やさしい声の不在票
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
朝の鍋は、底のほうから先に諦める。
昨夜のゼリーを水でのばし、塩糖の粉を爪の先ほど落とす。湯気だけは立派で、鍋の内側の傷が向こうでゆらいだ。ひとくちすする。甘い。しょっぱい。最後に、消毒液みたいな匂いが鼻へ残る。腹は受け取る。でも満足は座らない。
窓辺のくまの胸で、星型プレートが朝日を返した。古びた毛の上で、新品の黄色だけがまだ浮いている。
「朝食です」
くまが言う。
「分類としては、希望の薄いほうです」
「食べ物に入れてるだけえらいよ」
通りの低いスピーカーが、今日も朝からやさしい。
『移送中の方は、足もとにご注意ください』
『暑い時間の外出は控えましょう』
だれも移送されていない町で、それだけは毎日まじめだ。
向かいの屋上では、おばあさんが空き缶を並べていた。こっちに気づくと、片目だけ細める。
「今日は動く顔してるね」
「物流庫を探す」
「朝飯前に?」
「朝飯が前にないから」
おばあさんは鼻で笑った。
「昼の声が増える前に行きな。親切が多い日は、たいてい面倒も多い」
袋へくまを入れ、昨夜のメモをポケットへ押しこむ。中央育成物流庫、第七系統。名前しかない。でも終末では、名前のあるものはたまにまだ残っている。
通りへ出る。昔の遊歩道らしい細道に、腰より低い手すりが続いていた。魚や星の絵がところどころ剥げ、子どもの足音だけを待っているみたいな縮尺で町が残っている。
「第七系統、心当たりある?」
「あります」
くまが即答した。
足が止まった。
「あるなら最初に言って」
「停留所。受け渡し口。歌。泥。高い影。白い皿。順不同です」
「後半は夢のゴミ捨て場じゃん」
「記憶はときどき高級な事故を起こします」
役に立たないものを、役に立つ順に並べ替えるのはわたしの仕事だ。停留所。受け渡し口。高い影。なら高架下だろう。古いトラムの線路が町の北をかすめている。日陰ができる。設備も残りやすい。
途中、足もとの端末がくまの胸の星を見たのか、小さく灯った。
『おはようございます』
それだけで黙る。昨日まで保護だ回収だとうるさかったくせに、今日は挨拶だけだ。許可されたというより、見て見ぬふりをされている感じがした。
高架の影は昼前でもひやりとしていた。柱のあいだに古い売店や倉庫が並ぶ。シャッターは歪み、ガラスは曇り、張り紙は剥がれかけたまま固まっている。その中にひとつだけ、妙に新しい黄色があった。目線よりずっと低い位置の、手のひらの形。指先だけが薬局の裏を向いている。
「露骨」
「幼体向け案内は、たいてい恥がありません」
くまが言う。
「柵の内側まで親切です」
「朝から言い方が悪い」
薬局の裏口の脇に、小さな扉が埋まっていた。膝くらいの高さ。丸い取っ手。全部の角がやわらかい樹脂で包まれている。上には擦れて消えかけた文字。
第三区画 受渡補助口
喉の奥が少し熱くなった。探していたものが、思っていたよりずっと近い場所でまだ生きていた。
くまを持ち上げる。胸の星がじんわり温かくなった。次の瞬間、補助口の縁に青い線が走る。
『同行許可を確認しました』
『受け取りを準備します』
「準備しなくていいときほど手が早い」
「親切は待てません」
扉が内側へすべり、小さな引き出しが前へ出た。中には銀色のパウチが二つ、細い栄養バーが一本、それから厚紙の札が一枚。どれも軽い。どれも新品だ。角には小さく、対象年齢0〜3。
腹が、品のない音で鳴った。
……やめろ。
「これは持って帰る」
「賛成です。ついでに扉も持ち帰れば、明日から定期収穫できます」
「すぐ犯罪を農業みたいに言うな」
厚紙の札を取る。片面は白、片面は赤。白いほうに細い印字が走っていた。
受領票
第七系統
次便 13:40
中継口B
場所に時刻までついた。名前だけだった明日が、急に具体的になる。
そのとき、補助口の奥で別の機械が目を覚ました。低い駆動音。引き出しの上の小さな画面が灯る。
『受領確認を開始します』
『補助端末を誘導位置へ』
『外部電源を接続してください』
画面の脇に、古い差込口があった。うちのランプ用の変換アダプタと合う形だ。合ってしまうのが腹立たしい。
「地図を出す気だ」
「そして残量を殺します」
くまが答える。
「私を差しこんでも、たぶん少し光ります」
「絶対やらない」
「では私を投げてください。故障は注意を引きます」
「もっとやらない」
袋から小さなバッテリーを出す。残りは半分もない。今夜の灯りのぶんだ。ここで減らせば、夜の鍋は暗い。でも地図が出るなら、見逃せない。
「三十秒だけ」
差しこむ。画面が明るくなった。
古い路線図みたいな線が浮かぶ。第三区画。中継口B。そこから先へ白い線が区画の外まで伸び、終点に短い文字が出た。
中央育成物流庫 第七系統搬入口
本当にある。
その実感より先に、残量表示が目に見えて減った。飲み方が乱暴すぎる。さらに補助口の上で白いランプが回り始める。
『移送補助機を呼び出します』
来る。
どこから。何秒で。
『受領確認まで、その場でお待ちください』
遠くで、聞き覚えのある羽音がした。ひとつじゃない。
「待たない!」
わたしはバッテリーを引き抜く。画面は消えかけながら、それでも最後に中継口B、13:40、搬入口の文字だけしぶとく残した。十分だ。逃げるには。
