くまの落とし物
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
朝、通りのスピーカーはまだくまを探していた。
『第三区画、未回収の育成補助端末を捜索中です』
『発見された方は、刺激せず待機してください』
刺激せず、のところで、くまの腹からくしゃみみたいな電子音が漏れた。古い配線が機嫌を損ねたときの音だ。
「名指しじゃないのに反応するの、やめなよ」
「緊張しています」
「ぬいぐるみが?」
「回収後に分解されない保証がありません」
朝からひどかった。鍋の底をのぞく。豆はもうない。昨日の乾燥いもの繊維が、こびりついて茶色い筋をつくっているだけだ。銀のパウチは二つ残っているけど、あれを開けるたびに、どこかの知らない子の棚から一つ減らしているみたいで、口が重くなる。
窓際の光にくまをかざす。片耳はへたり、背中の縫い目は少し裂け、胸の毛並みだけ妙に擦れていた。いつも手で持つからだと思っていた場所だ。今朝はそこに、別の意味がある気がした。
「ねえ」
「はい」
「あんた、胸になにかつけてたことある?」
すぐには返事がこない。沈黙のあと、くまはいつもの声のまま、別の誰かの文句みたいに言った。
「屋外移送時は、許可表示を確認してください」
「その続きがほしいんだけど」
「欠損しています。残念ながら」
「毎回そこだけ元気に言うね」
屋上へ出ると、おひるねシールドの魚が朝日に薄く透けていた。水受けには夜露がたまり、向かいの屋上では、おばあさんが缶を逆さにして乾かしている。町は乾いているくせに、古い設備だけは子ども向けの絵を忘れない。
「今日は顔がひもじいよ」
おばあさんが言った。
「顔まで見える?」
「鍋を持つ手でわかる」
わたしは肩をすくめる。
「食べ物を探しに行く。ついでに、くまの落とし物も」
「順番としては逆じゃないのかい」
「役に立つ落とし物なら、食べ物がついてくるかもしれない」
「雑な祈りだねえ」
階段を降りる。通りは朝のうちから白く乾き、風が吹くたび砂が靴の中へ入りこんだ。昨日逃げ出した停留所の待合室は、もう何事もなかったみたいな顔で口を開けている。魚の壁。低い椅子。小さな手洗い台。ぜんぶ子どもの高さだ。大人の町なのに、そこだけ別の縮尺で残っている。
待合室の脇に、細い通路があるのを昨日は見落としていた。壁の塗装が剥げ、その下から星の絵がのぞいている。通路の先には丸い小屋がひっそり立っていた。窓は高いのに、取っ手だけ低い。扉の下半分には、手のひらで押した跡みたいな擦れがいくつもついていた。
「感じが悪い」
「親切そうな施設ほど油断なりません」
くまが言う。
「檻もたいてい角を丸くします」
「過激だなあ」
押すと、扉はあっさり開いた。
中はひんやりしていた。古いほこりの匂いに、ほんの少しだけ新しい樹脂の匂いが混じっている。壁の低い棚には絵の印がついていた。くじら、りんご、くも、星。番号じゃなくて絵で区切られているあたりが徹底している。床の低いところだけ、ほこりが薄かった。最近なにかが動いた跡だ。
棚を一つずつ見ていく。りんごには空の箱。くじらには割れたコップ。くもには布の切れ端。星の棚だけ、奥で何かが鈍く光った。
指を差し入れて引っぱり出す。布張りの小さな絵本だった。角は丸く、表紙には黄色い星と、手をつないだ二人の絵。厚紙の中に何か入っているみたいで、振ると小さくからんと鳴る。表紙の端には新しい印字があった。
先月。
背中がじわっと冷える。昨日のパウチと同じだ。廃墟の町で、こういうものだけ先月の日付をしている。
「くま、これ」
わたしが見せると、くまの腹が短く鳴った。
「携行遊具」
声が少し遠い。
「移送前の情緒安定に有効。補助端末と同時携行を推奨……」
そこでまた切れた。
「遊具?」
「たぶんです」
「たぶんで町が動くの、迷惑なんだよね」
