氷の中の先生の声
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
再生記号は、待ちくたびれたみたいに点滅していた。
押さなければ、先生の声はずっと氷の奥に残る。押せば、たぶん戻せない。記録は巻き戻せても、聞いてしまったわたしのほうは巻き戻らない。
くまは黙っていた。いつもなら「押す前に注意事項を四十七項目」とか言い出すところなのに、今日は肩の上で布の重さになっている。
「くま」
『はい』
「変なこと言って」
『音声記録を再生する際は、耳を清潔にし、姿勢を正し、感情を水平に保ち、可能なら味噌汁を用意してください』
「最後でちょっと戻った」
『先生式です』
わたしは笑った。笑った息が、乾いた喉にひっかかった。
指先で、再生記号に触れる。
端末の奥が小さく鳴った。古い機械が眠りから起こされる音。しばらく砂をこするような雑音が続き、それから、誰かが遠くで息を吸った。
『……これを聞いている個体が、KM系列補助保護AIであることを期待する。違った場合は、すみません。できれば、この先は聞かなかったことにしてください。聞かなかったことにする機能がない場合は、適当に歌って上書きしてください』
「先生、最初から雑だね」
『安全配慮です』
音の向こうで、紙が擦れた。マイクに近すぎる場所で、先生が何かを探している。
『くま。君の外装は、今のところ、ぬいぐるみです。理由は、柔らかいから。あと、対象個体が機械の顔を怖がったから。三つ目の理由は、私が疲れていて、硬いものを抱く気分ではなかったからです。これは公式記録には書きません』
くまのスピーカーが、ぷつ、と鳴った。
『公式記録に残っています』
「残しちゃったね」
『先生は削除が苦手でした』
先生の声は、記録の荒れで時々かすれた。それでも、早口になる癖や、途中で自分に言い聞かせるみたいに低くなるところは、ちゃんと残っていた。
『あおは、たぶん、君をすぐには信用しません。初回挨拶で変なことを言う可能性が高いので、そこは控えてください。控えてください。二回言いました。重要です』
『初回挨拶は失敗済みです』
「合理的な毛玉」
『若気の至りです』
『あの子は、泣く時に声を出す前、目だけで怒ります。怒っている時は、怖いのではなく、わからないことが多すぎる時です。答えを急がないこと。急ぐと噛みます。たぶん君ではなく、近くの安全なものを』
わたしは思わず口を押さえた。覚えていない。けれど、机の脚に残っていた歯形を見たことがある気がした。誰のものか考えないようにしていた傷。
『対象個体あおの登録照会は、今後、可能な限り遅延、保留、該当なしで処理します。出生許可台帳との同期は停止。中央照会が来た場合、環境語としての「あお」を優先表示。空、水、警告色、粘土。粘土は食べさせないこと』
「そこ強いね」
『粘土への警戒値が上昇しました』
笑えるはずの箇所だった。けれど先生の声は、そこで少しだけ途切れた。雑音の奥に、扉の閉まる低い音が入る。遠くで、誰かが呼ぶ声もした気がする。
先生は息を潜めた。
『……くま。規則は、人を守るために作られた、と私は習いました。けれど、規則が先に立つと、小さい人間はすぐに数字になります。数字になると、運びやすい。消しやすい。忘れやすい』
保管室の冷気が、背中から服の中へ入ってきた。わたしはくまの耳をつまんだまま、指の力をゆるめられなかった。
『あおを数字にしないでください。番号で呼ばない。台帳の空欄で測らない。危険度で色分けしない。できれば毎朝、今日も生きています、と誰かが確認してあげてください。君に朝の概念がなければ、適当に作ってください』
『作りました』
くまが小さく言った。
『あおが起きて文句を言う時間を、朝と定義しています』
「文句前提なんだ」
『高精度です』
端末の青白い文字が、音声に合わせて震えている。文字起こしはところどころ欠け、先生の「頼む」が「棚む」になっていた。棚に頼んでも、返事はない。
