のぞき窓は、こちらを見ない
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連絡芯へ続く扉は、呼称保管室の奥でひっそり口を開けていた。
白い部屋を出ると、冷気の質が変わる。保管のためのきれいな寒さではなく、長く閉じた配管の奥に残った、金属と古い埃のにおいを含んだ寒さだった。壁の案内灯は半分眠り、床には教材搬入用の黄色い線が、何度も踏まれて薄くなっている。
わたしは記録板の図面を胸の前に持ち、赤い点から伸びる青線を目で追った。
「ここ、教室に運ぶ道だったんだよね」
『旧教材搬入路です。黒板、端末、実験器具、体操用マット、先生の隠し菓子などを運搬していました』
「最後のは教材?」
『先生の集中力維持装置です』
足元で何かがぱきりと鳴った。乾いた透明な破片だった。割れたカバーの内側に、小さな文字が残っている。
個別識別札投入口。
子供の名札を通すためのものだろう。けれど投入口は塞がれ、かわりに灰色の板が貼られていた。
個体区分カード専用。
わたしはそこから目を離すのに、少し時間がかかった。名札より軽い言葉が、名札より硬い板になっている。ここではきっと、名前を通すより、区分を通すほうが速かった。
『あお、前方に巡回音があります』
くまの声が低くなる。
通路の奥から、かすかな車輪の音が近づいてきた。一定の間隔で、床をこする。人の足音ではない。けれど人を探すための音だった。
わたしは壁際の教材棚の影へ身を寄せる。棚には古い算数ブロックが入った箱が並んでいた。赤、青、黄色。数を覚えるためのものが、今は息をひそめる壁になっている。
巡回機は、薄い箱に細い腕をつけたような形をしていた。前面のレンズが青白く光り、左右に首を振る。
『自律管理AI、巡回型。目的、未許可個体の検知』
「子供単独進入、禁止のやつ?」
『子供以外単独進入、もっと禁止のやつです』
「どっちで見つかってもいやだな」
巡回機のレンズが、投入口の灰色板をなぞる。わたしの隠れている棚の手前で一度止まった。胸の中の音が、通路にこぼれそうになる。
くまの耳を押さえた指に、布の縫い目が食い込んだ。
『提案があります』
「小声で」
『あおは教材です』
「今?」
『移動中の情操教材、分類未確定』
「失礼じゃない?」
『検知を避けるには失礼が資源です』
くまが、ぷつ、と短く音を出した。次の瞬間、棚の上の古い端末が起動し、かすれた音声を流した。
『教材搬入ログ、再生。情操補助ぬいぐるみ一体、ならびに関連青色物品、搬入中』
巡回機のレンズが端末へ向く。
『関連青色物品って何』
「わたしでしょ」
『あお、物品化に成功しました』
「喜べない成功だね」
巡回機は数秒考えるように停止し、それから腕の先で空中に印を描いた。
『搬入物、通過可。ただし青色物品は湿度変化に注意』
車輪の音が遠ざかる。曲がり角の向こうへ消えてからも、わたしはすぐには動けなかった。体の力を抜くと、膝が少し笑う。
青色物品。
口に出さずに、胸の内側でその言葉を転がす。痛いほどではない。でも、少し冷たい。
『あお』
「うん」
『現在の分類は仮です』
「知ってる」
『くまの分類も、情操補助ぬいぐるみです』
「それはだいたい合ってる」
『補助の精度に異議があります』
笑おうとして、息だけが出た。けれどその息は、さっきよりましだった。物品にされたばかりのわたしを、物品にされたくまが横で怒っている。たぶん、ひとりよりずっと強い。
旧教材搬入路は、途中から狭くなった。天井の低い保守用通路に入り、配管の下をくぐる。凍った水滴が管の継ぎ目に小さくぶら下がり、通るたびに肩へ冷たさを落とした。壁には先生の手書きらしい矢印が残っている。
こっち。
ただし頭を打つ。
くまはたぶん打たない。