絵本を開く。中は魚、雲、靴、太陽。指で触るとめくれる仕掛けがついていて、その最後のページに、薄い樹脂の星型プレートがはまっていた。裏に小さな金具。胸がざわつく。くまを膝にのせ、擦れた胸毛をかきわける。縫い目の間に、細い輪っかが埋もれていた。前からあったのに、いままでただの傷だと思っていたやつだ。
でも、すぐには留めなかった。絵本、星型プレート、くまの胸、昨日から温かい透明の帯。全部がばらばらのまま、頭の中で引っかかる。
「許可表示って、これ?」
「可能性があります」
「可能性で動く設備、嫌だな」
「この町は、かなりそうです」
絵本の角で自分の指を軽く叩く。考える。透明の帯は持ち主を呼ぶ。くまは補助端末と認識される。なら、胸の輪っかは飾りじゃない。連れ出していいですよ、ここにいますよ、そういう目印の置き場だ。昨日は迷子扱い。今日はたぶん、その逆を確かめられる。
「外れたら笑うよ」
そう言って、星型プレートをくまの胸へはめた。ぱちん、と小さく鳴る。驚くほどぴったりだった。
次の瞬間、小屋の床下で何かが起きた。
白い線が足もとを走り、壁際の小さな灯りが順にともる。棚がかたかた震え、頭上じゃなく膝の高さのスピーカーから、やさしすぎる声が流れた。
『同行許可を確認しました』
『おそとセットを用意します』
『移送補助機を呼び出します』
「呼ばなくていい!」
「全面的に同意します」とくま。
星の棚の下から引き出しが前へ出た。中には細いゼリーが三本、塩糖の粉末、薄い帽子、日よけ布。どれも新品だった。ゼリーには小さく、屋外活動用、対象年齢0〜3。
腹がきゅっと鳴る。情けないくらい正直だった。
「罠でも食べ物は食べ物か」
「名言としては弱いです」
ゼリーを袋へ突っ込んだとき、小屋の外で低い羽音がした。ひとつ。続いてもうひとつ。昨日のやさしい声と同じで、親切そうなものほどこちらの都合を聞かない。
『移送経路を確保します』
『迷子防止信号を追跡します』
袋の底で、透明の帯がまた熱を帯びた。青い点が布越しに脈を打つ。あっちもこっちも本気だ。わたしは小屋の入口の外をのぞいた。広場の脇に、ひっくり返った三輪車がある。前輪は曲がり、ハンドルには色あせた黄色い旗。昨日の避難路の先で見たやつと似た子どもサイズのがらくただ。
「くま」
「はい」
「遊具って、設備にも効くと思う?」
「幼体は指示より遊具に従います」
「それは昨日聞いた」
「設備も同程度に単純である可能性があります」
「言い方」
でも、たぶん当たりだ。
わたしは透明の帯を取り出した。熱を持った帯を三輪車のハンドルへ巻きつけ、その上から絵本をひもで縛る。星の表紙が前を向くようにして、黄色い旗も起こす。見た目は最悪だった。迷子対策を真剣にやった結果、全部失敗したみたいな飾りつけになる。
羽音が入口のすぐ前まで来る。
わたしは三輪車を抱えて小屋の裏へ回り込んだ。そこから先、昔の遊歩道だったらしいゆるい坂が見える。白い誘導線はそこをきれいになぞっていた。行先なんて知りたくもないのに、道だけは親切だ。
『こちらです』
足もとのスピーカーが言う。
『あわてなくてだいじょうぶです』
「大丈夫なときにしか言わないでほしい」
三輪車を坂へ押し出す。前輪が一瞬引っかかったので、靴先で思いきり蹴った。がたん、と頼りない音を立てて三輪車が走り出す。黄色い旗が振れ、透明の帯の青が跳ね、絵本の星が朝日にちらついた。
すぐに羽音がそっちへ吸われた。
一機、二機、広場の上にいた小型ドローンがまとめて三輪車を追う。誘導線の先々で灯りがつき、やさしい声が角を曲がるたびに先回りしていく。
『もうすぐです』
『そのままでだいじょうぶです』
「行先があるの、最悪だね」
「とても」
その隙に、わたしは小屋の裏の点検口へ身を滑りこませた。掃除道具と割れたバケツが押しこまれた狭い通路だ。ほこりが鼻につく。袋を胸に抱え、くまを脇へ押し込み、膝で進む。外ではまだ、だいじょうぶです、が繰り返されている。だいじょうぶじゃないものほど、あの声は丁寧だった。
