おやすみ箱は親切すぎる
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
帰り道の袋は、歩くたびに中でいやな重さをずらした。
食料のぶんだけじゃない。濡れたうさぎが、まだ生きているのか、ただ温度を残しているだけなのか、触るたび判断に困る。日なたは白くて、建物の影は細い。わたしはなるべく白線のないほうを選んで歩いた。親切そうな道ほど信用できない。
「くま」
「はい」
「こいつ、家まで静かかな」
少し間があった。
「希望的観測としては、かなり」
「観測じゃないやつだ」
「私の得意分野です」
屋上へ上がると、夕方の風が集水器の裂け目を鳴らしていた。透明フィルムの端が、ぱた、ぱた、と弱くはためく。朝よりは機嫌がいいみたいな顔をしているけど、水は増えていない。向かいの屋上のおばあさんが、干した布を取り込む手を止めて、こっちを見た。
「今日はずいぶん濡れてるね」
「荷物が」
「拾ったのかい」
「だいたい、ろくでもない形で」
おばあさんは、それ以上聞かなかった。聞かないほうがいいときの顔をしていた。こういう町では、そこがやさしさの上限だ。
部屋へ戻って、まず鍋に水を張る。さっきのパウチを半分だけ落とす。白い筋が湯の中へのびて、すぐほどけた。食べ物の匂いがする。それだけで、腹はかなり騙せる。
袋からうさぎを出す。銀の包みをほどくと、濡れた布の奥から、へんな甘い匂いが立った。洗剤と日なたの中間みたいな、遠い匂いだ。片耳は折れたまま、お腹の窓は暗い。死んだふりがうまい顔をしている。
「干す?」
「雑ですが、必要です」
くまが言う。
「ただし、直射は避けてください。たぶん」
「たぶんが多いねえ」
窓際の椅子にタオルを敷き、うさぎを座らせる。首がすわっていないので、壁にもたせる。なんだか妙に行儀がよかった。見なければ、ただの古いぬいぐるみだ。見れば、まったくただじゃない。
鍋がふつふつ鳴きはじめたころ、うさぎの腹の窓に、うすく光がさした。
ぴ。
すぐ消えると思った。消えなかった。
ぴ。ぴ。
三度目で、部屋の外の階段灯が返事をした。
低い位置の灯りが、ひとつ、またひとつ、下から順にともる。大人の膝くらいの高さ。うちの建物に、そんな位置の灯りが残っていたこと自体、いま知った。
「最悪」
「かなり帰宅向きの挙動です」
くまの声が少し早くなる。
「時刻連動。夕方点呼。おうち確認」
うさぎの口が、しめった布の奥で小さく動いた。
『ただいまのじかんです』
『おててを、』
「洗わない」
『おともだちは、いますか』
それに答えるみたいに、くまの腹がぶるっと震えた。古い接点が勝手に噛み合う音がする。
「います」
くまが、訊かれてもいないのに言った。
「ここに」
「返事しないで」
でも、もう遅かった。廊下の低いスピーカーが、ずっと使われていなかった喉を起こすみたいに鳴った。
『同行端末を確認しました』
『帰宅補助を開始します』
鍋のふたを押さえたまま、わたしは固まる。補助なんていらない。うちの場所だけは、設備に知られたくない。集水器も、食べ物の匂いも、おばあさんの屋上も、まとめて面倒になる。
「切る方法」
「やさしく抱いて歌う」
「それ以外」
「帰宅完了を偽装する」
役に立つほうが先に出るなら、最初からそうしてほしい。
廊下へ出る。低い灯りが、階段からうちの扉まで点々と続いていた。床の埃の上に、小さな靴の絵が浮かぶ。昼にはなかったのに、夜になると出るらしい。気味の悪い建物だ。
うちの向かい、壊れた物置の下に、半分つぶれた金属箱がある。昔はパン焼き器だったのか、配線の死んだ小型オーブンだったのか、そのへんの顔だ。いまはネジと釘の住処になっている。わたしは中身をぶちまけ、箱だけ抱えて戻った。
「箱に入れるだけ?」
「半分です」
くまが言う。
「おやすみ箱。暗所。やわらかさ。同行確認。たぶん、そういう条件です」
「やわらかさだけ急に精神論」
「幼体相手です」
わたしは鍋のそばの古いクッションを裂き、まだ乾いている綿を少し抜いた。魚の絵の、おひるねシールドの切れ端も出す。前に集水器へ使おうとして失敗したやつだ。銀の包み、裂けたタオル、綿、魚のフィルム。全部まとめて金属箱へ詰める。見た目はかなりひどい。やさしさを工作したら失敗した感じになる。
「作戦名」
「帰宅したふり」
「誠実さがありません」
うさぎを持ち上げる。足の裏に、小さな丸い端子がふたつあった。泥でほとんど見えなかっただけで、最初からそこにいたらしい。端子。つまり、ただ抱けばいいわけじゃない。