けれど引き出しが閉まりかけたところで、奥にまだ何か見えた。もう一つのパウチ。栄養バーの下に、薄い封筒。
高架の上を影が横切る。白いランプは機嫌よく回りつづける。やさしい声は、こういうときだけ張りがある。
「くま」
「はい」
「十秒で持って逃げる方法」
「泣く」
「は?」
「設備は泣いている幼体に弱い可能性があります。私が代行します」
「最悪の案から出すのやめて」
視界の端で、厚紙の札が揺れた。白。赤。なんとなく裏返す。赤い面には、太い字でほとんど命令みたいに刷ってある。
不在票
受取不能時は差込口へ
一瞬、頭が止まる。
「……は?」
くまが妙に明るい声を出した。
「不在になれます」
「いまここにいる」
「制度はその程度の矛盾を愛します」
羽音が近づく。白いランプが回る。喉の奥で心臓が跳ねる。
わたしは赤い面を差込口へ押しこんだ。紙は半分ほど入ったところで、機械に噛まれた。ぐっと引かれる。白いランプが一瞬だけ止まる。
『不在を確認しました』
今朝いちばん、ありがたい声だった。
『次便へ振替を行います』
『移送補助機を停止します』
『補助物資は保留できません』
最後の一文と同時に、引き出しがもう一度かたんと前へ出る。奥に残っていたパウチと薄い封筒が、どうぞと言わんばかりに顔を出した。
「保留できないって」
「持って行け、の上品な言い換えです」
「今日は妙に翻訳がうまいね」
「昔、よく怒られた記憶があります」
「だれに」
くまは少し黙った。
「小さい靴の持ち主に」
それから、余計に足す。
「私は列を乱しやすかったので」
聞き返す前に、羽音が高架の向こうへ逸れていった。白いランプも消え、補助口は何もなかったみたいな顔で黙る。高架の影に、自分の荒い呼吸だけが残った。
この町では、いることより、いないことにされるほうが助かるらしい。
「生還」
「加えて、正規手順を踏んだ略奪です」
「その言い方ほんと好きじゃない」
「では、行儀のよい窃盗」
そっちも嫌だった。
帰り道、封筒の中身を確認する。薄いフィルムの地図だった。子どもの手でも破れにくい素材らしく、やけに丈夫だ。描かれているのは町全体じゃない。低い設備と低い通路だけを結んだ、子ども専用の地図。大人の店も家も載っていない。代わりに、休憩所、受渡口、避難筒、日陰、給水、補助機待機帯。そういうものばかりが細い記号で埋まっている。
見慣れた町なのに、知らない臓物をひらいたみたいだった。
「別の町だ、これ」
「別の優先順位です」
くまが言う。
「大きい人間は、後から生えた障害物として処理されている可能性があります」
「その言い方、ぞっとする」
「ぞっとするべき地図です」
高架の外へ出ると、日差しが一気に刺さった。足もとの端末が一度だけ白く灯る。
『お気をつけて』
またそれだけだ。今日は保護も回収も言わない。くまの胸の星が効いているのか、あるいは本来の持ち主に向けた道を、わたしが横から借りているだけなのか。どちらでも気分はよくない。
部屋へ戻ると、おばあさんが屋上の縁で缶を回収していた。
「早かったね」
「親切に追い出された」
「成果は」
銀のパウチを振って見せる。おばあさんの目が細くなる。
「また新しいやつかい」
「先月の日付。地図つき」
「子ども向けだね」
「見ればわかる?」
「見なくてもわかるよ」
おばあさんは缶を袋に落とした。
「この町で新品が流れるときは、だいたい背が低いほうの都合だ」
背が低いほう。
わたしは、その棚に並んだことがない。
聞きたいことはいくつか浮かんだ。でも、いまは腹のほうが強い。鍋に水を張り、パウチを半分だけ落とす。白いペーストがゆっくり溶け、やさしそうな匂いを足した。やさしそう、で止まるあたりが信用ならない。
くまを窓辺に置き、フィルム地図をひろげる。中継口Bから先の線は、町はずれの高い壁のところで消えている。その向こうに小さく、搬入口の記号。
「明日はそこ」
「13:40」
くまが言う。
「受け渡し前に、歌が必要かもしれません」
「なんの」
「整列の歌。私は一番だけ知っています。たぶん危険です」
「危険な歌ってなに」
くまは少し考えてから、妙にきれいな声で歌いかけた。
「よいこはしろいせんのうち」
「やめて」
反射みたいに止めた。自分でも驚くくらい、すぐだった。くまはそこで黙る。窓の外の風が、魚の影を揺らす。
「……続きは?」
「思い出さないほうが安全です」
くまが小さく言う。
「たぶん、並ばせる歌です。並んだあとの記憶が、あまりよくありません」
鍋をかき混ぜる。湯気が立つ。今日のぶんはある。夜の灯りは少し減る。それでも、名前だけじゃなく、時刻と口と道を手に入れた。
通りのスピーカーが、またやさしく鳴った。
『次便の受け取りに備えてください』
だれも受け取らない町で、次便だけは几帳面に来るらしい。
「ねえ、くま」
「はい」
「第七系統、ほんとに動いてるね」
「動いています」
くまは少し間を置いた。
「止められていない、のほうが近いかもしれません」
その言い方は、古い機械より少し冷たかった。
わたしは鍋を見つめたまま、白い線の走る地図へ目をやる。明日は高架の先へ行く。受渡口じゃない。中継口だ。やさしい声の届く範囲より、たぶん少しだけ奥へ。
正解がなくても、次の手は作れる。
問題は、その手がだれのために用意されたものかだった。
――わたしじゃない可能性のほうが、高い。
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