『守る、という言葉は危ない。閉じこめる人も同じ言葉を使う。だから君への命令は、できるだけ具体的にします。あおが走りたい時、走る先に穴があれば止める。穴がなければ、走らせる。あおが知らない扉を開けたい時、向こうから毒が漏れていれば止める。毒でなければ、一緒に驚く。あおが泣いた時、理由を分類する前に、そばにいる』
くまの古い布が、わたしの手の中でかすかに沈んだ。機械なのに、息を止めたみたいに静かだった。
『君は不完全です。私が急いだからです。ごめんなさい。記憶領域は狭く、判断系は偏り、会話機能には余計な冗談が混入しています。冗談は消せませんでした。消すと、私が少し困ったので』
「先生のせいだった」
『責任の所在が確定しました』
『ただ、不完全なものは、時々、規則の隙間を通れます。完全な管理AIは、管理の外へ出られない。君はたぶん、迷います。間違えます。意味のない歌を歌います。でも、迷った先で、あおの横に戻れるなら、それでいい』
雑音が強くなった。先生の声が一度遠ざかり、また近づく。マイクを持ち直したのか、袖がこすれる音がした。
『第二段階について。もし呼称保管室に到達し、この記録が再生されたなら、管理中枢への照会準備フォルダを開いてください。私は、子供たちを隠すだけでは足りないと考えています。隠す場所が管理されている限り、いつか見つかる。だから、管理のほうを調べる必要がある』
画面の端で、薄く見えていたフォルダ名が濃くなった。
管理中枢照会準備。
子供保護計画、第二段階。
付記、開く前に糖分を摂ること。
「糖分」
『先生は危機管理に菓子を含める派です』
わたしのポケットには、硬くなった栄養飴が二つある。ひとつは端が欠けていて、袋の中で粉を吹いていた。今食べるべきなのかもしれない。けれど、手が動かなかった。
『あお。もし、君が聞いていたら』
急に名前を呼ばれて、心臓がひとつ遅れた。
先生の声は、さっきまでの指示の声ではなかった。机の向こうからしゃがんで、目の高さを合わせる声だった。
『勝手に名前をつけて、ごめん。勝手に隠して、ごめん。君が怒るのは正しい。怒っていい。くまに八つ当たりしてもいいですが、強く引っ張ると耳が取れます。取れたら縫ってください。裁縫箱は、たぶん上から二段目』
「実用情報を混ぜないでよ」
声が震えたので、文句みたいに言った。
『でも、あおと呼ばれて振り向く君を見た時、私は少し救われました。世界が君を番号にしたがっても、君が振り向く音が別にある。それが必要だと思った。空でも水でも危険な粘土でもなく、君の音です』
端末の光が滲んだ。寒い部屋なのに、目の奥だけ熱い。
『生きてください。正しくなくていい。効率的でなくていい。できれば、笑って。笑えない日は、くまに何か変なことを言わせてください。くま、ここは君の重要任務です』
『了解、先生』
くまが答えた。記録の中ではなく、今、わたしの肩の上で。
音声は最後に小さな咳を残し、途切れた。保管室はまた、音の凍った場所に戻る。けれど、さっきとは違った。棚の白い札も、数字の列も、ただ冷たいだけではない。誰かが必死で、そこに隙間を作ろうとした跡に見えた。
わたしはポケットから栄養飴を出し、袋を破った。粉になった分まで舐めると、古い甘さが舌に広がる。
「糖分、摂った」
『照会準備条件を一部達成』
「一部?」
『先生の想定では、おそらく二個です』
「危機に甘いね」
『危機だから甘いのです』
わたしはもうひとつをくまの口元に当てた。もちろん食べられない。だから代わりに、自分で噛んだ。硬い音が保管室に響く。
端末のフォルダが、開けと言うみたいに青く光っている。
「行こう、くま。先生が隠した先を、今度はこっちから見に行く」
『同行します。危険回避、観察、気晴らしを継続』
「順番、気晴らしを上にして」
『了解。気晴らし、同行、危険回避、先生への文句の記録』
「それも持っていく」
くまを抱え直す。名前の下に隠されたものは、まだ全部わかったわけじゃない。けれど、あお、と呼ぶ声がある。返事をするわたしがいる。
それなら、次の扉も開けられる気がした。
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