やさしい保護
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青い点は、鍋の中でもきっちり仕事をしていた。
昨夜のうちに外した透明の帯を小鍋へ押し込み、金属のふたをして、その上から菓子袋の銀色まで巻いた。見た目は完全に怪しい。でも、これで少しはおとなしくなると思ったのだ。
思っただけだった。
ぴ、と鍋の中で一度またたくたび、部屋の隅に積んだ死んだ端末のどれかが、ぢ、と短く鳴る。寝返りの途中で起こされて文句を言うみたいな音だった。
「おはようございます」
くまが言った。
「本日の重要案件は、朝食と隠蔽です」
「順番がやだ」
ふたを少しずらす。青い点は、湯気でもないのに鍋の内側を薄く青く撫でていた。光というより、小さな針で空気をつついている感じがする。消えそうで消えない。触れた金属だけ、うすく温かい。
ポリタンクの水は昨日より増えていた。魚の絵のついたおひるねシールドが朝日に透けて、露が受け皿へ落ちる。水はいい。見ていて機嫌が直る。
問題は豆だ。びんの底に、ひとにぎりもない。
指先で数えようとして、途中でやめた。数えて増えるものじゃない。
「絶望は計量しても増えるだけです」とくまが言う。
「してない」
「では、眉間のしわを返却してください」
「しまう場所がない」
腹が減ると、考え方まで細くなる。交換所へ行っても、昨日の照合騒ぎのあとじゃろくなものは出ない。隠すべきものを抱えたまま見回りの多い場所へ行くのも、あまり賢くない。
だから賢くないことを、もうひとつやることにした。
どのみち光るなら、どこで何が反応するか見てやる。
わたしは鍋ごと帯を袋へ入れ、くまを抱えて外へ出た。
隣の屋上のおばあさんが、干した布をはたきながらこちらを見た。
「朝から変な顔だね」
「発信するし食べられないものを拾った」
「最悪だねえ」
「かなり」
「役に立つなら、まだましさ」
「それをいまから試す」
おばあさんは布越しに通りを見た。
「なら急ぎな。今日はやさしい声が多い」
通りへ降りると、ほんとうに多かった。
『第三区画、育成資材の所在確認を継続中です』
『異常を検知した場合は、落ち着いて申告してください』
落ち着いて、がいちばん難しい。
昨日の道を逆にたどる。角を曲がり、黄色い旗の束が下がる交差点まで来たところで、鍋の中がぴ、と光った。次の瞬間、横断歩道の脇に埋まっていた低い端末が青白く目を覚ます。
『わたりましょう』
思わず足が止まる。声の位置が低い。大人の腰よりずっと下。子どもの目線の高さだ。
「えらいですね、と褒める準備もあります」とくま。
「準備だけ聞こえた」
「幼体横断支援です」
「わたし、幼体じゃないけど」
「設備側にその繊細さは期待できません」
交差点を渡る。次は潰れたトラム停留所の前だった。壁のひびのあいだから蔓がのびて、ガラスは半分砕けている。なのに待合室の奥、低い収納庫だけ妙にきれいだった。拭かれたみたいな艶がある。
鍋の中でまた青が刺さる。
収納庫の表示が、古い喉を鳴らして灯った。
『本日の配布は終了しました』
『補助端末を検知』
『非常配布モードへ移行します』
「……へえ」
喉が鳴った。空腹の音か、好奇心の音か、自分でもわからない。
「くま」
「はい」
「補助端末って、あんた?」
少し間があった。いつもの遅れとも違う、引っかかるような沈黙だった。
「私の可能性があります」
「可能性で設備が動くの、迷惑だね」
「私もそう思います。えらいので」
「そこはやめないんだ」
待合室へ入る。椅子の布は日に焼け、本棚の角は欠け、壁に描かれた魚は色を失っていた。それでも収納庫の前だけ、時間が別に流れているみたいだった。鍋から帯を出して近づけると、青い点が普段より細かく脈を打つ。光が透明な帯の中を走り、糸のように端まで行って戻る。
収納庫の脇に、小さな丸い認証部。高さが低すぎる。しゃがみこみ、くまを差し出す。
ぴ。
『育成補助端末を確認しました』
『保護者認証、欠損』
『代替手順へ移行します』
「欠損って言われた」
「反論は難しいです」
下の引き出しが、かたんと前へ出た。
銀色のやわらかいパウチが三つ。細い粉末スティックが二本。使い切りの温度計が一本。新品だった。角に小さく、対象年齢0〜3。
手に取ったパウチは、拍子抜けするほど軽い。裏返す。印字の薄い製造月だけ、なぜかはっきり読めた。
先月。
指先が止まる。
廃墟の町で、先月つくられたもの。
「くま、これ」
「新しいです」
「だれのぶん」
「……」
返事のかわりに、頭上でやさしい声が鳴った。
『保護者不在の可能性があります』
『保護モードを開始します』
『室内でお待ちください』
そのときにはもう、待合室の入口でシャッターが降り始めていた。
わたしは一瞬だけ引き出しを見た。三つ全部持てる。袋にも入る。でもその一瞬が、完全によくなかった。
「それは聞いてない!」
走ったときには、隙間はもう膝の高さだった。くぐれなくはない。でも鍋と袋とくまと戦利品を抱えたまま滑り込むには狭い。外では低い羽音が近づいている。
「お迎えが来ます」とくまが言った。
「いらない!」