視線を走らせる。机の隅に、壊れた携帯ラジオの電池ばねが転がっていた。昨日外したやつだ。指で曲げ、箱の底に押しこむ。間に銀の包みを噛ませる。かなり適当。でも接点っぽい顔にはなった。
「これで」
「理屈としては、ひどいです」
くまが言う。
「でも、ひどい理屈で動く設備はあります」
「今日ずっとそれ」
うさぎを箱へ入れ、足裏の端子をばねへ触れさせる。くまをその横へ押しこむ。狭い。くまが少し潰れる。
「近いです」
「協力して」
ふたを半分閉める。完全に閉めると声がこもりすぎて、今度は異常判定されそうだった。半分だけ暗くして、魚のフィルムを上からかぶせる。夕方の薄い光が、箱の内側で水底みたいに揺れた。
うさぎの腹の窓が、一度だけ強く光る。
『おかえりなさい』
それきり、赤い点滅が止まった。
廊下の灯りも、下の階から順に消えていく。低いスピーカーが最後にひとつだけ言った。
『おやすみじゅんびを、どうぞ』
しん、とする。
鍋の湯気だけが、部屋の中でいちばん生きていた。
「……勝った?」
「この一件に限れば」
くまが言う。
「かなり雑に、正しく」
膝から力が抜けて、その場へ座りこむ。心臓がうるさい。箱の中では、うさぎもくまも静かだった。さっきまで町じゅうの親切を引っぱってきたくせに、いまはただの箱入りぬいぐるみ二体みたいな顔をしている。
鍋を下ろし、薄いスープを椀へ移す。腹へ入ると、ようやく手の震えがましになった。向かいの屋上から、おばあさんが一度だけ壁を叩いた。生きてるか確認するみたいな、短い音だ。わたしも壁を二回叩き返す。説明しないままの会話は、たまに便利だ。
食べながら、箱を見張る。ふと、うさぎの首もとから紙がのぞいているのに気づいた。濡れてくっついていた薄い布の内側に、もう一枚、タグが縫い込まれていたらしい。
そっと引き出す。布に守られていたせいで、字はまだ読めた。
夜間帰宅補助
就寝確認後、巡回停止
未帰宅時、所在照会を継続
その下に、もっと小さい字。
引渡条件
同行端末認証
受入先設定済
「設定済、だって」
くまが箱の中で、少しだけ布を鳴らした。
「昼のカードは、未設定でした」
「こっちは設定済じゃないと寝ない」
「はい」
「じゃあ、どこかに本来の帰る先がある」
その言い方をした途端、部屋の空気が少し変わった。食べ物の匂いより、字のほうが重くなる。帰る先。受入先。引渡先。どれも、誰か一人ぶんの場所みたいに書かれている。
箱のふたを、ほんの少しだけ開ける。うさぎは眠った顔のままだ。くまの片耳がその横でつぶれている。似合わないくらい、きちんと並んでいた。
「くま」
「はい」
「受入先って、施設?」
少し長く黙ってから、くまが言った。
「おうちの可能性があります。施設の可能性もあります。どちらにしても」
そこで途切れ、次は妙に素直な声になった。
「設定済の相手が、いたはずです」
いたはず。
いまいる、ではなく。
椀の底を見下ろす。きれいに食べたのに、ぜんぜん気分が軽くならない。今日は食べられた。今夜は眠れる。そこまではいつもどおりだ。でも、拾ったうさぎが寝るために必要なのは、湯気でも歌でもなく、どこかに登録された帰る先だった。
窓の外では、夕方の色が建物の角へ沈んでいく。向かいの屋上で、おばあさんが最後の布をたたんでいる。町はいつもどおり乾いていて、遠くのスピーカーは何も言わない。その静けさが、かえって気味悪かった。
わたしは昼に拾ったカードをポケットから出し、夜のタグを横へ並べた。
引渡先 未設定。
受入先 設定済。
矛盾している。わざとなのか、壊れているのか、その中間みたいにいやだ。
「明日」
わたしは言う。
「搬入口Cじゃ足りない。設定してる側を見に行く」
「中央育成物流庫」
くまが、すぐに答えた。
「もっと奥です。たぶん、設定はそっちにあります」
「食べ物も?」
「希望としては、かなり」
さっき聞いたばかりの、観測じゃないやつだ。
でも、希望がないよりはましだった。わたしはカードとタグを重ねて、鍋の横へ置く。箱の中のうさぎは静かだ。くまも珍しく黙っている。二体とも眠ったふりがうまい。
部屋の明かりを落とす前に、箱へもう一枚、古い布をかけた。やさしさじゃなくて、念のためだ。
町のどこかには、まだ設定の残っている帰る先がある。
そこに、帰る相手がいるのかどうかは、まだ全然わからない。
でも、わからないまま動いている設備は、だいたいろくでもない。
明日の行き先だけは、はっきりした。
それは食べ物の匂いより、少しだけ強かった。
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