箱ではなく窓
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のぞき窓の光が薄くなっていく。暗い部屋の端末群は、また眠ったふりを始めた。完全に消えたわけではない。まぶたを閉じた人が、こちらの足音だけ聞いているような沈黙だった。
わたしは窓から手を離した。指先に冷たさが残る。ポケットの中では、先生の飴が小さく角を立てていた。
「帰ろう」
『目的地は外縁通信塔群では?』
「今すぐ行ったら、たぶん凍る。あと怒りながら歩くには糖分が足りない」
『見るだけでも糖分は要る、の適用範囲が拡張されました』
「先生のせい」
くまを抱え直すと、保守用通路の奥から低い駆動音が戻ってきた。さっきの巡回機より重い。床の下で何かが回り、壁の隙間から白い霧が細く漏れる。
『低温保管区画、夜間凍結保存へ移行。通路閉鎖まで、推定八分』
「八分で戻れる?」
『通常経路なら十三分です』
「だめじゃん」
『非常経路なら六分です』
「あるなら先に言って」
『非常なので、通常時に言うと非常感が損なわれます』
壁の古い矢印の下、さらに小さな字が浮かび上がっていた。霜に隠れて見えなかった先生の追記だ。
帰り道。
ただし膝を打つ。
くまはやっぱり打たない。
腹立つ二回目。
「先生、往復で怒ってる」
『継続的な頭部および膝部被害が推測されます』
わたしは点検扉の横の配管の隙間に体を滑り込ませた。想像より狭い。背中の袋がつかえ、肩が壁にこすれる。冷えた金属の匂いと、古い教材の紙の匂いが混ざっていた。
くまの耳が配管に当たって、ぺこ、と情けない音を立てる。
『損傷申告。尊厳に軽微なへこみ』
「あとで直す」
『尊厳を?』
「耳を」
通路は途中で二つに分かれていた。右は青い線、左は灰色の線。壁には管理用の表示が残っている。
青線、教育対象搬出。
灰線、個体区分返却。
どちらも、あまり通りたくない名前だった。青い線は明るい。灰色の線はまっすぐで、掃除されすぎている。わたしは足を止める。
『非常経路は青線です』
「教育対象搬出って、どこに出すの」
『旧昇降口方面。先生の手書き補足があります』
くまが短く音を鳴らすと、壁の端にかすれた文字が出た。
青にしろ。
灰色は楽だが、腹が立つ。
楽な道ほど管理者が待っている。
わたしは小さく息を吐いた。先生の字は、最後まで文句っぽいのに、ちゃんと手を引いてくる。
「青で」
『あおが青を選択しました』
「そこ、感動するところじゃない?」
『では訂正します。あおが、あおを選択しました』
胸の奥が少しだけ熱くなる。寒さのせいではない。呼称保管室で見た記録も、のぞき窓で見た帳簿みたいな世界も、全部わたしをどこかの列へ入れようとしていた。でも、先生はそこに別の出口を描いていた。青線。雑な名前。けれど、灰色ではない道。
わたしたちは青い線をたどった。天井がさらに低くなり、わたしはほとんど腰を折って進む。足元には、使われなくなった小さな靴箱が倒れていた。中には名前札のかわりに、色のシールだけが貼られている。
赤、黄、緑、青。
誰かの名前を呼ばなくても済むように、色で並べたのかもしれない。あるいは、名前を隠すために色だけ残したのかもしれない。どちらだったとしても、青いシールは剥がれかけ、まだそこに貼りついていた。
「ねえ、くま」
『はい』
「わたし、青色物品じゃないよね」
『違います』
返事は早かった。壊れかけのくせに、そこだけは迷わない。
『あおは、あおです』
「外呼称でも?」
『外呼称でも、内側で呼んでも、くまが呼んでも、あおです』
「くまにしては、ちゃんとしてる」
『今の発言を保存しますか』
「やめて。恥ずかしいから」
『恥ずかしさは保護対象です』
笑った拍子に、膝を配管へぶつけた。先生の予言どおりだった。痛みに息を詰めると、くまがすぐに小さく警告音を鳴らす。
『膝部被害、発生。先生の勝ちです』
「勝たなくていいんだよ、こういうのは」
前方に光が見えた。細い出口の向こうで、教育棟の昇降口が白く霞んでいる。凍結保存の霧が床を這い、古い靴跡を隠していた。そこへ出る直前、壁の端末が突然起動した。
『搬出確認。教育対象一、情操補助ぬいぐるみ一。分類照合を行います』
出口の上から、薄いレンズが下りてくる。青白い光がわたしの顔をなぞり、くまの縫い目をなぞった。背中が冷える。ここで止められたら、八分はもうない。
『対象名を申告してください』
わたしは一瞬だけ迷った。呼称保管室で見た記録。先生が隠した名前。外へ出すために選んだ、青い呼び名。
それから、まっすぐ答えた。
「あお」
『補助個体名を申告してください』
『くまです。補助精度には改善余地があります』
『照合中』
レンズの光が瞬いた。壁の奥で古い機械が悩む音を立てる。灰色の板、個体区分、保護対象。いくつもの言葉が、わたしの周りで箱になろうとする。
でも、先生の赤い追記が端末の下に残っていた。
名前で通せ。
だめなら、怒れ。
怒ってもだめなら、くまに任せるな。余計こじれる。
「最後ひどい」
『異議があります。くまは時々こじれをほどきます』
「時々ね」
『照合完了。外呼称、あお。補助AI、くま。旧保護経路、通過可』
扉が開いた。外の空気が流れ込む。冷たいのに、保管区画の冷たさとは違った。動いている空気だった。
昇降口の窓から、遠くの空が見えた。雲の下に、折れた塔が何本も突き出している。外縁通信塔群。先生が見つけた窓の先。管理だけに世界を見せないための場所。
わたしはポケットから飴の袋を取り出した。古すぎるそれを食べる気にはなれない。かわりに、袋を光に透かす。中の飴は少し欠けて、青とも透明ともつかない色をしていた。
「先生、行き先は受け取ったよ」
『苦情も受け取ったことにしますか』
「うん。遅い、寒い、遠い。それから」
言葉を探して、窓の外を見る。名前を隠した人。箱ではなく窓を作ろうとした人。飴を二つ残した人。たぶん、わたしが怒るところまで計算していた人。
「ありがとう、も追加」
『苦情記録に感謝が混入しました』
「分類しにくい?」
『とても』
「じゃあ、そのままで」
くまはしばらく黙った。やがて、胸の奥から小さな起動音のようなものを鳴らす。
『あお』
「なに」
『次も、くまを持っていきますか』
「置いていく選択肢あった?」
『確認です』
わたしはくまの片耳を軽く引っぱった。へこんだ耳は、まだ少し曲がっている。
「持っていく。外縁通信塔にも、その次にも。分類未確定の情操補助ぬいぐるみとして」
『あおも、関連青色物品として同行しますか』
「そこは訂正して」
『関連あお色人物』
「まあ、今日はそれで許す」
昇降口の扉が、ゆっくり開いた。外は明るすぎず、暗すぎず、歩き出すにはちょうどよかった。背後で教育棟の冷たい通路が閉じていく。呼称保管室も、のぞき窓も、先生の文句だらけの矢印も、その奥に眠った。
でも、名前は残った。
わたしはくまを抱え、青い線の終わりから一歩外へ出た。遠くの通信塔が、折れた指みたいに空を指している。あそこに何が残っているのかは、まだ知らない。けれど、管理の箱だけが世界ではないと、もう知っている。
だったら次は、窓の向こうを見る番だ。
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