「同意します」
わたしは舌打ちして、鍋を床へ放った。金属音が待合室に跳ねる。パウチをふたつだけ袋へ突っ込み、ひとつは迷って、迷ったせいで落とした。拾い直す。最低だ。
シャッターの隙間は、もう肩も入らない。
「次!」
視線を振る。色あせた絵本、本棚、低い手洗い台。その奥、壁にはめこまれた布の筒が見えた。魚の絵がついた、子ども向けの遊具みたいなやつだ。片方は室内、片方は暗い奥へ続いている。
布のわきに小さく、非常時避難経路。
「くま、あれ」
返事は少しだけ違う声だった。くまの口から出ているのに、くまじゃない記憶の声。
「避難は遊びに見せかけます。幼体は指示より遊具に従います」
「いまだけその記憶えらい!」
くまを脇に抱え、袋を肩へ引っかけ、布の筒へ潜る。思ったよりずっと狭い。肩がつかえ、背中の布がざりっと鳴る。膝が床板へ当たり、前へ出ない。
後ろでシャッターが床についた。重い音。続いて外の羽音が、待合室の前で止まる。
「規格外です」とくま。
「言わなくていい!」
「訂正。ぎりぎり規格内です」
腹をへこませ、息を止め、片肘でずるずる進む。布の内側は古い洗剤みたいなにおいがした。袋の中でパウチがかさりと鳴る。ひとつ落としてくれば、もう少し楽だったかもしれない。そんなことまで頭をよぎって、自分で腹が立つ。
暗がりの先に、細い光が見えた。
最後はほとんど転がるように抜けた。雑草の中へ、ごろんと投げ出される。出た先は停留所の裏、小さな囲いだった。背の低い柵。色あせた足跡のペイント。誰も座らないままの小さなベンチ。
息を吸う。喉が痛い。肺が熱い。
「生還しました」とくまが言った。
「いまの顔、最悪でしょ」
「砂まみれですが、誇らしいです」
「それはよかった」
待合室の上で、小型ドローンがひとつ旋回していた。正面の入口に向かって、やさしい声でなにか話している。閉じ込められた子どもを落ち着かせる声だった。中にいるのは、捨てた鍋と埃だけだ。
わたしは身を低くして裏道へ入った。ポケットの中の帯はまだ温かい。脈みたいに、断続的に熱が指へ伝わる。
家へ戻るまでに二度、別のスピーカーが反応した。
『保護対象を確認できません』
『補助端末の所在確認を継続します』
補助端末。
階段を上がりながら、くまを見る。耳の片方は潰れ、毛並みは擦り切れ、背中の縫い目も少し開いている。どう見ても古いぬいぐるみだ。
でも、町の設備はそう思っていない。
夕方、銀のパウチをひとつ開けて、豆の鍋へ半分だけ落とした。白っぽいペーストはすぐ溶け、鍋にやわらかい匂いを足した。甘いような、しょっぱいような、食べ物と薬の中間みたいな匂い。
ひと口すすって、眉を寄せる。
「おいしくはない」
「まずくもない」
くまが言う。
「最も長生きしそうな評価です」
「でも腹にはかなりやさしい」
向かいの屋上から、おばあさんが鍋を持って顔を出した。
「今日は煮えるのが早いね」
「変なもの拾って、もっと変なものに換えた」
「雑な説明だね」
わたしは少し考えて、粉末スティックを一本だけ振って見せた。
「水に溶かすやつ。塩と糖。半分いる?」
おばあさんは目を細め、それから無言で乾燥いもを三切れ投げてよこした。ひとつは床、ふたつは腕の中。
「礼はそれでいい」
おばあさんが言う。
「妙なもんは、ひとりで抱えると腐るよ」
「食べ物じゃないほうも?」
「そっちはもっとね」
乾燥いもを鍋へ落とす。少しだけ世界がましになる音がした。
暗くなってから、残ったパウチを並べる。どれも新しい。管理番号も印字の癖もそろっている。たまたま残っていた在庫じゃない。どこかでまだ、数を合わせて、補充して、配っている。
対象年齢0〜3。
わたしは、その年の子を一人も知らない。
外のスピーカーが、夜の通りへまた声を落とした。
『第三区画、未回収の育成補助端末を捜索中です』
『発見された方は、刺激せず待機してください』
「刺激せず、だって」
わたしはくまを見た。
「刺激するとどうなるの」
「個体差があります」
「ひどい答え」
少し間があってから、くまがぽつりと言った。
「おむかえが必要だったのは、私のほうかもしれません」
鍋の湯気が細く立つ。
「覚えてるの」
「欠損しています」
くまはいつもの調子に戻っていた。
「でも、待機、引渡し、保護者不在。そのあたりの単語は、私の中で引っかかります」
窓の外で、魚の影が夜風に揺れている。眠るための膜は水を集め、迷子防止の帯は持ち主を呼び、古いぬいぐるみは町の設備に名前を知られている。
役に立つものには、だいたい持ち主がいる。
それが厄介だ。
でも、役に立つなら上等でもある。
「ねえ、くま」
「はい」
「明日は、あんたの落とし物を探しに行く」
「私が物ですか」
「半分くらいは」
「では、この世の多くです」
笑ってしまった。くやしい。
鍋の底をさらい、最後の一口を飲みこむ。今日は足りた。明日のぶんは、まだ少し足りない。でも、足りないものの形が見えたぶん、昨日よりはましだった。
外ではやさしい声が、まだだれかを探していた。
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