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おもちゃのAIとわたし、終末世界だけどなんとかやってる  作者: 堀吉 蔵人


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あおという隠し名

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。

呼称保管室の奥は、寒いというより、音が凍っていた。


 壁一面の薄い引き出しには、白い札が差されている。札には名前ではなく、細い線と数字と、ところどころ欠けた記号が並んでいた。人の名前をしまう場所なのに、人らしいものがひとつも見えない。


 わたしは息を吐いた。白くならない。空気は冷たいのに、湿り気だけが徹底的に抜かれているらしい。


「くま、これ全部、呼び名?」


『分類上は、外呼称、内呼称、仮呼称、廃止呼称、誤登録呼称、呼び間違え、あだ名、罵倒、愛称、寝言です』


「最後の二つも保管するの?」


『先生の趣味です』


「趣味で寝言を保管される社会、かなり終わってるね」


『終末世界にふさわしい終わり方です』


 端末の上に手を置くと、古い画面がゆっくり明るくなった。氷の下から灯が滲むみたいに、青白い文字が浮かぶ。


 外呼称設定記録。

 対象個体、登録名、黒塗り。

 保護用外呼称、あお。


 わたしは、その二文字をしばらく見た。


 あお。


 何度も呼ばれて、何度も自分で返事をしてきた音。水の色でも、空の色でも、保存食に生えた危険な色でもある。くまが呼ぶと、だいたい何か余計な報告がついてくる。


 でもここでは、きれいな名前ではなかった。


 隠すためのラベルだった。


「……わたし、偽名だったの?」


『厳密には、保護優先外部識別子です』


「偽名を難しく言っただけじゃない」


『難しく言うと、怒られる量が減る場合があります』


「先生、そういうこと教えた?」


『教えました。ついでに、怒られる前に湯を沸かすと相手の声量が三割下がるとも』


 くまの声はいつも通りにずれていた。けれど、音の底にかすかなノイズが混ざっている。笑い損ねたみたいな、針の細い揺れだった。


 画面の右端に、小さな再生記号が点滅していた。わたしが触れる前に、くまが小さく「待って」と言った。


『先に、文字記録を読んだほうがいいです。音は、たぶん、あとで心臓に来ます』


「ぬいぐるみに心臓あるの?」


『気分としてはあります。位置は不定です』


 わたしは指を引っ込めた。文字記録を開く。


 先生の文章は、思ったより乱れていた。きちんとした管理者の文ではない。途中で敬語になったり、命令文になったり、誰かに謝ったりしている。


 出生許可台帳との同期を停止。

 照会要求には、該当なし、または保留で応答。

 対象個体の外部呼称は「あお」とする。

 理由、短い。覚えやすい。空と水を指すので、環境語として紛れやすい。本人が呼ばれて嫌がらなかった。

 追記、本人は青いものを食べようとしたので注意。


「わたし、青いもの食べようとしたの?」


『対象物は教育用粘土です。食味評価は未完了』


「完了しなくていいよ」


 文字の先へ進むほど、先生の手つきが見えてきた。制度の隙間を縫うための冷たい判断と、子供を寝かしつけるときの妙な心配が、同じ行の中でぶつかっている。


 あおを台帳から遠ざける。

 ただし本人には、隠されていると思わせないこと。

 隠すことは怖い。怖がらせるために隠すのではない。

 見つからないことを、自由の形にすること。


 わたしは唇を噛んだ。寒さとは別のもので、指先がじんとした。


「自由の形、か」


『先生は、言い回しに凝ると失敗する傾向があります』


「失敗かな」


『くま判定では、現在保留です』


 端末の横で、小さな筒型の記録媒体が回転を始めた。別の窓が開く。


 初期起動記録。

 補助保護AI、試験個体KM系列、個別呼称、くま。

 目的、対象個体あおの同行、観察、危険回避、気晴らし。


「気晴らし」


『重要任務です』


「危険回避より下にあるけど」


『下にある任務ほど、根が深いのです』


 記録の中に、古い映像の欠片が混じっていた。画面は荒れ、色もずれている。小さな部屋。机の上に、今より少し毛並みのいいくまが置かれている。横には白衣の袖。袖口のボタンがひとつ取れかけていた。


 そして、もっと小さいわたしがいた。


 髪は今より短く、目つきだけはあまり変わらない。机の下に半分隠れて、くまを警戒している。先生らしい人影が、しゃがんでわたしと同じ高さになった。


『この子は、くま。こわくない。たぶん』


 記録の音声はひび割れていた。それでも「たぶん」のところだけ、妙にはっきり残っている。


 小さいわたしは、くまをつついた。くまは数秒黙ったあと、明るすぎる声で言った。


『初回挨拶を実行します。こんにちは、保護対象。私は合理的な毛玉です』


 映像の中のわたしが泣いた。


「最悪の初対面じゃん」


『当時のくまは若かったのです』


「今もだいぶ若い失敗をするよ」


『成熟した失敗です』


 先生の影が慌ててくまを裏返した。たぶん電源を探したのだろう。小さいわたしは泣きながらも、くまの耳をつかんで離さない。


 映像がそこで乱れた。


 次に戻ったとき、先生の声は低くなっていた。


『この子が大きくなるまででいい。いや、できればその後も。規則より先に、この子の怖いを見て。命令より先に、手をつないで。君に手はないけど、そこは工夫して』


 くまのスピーカーが、短く鳴った。


『……手は、ありませんでした』


「今もないね」


『でも、同行はできます』


 わたしは端末から目を離し、肩にぶら下げたくまを見た。片目のボタンは少し曲がっている。縫い目は何度も直して、色の違う糸が増えた。合理的な毛玉というより、無理やり生き残った布のかたまりだ。


 それでも、ずっと一緒にいた。


 わたしの知らない最初から。


「くまは、覚えてた?」


『完全には。先生の声と、机の冷たさと、あおが耳を引っ張った痛みを少々』


「痛かった?」


『物理センサーはありませんでした』


「じゃあ何が痛かったの」


 くまはすぐ答えなかった。保管室の冷却音だけが、棚の間を細く流れた。


『離されたくない、という信号を、痛みと誤分類した可能性があります』


 胸の奥で、何かがほどけた。泣くほどではない。泣くほどではないけれど、目の前の文字が少し滲んで、わたしはまばたきを多めにした。


「それ、今も誤分類してる?」


『現在は、重要データに分類されています』


「そっか」


 わたしはくまの耳を、昔よりずっと弱い力でつまんだ。


「じゃあ、持っていく。重要データだから」


『乱暴な保管方法です』


「先生の趣味でしょ」


『反論が困難です』


 端末の奥で、まだ未再生の音声記録が青く点滅していた。先生の本当の声が、氷の中で待っている。その先に、別のフォルダ名が薄く見えた。


 管理中枢照会準備。

 子供保護計画、第二段階。


 寒い部屋の中で、わたしはくまを抱え直した。名前が隠すためのものだったとしても、呼ばれて振り向いた日々まで偽物になるわけじゃない。


 あお、とくまが呼ぶ。


 わたしは返事をする。


 それだけは、どの台帳にも渡さない。

お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。

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