帰蝶の祈り
雨雲のひとりごと
私は雨雲
空を静かに流れながら、多くの人の人生を見下ろしてきた
嬉しい日に雨を降らせてしまうこともある
悲しい日に涙の代わりとなることもある
今日、私が覆っている空の下では、一人の女性が大切な人の帰りを待っている
戦場へ向かった夫を信じ、何もできず空を見上げている
私は知っている
その願いは決して弱さではない
帰りを待つこともまた、大きな強さなのだと
どうか私の雨が悲しみではなく、再会の日へ続く恵みの雨になりますように
――雨雲
第八十五章
帰蝶の祈り ― 戦場に届かぬ想い ―
尾張・清洲城。
激しい雨が静かに城下町を包み込んでいた。
戦場から遠く離れたこの場所にも、不安な空気が漂っている。
城の天守から遠くを見つめる一人の女性。
帰蝶だった。
「信長様……。」
その小さな声は、雨音に消えていく。
帰蝶は毎日、戦場から届く知らせを待っていた。
勝ったという知らせでもない。
負けたという知らせでもない。
ただ一つ。
「信長様が生きている。」
その一言だけを待ち続けていた。
侍女のお春が静かに近づく。
「奥方様、お身体をお休めください。」
帰蝶は首を横に振る。
「眠れません。」
「目を閉じるたびに、戦場の夢を見るのです。」
お春は何も言えなかった。
帰蝶は縁側へ座り、小さな守り袋を取り出す。
それは、結婚した日に信長へ渡そうと作ったものだった。
しかし照れくさくて渡せず、自分が持ち続けていた。
「本当なら……。」
「もっと素直になればよかった。」
「もっと笑って話せばよかった。」
「もっと、一緒に過ごせばよかった。」
帰蝶の目から一粒の涙がこぼれた。
その頃、城の門へ一人の伝令が駆け込んできた。
「急使!」
「急使でございます!」
家臣たちが慌ただしく集まる。
「戦況は!」
伝令は肩で息をしながら答えた。
「信長様は……。」
その場が静まり返る。
帰蝶の鼓動が速くなる。
「申し上げます!」
「信長様は重傷を負われました!」
「ですが、なお最前線で戦っておられます!」
帰蝶はその場へ崩れ落ちそうになった。
「重傷……。」
「それでも……戦っているのですか。」
伝令は静かにうなずく。
「兵を守るため、ご自身が最後まで前へ立たれております。」
帰蝶は涙を拭い、ゆっくり立ち上がった。
「信長様らしい。」
「本当に……あなたらしい。」
帰蝶は仏間へ向かった。
静かに正座をし、手を合わせる。
「どうか。」
「天下など望みません。」
「名誉もいりません。」
「ただ……。」
「どうか、生きて帰ってきてください。」
「あなたが笑って、『帰ったぞ』と言ってくださるだけで、それだけで十分なのです。」
城の外では雨が降り続いている。
しかし、その雨の向こうでは、一筋の光が雲間から差し込んでいた。
帰蝶はその光を見つめ、小さく微笑む。
「信長様。」
「あなたなら、きっと帰ってきます。」
「私は信じています。」
その祈りは風に乗り、遠く長良川の戦場へと運ばれていく。
そしてその頃、信長は激戦の中で、なぜか胸に温かなぬくもりを感じていた。
「帰蝶……。」
信長は小さくその名をつぶやき、再び刀を握り直す。
遠く離れていても、二人の想いは確かにつながっていた。
城門のひとりごと
私は城門
多くの武将を送り出し、多くの武将を迎えてきた
出陣の時は勇ましい声が響き
帰還の時は笑顔と涙があふれる
だが、中には二度と戻って来られなかった人もいた
私はそのたびに静かに風を受け、帰りを待ち続けてきた
今日もまた、一人の主の帰りを待っている
勝っても負けても構わない
ただ、生きてこの門をくぐってほしい
その願いは城にいるすべての人の願いでもある
私は今日も動かず、この場所で待ち続ける
帰ってきたその時には、何も語らず静かに迎え入れるために
――城門




