白い線の外で
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
朝の鍋は、とうとう湯気のほうが中身より多くなった。
昨夜の白いペーストを水でのばし、底をこそげて塩をひとつまみ。すすれば生き返るというより、死なない程度に戻る味がする。腹は黙る。でも機嫌は直らない。
「朝食です」
窓辺のくまが言う。
「栄養と屈辱の、よくない折衷案です」
「文句が細かいね」
「観察が正確です」
外はもう明るい。昨日ひろげたフィルム地図の白い線が、朝日に薄く浮いていた。中継口B。13:40。そこから先、壁の向こうに中央育成物流庫。
行くなら早いほうがいい。腹が減る前に歩くのが理想だけど、理想はたいてい、食べられない。
屋上へ出ると、おばあさんが缶を洗っていた。水は少ないくせに、缶だけ妙にきれいだ。
「今日は遠い顔してるね」
「中継口Bまで」
「高架の先かい」
わたしは少しだけ足を止める。
「知ってるの」
「町に長くいると、知らないふりがうまくなるだけさ」
おばあさんは缶を伏せた。
「日陰をつないで行きな。白い線の上は親切すぎる」
それだけ言って、こっちを見ない。
袋へくまを入れる。地図は丸めず、折り目に沿って薄くたたんだ。子どもの手でも破れにくい素材らしい。そういう気づかいだけは、今も新品だ。
通りへ降りる。朝のうちはまだ風がある。低い手すり、丸い角、消えかけた魚の絵。町の表面は大人むけに錆びているのに、その下に、背の低い誰かのための道だけがしぶとく続いている。
「くま」
「はい」
「白い線の上は親切すぎるって、どういう意味だと思う」
「白い線の上にいるかぎり、親切が追ってきます」
「嫌な言い方」
「だいたい当たります」
地図のとおりに細い横道へ入る。大人なら見落とす高さに、小さな手のひらマークが続いていた。古い薬局の脇、壊れた自販機の下、半分埋まった花壇の裏。子ども用の町は、いつも大人の影を縫って通る。
途中の給水口は死んでいた。栓をひねっても、咳みたいな音がひとつ出ただけだ。休憩所のベンチは低く、小さく、日よけだけ妙に新しい。座ると膝が上がりすぎて落ち着かない。
「ぜんぶ小さい」
「想定利用者も小さいです」
「見ればわかる」
「では感想を更新してください」
「ぜんぶ、小さいまま止まってる」
くまは少し黙った。
「それは、あまりよくありません」
その先で、高架の影が地面へ長く落ちていた。中継口Bは、思っていたよりずっと地味な場所にあった。古い配送センターの裏庭みたいな窪地。低い白線が地面を四角く囲み、小さなベンチが三つ、日よけの布がひとつ。どれも角が丸い。どれも掃いたみたいにきれいだ。
人は、いない。
いるべき気配だけがある。
白線の脇に、背の低い収納箱があった。ふたの上に靴のマーク。わざわざ見つけやすい場所に置かれているくせに、昨日まで誰にも見つからなかったみたいな顔をしていた。
「罠っぽい」
「食べ物のある箱は、だいたいそうです」
「身もふたもない」
しゃがんで、ふたを開ける。
銀色の小さな水筒。やわらかいビスケットが四枚入った透明袋。薄いおしぼり。黄色い帽子。いちばん奥に、青い犬の形をした小さな引き車が入っていた。ひもの先に、白い靴の絵がついた持ち手。古びているのに、塗装の欠けがほとんどない。
ありえない。ここでいちばん変なのは、犬の顔じゃなくて、手入れのされ方だ。
腹が先に反応した。ビスケットの袋を持つ。軽い。軽いのに、喉が鳴るには十分だった。
「食べていいかな」
「人類の歴史は、だいたいその一言から悪化します」
「反対?」
「空腹で死ぬ案よりは賛成です」
袋を開ける。匂いは薄い。噛むと、最初に粉っぽさが来て、あとからほんの少しだけ甘い。やさしいふりをした保存食の味。でも腹は拍手した。
二枚目へ手を伸ばしたとき、くまが低く言った。
「その犬は、知っています」
動きが止まる。
「めずらしく早いね」
「歩行誘導玩具」
くまの声が少しだけ遠い。
「整列前の不安軽減、列保持補助、白線歩行訓練……」
そこで途切れた。
「訓練って、なに」
返事のかわりに、指先がひもへ触れた。犬の腹のあたりで、かち、と小さく何かが噛んだ。
次の瞬間、青い犬が歌いだした。
「よいこはしろいせんのうち」
腹の底が冷えた。
地面の白線が、遅れて光る。すうっと庭の四角をなぞり、収納箱の下、ベンチの脚、日よけの柱まで白い筋が走る。低いスピーカーが膝の高さで目を覚ました。
『受入予定、一名』
『同行補助端末を確認しました』
『整列を開始します』
「最悪だ」
「はい」
くまが言う。
「かなり正式な最悪です」
庭の奥、今まで壁だと思っていたところが、左右へゆっくり開いた。中から出てきたのは、白くて丸い低床の台車だった。小さなベッドみたいな形で、脇にやわらかそうな固定具がついている。角がぜんぶ丸い。親切そうで、心の底から気味が悪い。
もう一台、反対側の壁も開く。
挟まれた。
「走る?」
「白線の外へ出ると、追尾の優先度が上がる可能性があります」
「先に言って!」
「いま思い出しました!」
犬は歌いながら、白線の上をちょこちょこ進む。白い靴の絵のついた持ち手が揺れるたび、台車が同じ速度で動いた。速くはない。でも、いやに迷いがない。
『あわてなくてだいじょうぶです』
『そのままでお待ちください』
「だいじょうぶじゃないときしか言わない!」
