、何かを悟ったみたいだね」

 ラシンゲは、さりげなくそう言った。


「悟りなんて大そうなモノじゃない」

 竹井は、涙の痕を隠すように窓の方を見ていた。彼はラシンゲの言葉を冗談だと思っていた。


「ただ・・・」

 竹井は、言いよどんだ。それをどう表現すれば良いのか、また、本当の事を言うべきなのかを迷っている様子だった。


「ただ・・、幻想を見たのかね」

 ラシンゲの言葉に竹井は驚いて、彼の方を見た。ラシンゲは意味ありげな微笑を浮かべていた。


「あの時、君は何もなかったと言ったんじゃなかったかな・・・」

 ラシンゲは、わざと皮肉を込めて言った。


「あの時は・・、科学者の私が、そんな馬鹿な事を言ったら笑われると思ったんだ。それに、君だって何も感じなかったと言っていたじゃないか」

 今度は、竹井がラシンゲに文句を言った。


「君が否定しているのに、私から、そんな事を言うわけにはいかない。もしかしたら、君ならあの感覚を共有できるんじゃないかと思っていたんだ」

 ラシンゲは、照れくさそうに笑った。


「初めてそれを体験したのはいつなんだ?」

「子供のころだ。確か9歳の夏、星明りだけの新月の夜だったよ」

「確か、3年前も新月の夜だったね」

 そう言って、竹井は何気なく空を見上げた。星空の中で、影だけが月の存在を示していた。明日がまさに新月の夜だった。


「君は、淳くんに同じ体験をさせるために、呼んだのかね?」

「淳にとっては、今が一番大切な時期だ。科学者としての目的が、ただの個人のエゴに変わりつつある」

 竹井は苦悩に満ちた表情で答えた。


 ラシンゲは竹井の気持ちを察した様に小さく頷いた。


「言って置くが、あの樹は人を選ぶ。これまでにも多くの人間があの樹の下で瞑想をしてきたが、あの感覚を掴めたのはホンの一握りだ。残念だが、今の淳くんでは難しいと思う・・」


 ラシンゲは、そう言って残念そうに何度も首を振った。

 


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