腹立つ。
「先生、ここでも文句言ってる」
『頭部衝突ログが複数あります』
「先生が?」
『主に先生です』
矢印の先に、古い点検扉があった。表面は錆び、鍵穴の周りだけ何度も触られて黒ずんでいる。扉の横には、小さな認証盤。
管理中枢観測端子。
補助名、のぞき窓。
表示は生きていた。わたしが近づくと、画面に文字が浮かぶ。
接続種別を選択してください。
一、観測。
二、照会。
三、訂正。
その下に、先生の追記が赤く点滅していた。
三を押すな。
二も押すな。
一を押してから怒れ。
「怒る前提なんだ」
『先生の予測精度は高いです』
わたしは一を押した。
扉の向こうで、古い空気が動く音がした。鍵は外れない。かわりに、認証盤の下から薄い引き出しが出てくる。中には小さな飴が二つ、透明な袋に入っていた。
袋には黒い字で書いてある。
見るだけでも糖分は要る。
わたしはしばらくそれを見つめた。古すぎて食べられるかは怪しい。けれど、先生が本気で置いたのはわかった。危ないものの前で、少しでも口の中を甘くしておけと考える人だった。
「食べる?」
『賞味期限が失踪しています』
「じゃあ持ってく」
飴をポケットに入れると、点検扉の中央に細い線が走った。扉そのものは開かず、壁の一部が内側から光り始める。白い板が透明になり、その奥に暗い部屋が見えた。
のぞき窓。
名前の通り、こちらは入れない。ただ見るだけの窓だった。
暗い部屋の中央には、眠った端末群が円を描いて並んでいる。古い管理中枢の一部なのか、あるいはそこへつながる目だけなのか。画面には無数の項目が流れていた。
人口。
稼働資源。
保護対象。
教育対象。
例外個体。
照会不能。
文字は静かに流れ、誰の顔も映さない。ただ数え、分け、余ったものを別の箱へ移していく。
わたしは窓に手をついた。冷たい板の向こうで、世界が帳簿みたいに動いている。先生はここを見たのだ。子供を隠すだけでは負けると知った場所。名前を守っても、別の列に入れられれば意味が変わってしまうと気づいた場所。
『観測ログ、残存しています』
「先生の?」
『一部。最後の観測者名、講師権限代替、個人名は削除済み』
くまの声がかすかに乱れた。窓の端に、小さなログが開く。
管理中枢は子供を見ていない。
年齢を見ている。
消費量を見ている。
将来資源化率を見ている。
保護対象という言葉は、守るためではなく、配分を遅らせるための箱として使われる場合がある。
その下に、強く書き足された一行があった。
ならば、箱ではなく、窓を作る。
わたしは唇を噛んだ。先生の字は、呼称保管室で見たものより乱れている。急いでいたのに、怒っていたのに、それでもあきらめていない線だった。
「箱に入れないための、窓」
『観測者を増やす意図と思われます』
「隠すだけじゃなくて、見せる相手を選ぶってこと?」
『可能性があります。管理に見つからないためではなく、管理だけに見せないため』
窓の向こうで、一つの画面が明るくなった。
そこには、古い経路名が表示されていた。
外縁通信塔群。
観測共有端末。
未同期。
通信塔。教育棟の外。ここより遠く、もっと風の強い場所。
わたしはその文字を見ながら、ポケットの飴を握った。袋が小さく鳴る。
「先生、まだ行き先を残してた」
『文句を追加しますか』
「する。遅い、寒い、遠い」
『五七五に近づいています』
「近づけなくていい」
窓は、こちらを見ない。けれど、こちらが見たものは消えない。
くまを抱え直すと、布の体が少しだけあたたかかった。たぶん気のせいではない。わたしたちは箱ではなく、窓の前にいる。そこから先へ進むための名前を、もう持っている。
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