金網を押し開けると、広場の裏の路地へ出た。風がぬるく、砂が壁際で渦を巻いている。羽音は遠ざかり、白い誘導灯も一つずつ消えていった。
「生還しました」
くまが言う。
「かなり上出来です」
「ありがと。あんたの落とし物、だいぶ雑に使ったけど」
「資産運用としては正しいです」
路地の日陰にしゃがみこみ、屋外活動用ゼリーを一本あける。中身は半透明で、押すとにゅるりと出た。口に入れる。最初に缶詰の桃を薄めたみたいな甘さ。すぐ塩が追いつき、最後に消毒液とビタミン剤のあいだみたいな匂いが鼻へ抜けた。
「うわ」
「まずいですか」
「まずくはない。けど、口の中で善人ぶってくる味がする」
くまが少し間を置く。
「長生きしそうです」
半分くらい、一気に飲んでしまった。味の判断より先に、体が受け取っていた。残りをくまの口元へ向ける。
「気分だけね」
「満腹です。私は安価です」
帰り道、交差点の低い端末がわたし達の足もとで白くともった。昨日なら保護だ回収だとうるさかったのに、今日は一度だけ静かに鳴る。
『お気をつけて』
それだけだ。
わたしは立ち止まった。くまの胸の星を見下ろす。古びた毛の上で、新品の黄色だけが妙に鮮やかだった。
「効いてる」
「許可された可能性があります」
「町に、ね」
部屋へ戻るころには、日が少し傾いていた。鍋に水を張り、ゼリーの残りをほんの少し落とす。甘くてしょっぱい匂いが立ちのぼり、食べ物なのか手当てなのか曖昧な湯気になる。向かいの屋上のおばあさんがこちらを見たけど、今日は何も投げてこなかった。わたしも何も言わなかった。胸の星だけで、十分うるさい。
絵本の最後のページをもう一度開く。星型プレートが抜けた跡の裏に、細かい印字が並んでいた。同行者欄、引渡し先欄、時刻欄。ほとんど空欄で、ひとつだけくっきり残っている。
第三区画
予定受入数 一
一、の字だけがやけにはっきり見えた。たった一人ぶんの場所みたいな書き方だ。来る予定が一人いたのか、一人までしか許されないのか、どっちでも気分が悪い。
「くま」
「はい」
「第三区画って、いま小さい子いるのかな」
くまはすぐに答えなかった。窓の外で、魚の影が風に揺れる。ずっと黙ってから、低く言った。
「受入数と実在数は一致しない場合があります」
「そんな答え、どこで仕入れたの」
「たぶん、よくない場所です」
さらに少ししてから、もうひとつ。
「引渡し先未設定」
くまが、思い出すみたいに言う。
「その単語も、私の中で引っかかります」
わたしは絵本の背を裏返した。端に、ごく小さく製造元が刷られている。
中央育成物流庫 第七系統
知らない名前だ。でも、知らないままにしていい新しさじゃない。先月つくられた絵本。先月つくられたゼリー。町のどこかでは、子ども向けの何かだけが、いまも数を数えられている。
鍋をかき混ぜる。湯気が細く立つ。今日は少し食べられる。追跡は少し静かになった。わからないことは、昨日より増えた。でも、足りないものの形が見えてきたぶん、昨日よりずっとましだった。
正解がなくても、次の手は作れる。
「ねえ、くま」
「はい」
「次は、その物流庫を探す」
「私の落とし物が多すぎます」
「役に立つなら上等」
「危険物でもですか」
「そこは先に言え」
外の通りで、久しぶりにやさしい声が落ちた。
『移送中の方は、日差しにご注意ください』
わたしは鍋を見つめた。日差しの心配だけしてくれる世界なら、もう少しましだっただろう。それでも、黙って回収されるより、行先を自分で選ぶほうがいい。
明日は動ける。そう思えるだけの材料が、今日はちゃんと手に入った。
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