庭の隅を見まわす。高架の柱。割れた排水溝。掃除用の細いブラシ。倒れた案内板。日よけの端を留めている古いクリップ。白線は排水溝の手前で一度だけ切れ、そこから先は庭の中央へ回りこんでいる。
そこだ。
「くま」
「はい」
「白線に、どのくらい忠実?」
「宗教に近い可能性があります」
「よし」
地図を取り出す。子ども用の丈夫なフィルム。昨日までの道はもう頭に入っている。端の、通ってきた区画のところだけを思いきり裂く。びり、といやな音がした。くまが小さくうめく。
「地図が」
「あとで謝る」
裂いた帯をひっくり返す。裏は光をよく返す、白に近い銀色だ。これを白線の切れ目にかぶせ、排水溝の向こう、開きっぱなしの清掃庫の口までのばす。足りないぶんは、ビスケットの袋を裂いてつなぐ。古いクリップで端を留める。見た目はかなりひどい。子どもの工作でも、もう少し誇りがある。
でも白い。十分に白い。
「どうです」
くまが言う。
「行儀の悪い延長工事です」
「褒めてる?」
「半分」
青い犬を持ち上げる。まだ歌っている。こっちまで頭が悪くなりそうな、やさしい節だ。
「働いてもらうよ」
ひもを、わたしのつくった偽の白線の先へ置く。犬の腹をもう一度押す。靴のついた車輪が、ちょこん、と動く。
台車二台が同時に進路を変えた。
『整列を確認します』
『しろいせんのうちで、そのまま』
「そのまま行って」
わたしは息を止める。
犬が偽の白線を進む。フィルムがかすかにたわむ。排水溝は幅こそ狭いけど、台車が落ちれば十分詰まる深さだった。
青い犬は軽い。ひょいと越える。
一台目の台車が乗った瞬間、フィルムが鳴いた。
べこん、と鈍い音。前輪が落ちる。続いて後輪が滑り、台車の鼻先が排水溝へ突っこんだ。二台目は止まりきれず、一台目の尻へきれいに追突する。
親切そうな丸い体が、最悪の角度で重なった。
『整列を、』
『整列を、』
『整……』
声が詰まる。白線が明滅し、台車の車輪が空回りする。青い犬だけが、その先でまだ元気に歌っていた。
「勝ち?」
「かなり下品ですが、勝ちです」
「よかった」
その言葉の直後、上で羽音がした。
まだ来るのか。
高架の梁のあいだを、小型ドローンが二機のぞく。台車の混乱に引かれたみたいに旋回を始める。白い線の庭はもう安全じゃない。
わたしは収納箱へ戻り、水筒と残りのビスケットを袋へ突っこむ。黄色い帽子は少し迷って、やめた。どう考えても似合わない。
日よけの柱の裏、低い壁の下に、子どもがくぐるにはちょうどよくて、わたしにはぎりぎりの隙間があった。地図の端に載っていた「避難筒」の記号。たぶんこれだ。
「くま、入れる?」
「あなたが入れるなら、私は概念として入れます」
「便利だね」
「安価です」
袋を先に押しこみ、肩を横にして潜る。背中がこすれ、肘がつかえ、砂が首筋へ落ちる。上では羽音。後ろでは歌。前では真っ暗。全部まとめて感じが悪い。
「よいこはしろいせんのうち」
「おまえほんと元気だな……」
最後は蹴るみたいにして抜けた。転がり出た先は、高架の外れの細い路地だった。日差しが横から刺し、風が砂をさらっていく。羽音はまだ向こう側にいる。白線の庭と歌声は、壁一枚ぶん遠くなった。
しばらくその場で息をした。喉が熱い。心臓がまだ走っている。
くまが言う。
「生還しました」
「地図、一部死んだけどね」
「名誉の負傷です」
袋から水筒を出す。ふたをひねると、ちゃんと水の音がした。冷たくはない。それでも舌に落ちた瞬間、体の奥までまっすぐ入る。二口で止めるつもりが、三口いった。
ビスケットを半分くわえたまま、壁にもたれる。さっき裂いた地図の残りをひろげる。白線は途中で欠けた。そこだけ、もう戻せない。
「もったいなかったかな」
「使わず飢えるより、ましです」
「それはそう」
路地の向こうで、やさしい声がかすかに流れた。
『受入予定、一名』
『未到着』
『次便へ振替を行います』
ビスケットの甘さが、急にまずくなる。
一名。
まただ。
昨日の不在票も、今日の整列も、ずっと一名ぶんで動いている。箱も、帽子も、低いベンチも、白い線も。町は、だれか一人のための親切を、まだやめていない。
「くま」
「はい」
「この町、ほんとに待ってるんだね」
くまはすぐには答えなかった。擦り切れた耳が、袋の口から少しだけ出ている。
「待っているか」
それから、小さく続けた。
「数え直しているのかもしれません」
「同じに聞こえる」
「似ています」
くまの声は低かった。
「でも、数えられる側には、たぶん違います」
返す言葉が出ない。
わたしは残りのビスケットを見た。たった二枚半。今日のぶんとしては上出来だ。中継口Bの位置もわかった。避難筒も見つけた。白線の庭は、たぶん次はもっと警戒する。
それでも、壁の向こうへ行く理由は増えた。
正解がなくても、次の手は作れる。地図が欠けても、足りないぶんは自分でつなげばいい。問題は、その先にあるものが、食べ物なのか、答えなのか、それとももっと感じの悪い親切なのかだった。
袋の中で、くまが小さく鳴る。
「次回の提案があります」
「聞くだけ聞く」
「白い線をぜんぶ黒く塗る」
「規模がでかい」
「では、物流庫へ行きましょう」
そっちはもっと規模がでかかった。
でも、たぶん正しい。
お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。




