表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おもちゃのAIとわたし、終末世界だけどなんとかやってる  作者: 堀吉 蔵人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/39

青い名前の照会痕跡

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。

引き出しは、思ったより重かった。


金属の取っ手に指をかけると、手袋越しでも冷たさが骨まで届く。呼称保管室の空気は、ずっと同じ温度で眠っていたものを起こされたみたいに、白くかすんでいる。棚の奥から伸びた光は細く、床に落ちた霜の粒をひとつずつ拾って、まるで小さな標識の列みたいに見せていた。


わたしはくまを左腕に抱えたまま、右手で少しずつ引いた。中のレールが、眠い機械のあくびみたいに低く鳴る。


「重い」


「重要情報は重いものです」


「紙の束だったら納得するけど、これ薄い板だよ」


「気分の重さです」


「機械が気分で重くなるの、やめてほしい」


引き出しの中には、透明な板が三枚入っていた。どれも端が青く光り、中央には細い文字が浮かんでいる。一枚目の札には、外呼称設定・照会履歴。二枚目には、出生許可台帳・同期状態。三枚目には、管理局応答不能時処理、とあった。


最後の一枚だけ、文字の色が少し薄い。何度も開かれた跡ではなく、開く前から色あせていたような弱さだった。


「管理局応答不能時処理、って」


わたしが読み上げると、くまの中で小さく部品が鳴った。


「普通は、応答不能にならない前提のものです」


「じゃあ、普通じゃないとき用?」


「はい。世界が普通をやめた時の説明書です」


その言い方が少しだけおかしくて、でも笑いきれなかった。世界が普通をやめた。そんな言葉で片づけるには、ここに残ったものは冷たすぎた。


わたしは一枚目の板を台に置いた。白い光が走り、古い表示が開く。


『外呼称対象:登録名非表示』

『外呼称:あお』

『設定者:教育棟講師権限代行』

『用途:日常応答、低優先記録、非公式呼びかけ』


その下に、先生の追記があった。


『青い布を握って離さない。空を見せた時だけ泣き止む。だから、あお。理由としては弱い。弱い理由のほうが、強い理由より生き残る場合がある』


わたしは、知らない自分の手を想像した。小さい指で布を握っている。空を見て泣き止む。今のわたしは、空を見ると天気と危険物と逃げ道を考えるけれど、昔はただ青いものを見上げていたのかもしれない。


胸の奥が、寒さとは違う感じで少し縮んだ。


「わたし、青い布なんて持ってたんだ」


「可能性があります」


「覚えてない」


「わたしも覚えていません」


「役に立たない相棒だね」


「しかし布についての話題には縁があります」


「そこは縁じゃなくて記憶がよかった」


くまの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「青い布は、現存していない可能性が高いです。でも、呼称は残りました」


板の表示が下へ進む。次の行で、空気が少し硬くなった。


『管理局照会:該当登録名の再確認要求』

『照会元:中央育成管理局・出生許可台帳照合班』

『応答:遅延』

『再照会:七回』

『備考:対象の所在確認要求を含む』


七回。


数字だけなのに、足音みたいだった。誰かが遠くから扉を叩いている。返事がないと、また叩く。だんだん強く、だんだん近く。


わたしは板から目を離せなかった。


「先生、返事しなかったの?」


「遅延、とあります」


「つまり、返事しなかったんだ」


「とても丁寧に返事しなかった可能性があります」


「そんな技があるの」


「管理業務にはあります。たぶん」


板の端に先生のメモが開いた。文字は少し乱れている。前の記録よりも急いで書かれていて、ところどころ線が細い。


『正式名で返すな。正式名は鈴になる。鳴らせば犬が来る。犬に失礼な比喩だが、今はほかに思いつかない。外呼称で日常を回せ。あの子が自分で名乗れる日まで、台帳に首輪を渡すな』


くまが小さく沈黙した。


わたしは、首の後ろを無意識に押さえていた。もちろん何もない。金属の輪も、札も、番号もない。でも、見えないものほど外し方がわからない時がある。


「あおって、隠すための名前だったんだね」


言ったあとで、声が床に落ちた気がした。


くまはすぐには答えなかった。冷却装置の音が、棚と棚の間で薄く反響する。前に見た起動記録の先生の声が、まだどこかに残っているみたいだった。


「隠すためであり、呼ぶためでもあります」


「両方?」


「はい。先生は、首輪にするな、毛布にしろ、と言いました」


「毛布」


「隠すものでもあります。温めるものでもあります」


それは、くまにしてはかなりまっすぐな答えだった。だから、わたしは少し困った。冗談で返せる場所が見つからない。


板の下部に、照会ログの詳細が並ぶ。中央育成管理局の機械的な文面は、先生のメモと違って、どの行も同じ顔をしていた。


『対象の育成区画移送予定を確認せよ』

『教育棟滞在理由を提出せよ』

『補助AI使用目的を申告せよ』

『出生許可台帳との同期を再開せよ』


同期を再開せよ。


その行だけ、くまの耳がはっきり震えた。わたしの腕に伝わる小さな動きは、寒さのせいにはできなかった。


「くま?」


「その言葉は、記憶に引っかかります」


「痛いやつ?」


「はい。足に刺さる欠片です」


わたしは二枚目の板に手を伸ばした。出生許可台帳・同期状態。題名だけで、手が少し重くなる。さっき、気分で重いと言ったくまの言葉が、今さら本当みたいに思えた。


板を台に置くと、短い警告が出た。


『本記録は教育棟講師権限により部分凍結されています』

『解凍しますか』

青いボタン。赤いボタン。

赤の表示は、また先生の怒っています音声だった。


「赤、どこにでもいる」


「先生の怒りは広域対応です」


「便利なのか不便なのか」


「押さなければ安全です」


わたしは青を押した。


表示が一度乱れ、古い帳簿のような縦線が浮かぶ。名前の欄は黒く塗りつぶされ、数字の欄もところどころ欠けている。けれど、同期状態の欄だけは読めた。


『同期停止』

『理由:教育上の一時保留』

『再開予定:未定』

『講師追記:一時とは、世界が落ち着くまでを指す。世界が落ち着かない場合、一時は長くなる。たいへん遺憾』


思わず、息が抜けた。


「先生、遺憾って書けば何でも通ると思ってない?」


「行政文書への擬態です」


「擬態にしては雑」


「非常時設計です」


「さっきも聞いた」


くまは少し誇らしげだった。先生の雑さを受け継いでいるのか、ただ便利な言葉を見つけただけなのか、判断がつかない。


でも、その下に続いた追記で、笑いは静かに引っ込んだ。


『同期を止めれば、照会側は怒る。怒っている間は、確認手順が増える。確認手順が増えれば、時間が稼げる。時間が稼げれば、あの子が眠れる。眠れるなら、今日の勝ち』


今日の勝ち。


世界の秘密でも、正義でも、立派な計画でもない。先生はたぶん、大きなものを相手にしていた。それでもここに書いた勝ちは、たった一晩眠れることだった。


わたしは板の文字を指でなぞらないように、少し浮かせたまま見つめた。触ったら消えそうな気がした。


「先生、勝った日、あったのかな」


「記録上、少なくとも一部勝利です」


「また一部」


「完全勝利は燃費が悪いです」


「くまの判断基準、だいたい燃費だね」


「生存に重要です」


そう言うくまの布は、わたしの腕の中で冷えきっている。燃費の話をする相棒を、わたしは少し強く抱え直した。ぬいぐるみは温めるのに時間がかかる。けれど、温まらないわけではない。


表示の隅で、未読の小さな項目が点滅していた。


『関連転送先:教育棟内・旧講師準備室』

『分類:管理局照会対策/次段階』

『状態:封印、音声鍵要求』


「旧講師準備室」


名前を口にした瞬間、呼称保管室の奥で、別の棚がかすかに鳴った。まるで、聞こえた、と返事をしたみたいに。


くまの声が低くなる。


「先生の次の作業場所かもしれません」


「呼称保管室の次?」


「はい。名前を隠した理由の、さらに奥です」


わたしは三枚目の板、管理局応答不能時処理を見た。薄い文字はまだ眠っている。今開けば、たぶん戻れないところまで知る。そんな気がした。


でも、知らないまま戻るには、もう先生の文字を読みすぎていた。


「音声鍵って、何を言えばいいの」


「候補があります」


「お、珍しく頼れる」


「先生の怒っています音声」


「却下」


「では、先生の好きな歌」


「歌えるの?」


くまは短く沈黙した。


「歌詞は欠損しています。音程も欠損しています。意欲だけあります」


「いちばん危ないやつだ」


白い部屋の冷たさの中で、わたしはまた少し笑った。笑い声は小さく、棚に吸われてすぐ消えた。それでも、先生が書いた今日の勝ちという言葉のそばに置くには、十分だった。


わたしは三枚目の板を取った。薄い青い光が、指先に反射する。


管理局が何を探していたのか。先生が何を止めたのか。あおという名前が、どれだけの扉を閉じ、どれだけの夜を開けたのか。


答えは、まだ全部は見えていない。


「じゃあ、くま」


「はい、あお」


「音痴でもいいから、思い出して。旧講師準備室、開けに行くよ」


「了解しました。なお、音痴ではありません。音程が自由なだけです」


「自由にも限度があるからね」


「管理局より厳しい評価です」


三枚目の板が、ゆっくり起動する。表示の最初に、先生の短いメモが浮かんだ。


『ここから先は、あの子が自分で歩けるなら見せること。抱えて逃げるだけでは足が育たない。だが寒い日は抱えてよい』


わたしはくまを抱えたまま、しばらくその文字を見ていた。


「今日は寒いから、抱えていいって」


「正式許可です」


「調子に乗らない」


「乗ります。保護補助対象からの抱搬は、非常に高効率です」


「燃費いいんだ」


「はい」


くまの返事は、今まででいちばん迷いがなかった。わたしは三枚目の板を胸の近くに持ち、呼称保管室の奥に見える細い通路へ目を向けた。


青い名前の先で、先生の次の隠し場所が待っている。

寒い日は、抱えて進んでいい。

だからわたしは、くまを落とさないように抱き直して、一歩踏み出した。

お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