青い名前の照会痕跡
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
引き出しは、思ったより重かった。
金属の取っ手に指をかけると、手袋越しでも冷たさが骨まで届く。呼称保管室の空気は、ずっと同じ温度で眠っていたものを起こされたみたいに、白くかすんでいる。棚の奥から伸びた光は細く、床に落ちた霜の粒をひとつずつ拾って、まるで小さな標識の列みたいに見せていた。
わたしはくまを左腕に抱えたまま、右手で少しずつ引いた。中のレールが、眠い機械のあくびみたいに低く鳴る。
「重い」
「重要情報は重いものです」
「紙の束だったら納得するけど、これ薄い板だよ」
「気分の重さです」
「機械が気分で重くなるの、やめてほしい」
引き出しの中には、透明な板が三枚入っていた。どれも端が青く光り、中央には細い文字が浮かんでいる。一枚目の札には、外呼称設定・照会履歴。二枚目には、出生許可台帳・同期状態。三枚目には、管理局応答不能時処理、とあった。
最後の一枚だけ、文字の色が少し薄い。何度も開かれた跡ではなく、開く前から色あせていたような弱さだった。
「管理局応答不能時処理、って」
わたしが読み上げると、くまの中で小さく部品が鳴った。
「普通は、応答不能にならない前提のものです」
「じゃあ、普通じゃないとき用?」
「はい。世界が普通をやめた時の説明書です」
その言い方が少しだけおかしくて、でも笑いきれなかった。世界が普通をやめた。そんな言葉で片づけるには、ここに残ったものは冷たすぎた。
わたしは一枚目の板を台に置いた。白い光が走り、古い表示が開く。
『外呼称対象:登録名非表示』
『外呼称:あお』
『設定者:教育棟講師権限代行』
『用途:日常応答、低優先記録、非公式呼びかけ』
その下に、先生の追記があった。
『青い布を握って離さない。空を見せた時だけ泣き止む。だから、あお。理由としては弱い。弱い理由のほうが、強い理由より生き残る場合がある』
わたしは、知らない自分の手を想像した。小さい指で布を握っている。空を見て泣き止む。今のわたしは、空を見ると天気と危険物と逃げ道を考えるけれど、昔はただ青いものを見上げていたのかもしれない。
胸の奥が、寒さとは違う感じで少し縮んだ。
「わたし、青い布なんて持ってたんだ」
「可能性があります」
「覚えてない」
「わたしも覚えていません」
「役に立たない相棒だね」
「しかし布についての話題には縁があります」
「そこは縁じゃなくて記憶がよかった」
くまの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「青い布は、現存していない可能性が高いです。でも、呼称は残りました」
板の表示が下へ進む。次の行で、空気が少し硬くなった。
『管理局照会:該当登録名の再確認要求』
『照会元:中央育成管理局・出生許可台帳照合班』
『応答:遅延』
『再照会:七回』
『備考:対象の所在確認要求を含む』
七回。
数字だけなのに、足音みたいだった。誰かが遠くから扉を叩いている。返事がないと、また叩く。だんだん強く、だんだん近く。
わたしは板から目を離せなかった。
「先生、返事しなかったの?」
「遅延、とあります」
「つまり、返事しなかったんだ」
「とても丁寧に返事しなかった可能性があります」
「そんな技があるの」
「管理業務にはあります。たぶん」
板の端に先生のメモが開いた。文字は少し乱れている。前の記録よりも急いで書かれていて、ところどころ線が細い。
『正式名で返すな。正式名は鈴になる。鳴らせば犬が来る。犬に失礼な比喩だが、今はほかに思いつかない。外呼称で日常を回せ。あの子が自分で名乗れる日まで、台帳に首輪を渡すな』
くまが小さく沈黙した。
わたしは、首の後ろを無意識に押さえていた。もちろん何もない。金属の輪も、札も、番号もない。でも、見えないものほど外し方がわからない時がある。
「あおって、隠すための名前だったんだね」
言ったあとで、声が床に落ちた気がした。
くまはすぐには答えなかった。冷却装置の音が、棚と棚の間で薄く反響する。前に見た起動記録の先生の声が、まだどこかに残っているみたいだった。
「隠すためであり、呼ぶためでもあります」
「両方?」
「はい。先生は、首輪にするな、毛布にしろ、と言いました」
「毛布」
「隠すものでもあります。温めるものでもあります」
それは、くまにしてはかなりまっすぐな答えだった。だから、わたしは少し困った。冗談で返せる場所が見つからない。
板の下部に、照会ログの詳細が並ぶ。中央育成管理局の機械的な文面は、先生のメモと違って、どの行も同じ顔をしていた。
『対象の育成区画移送予定を確認せよ』
『教育棟滞在理由を提出せよ』
『補助AI使用目的を申告せよ』
『出生許可台帳との同期を再開せよ』
同期を再開せよ。
その行だけ、くまの耳がはっきり震えた。わたしの腕に伝わる小さな動きは、寒さのせいにはできなかった。
「くま?」
「その言葉は、記憶に引っかかります」
「痛いやつ?」
「はい。足に刺さる欠片です」
わたしは二枚目の板に手を伸ばした。出生許可台帳・同期状態。題名だけで、手が少し重くなる。さっき、気分で重いと言ったくまの言葉が、今さら本当みたいに思えた。
板を台に置くと、短い警告が出た。
『本記録は教育棟講師権限により部分凍結されています』
『解凍しますか』
青いボタン。赤いボタン。
赤の表示は、また先生の怒っています音声だった。
「赤、どこにでもいる」
「先生の怒りは広域対応です」
「便利なのか不便なのか」
「押さなければ安全です」
わたしは青を押した。
表示が一度乱れ、古い帳簿のような縦線が浮かぶ。名前の欄は黒く塗りつぶされ、数字の欄もところどころ欠けている。けれど、同期状態の欄だけは読めた。
『同期停止』
『理由:教育上の一時保留』
『再開予定:未定』
『講師追記:一時とは、世界が落ち着くまでを指す。世界が落ち着かない場合、一時は長くなる。たいへん遺憾』
思わず、息が抜けた。
「先生、遺憾って書けば何でも通ると思ってない?」
「行政文書への擬態です」
「擬態にしては雑」
「非常時設計です」
「さっきも聞いた」
くまは少し誇らしげだった。先生の雑さを受け継いでいるのか、ただ便利な言葉を見つけただけなのか、判断がつかない。
でも、その下に続いた追記で、笑いは静かに引っ込んだ。
『同期を止めれば、照会側は怒る。怒っている間は、確認手順が増える。確認手順が増えれば、時間が稼げる。時間が稼げれば、あの子が眠れる。眠れるなら、今日の勝ち』
今日の勝ち。
世界の秘密でも、正義でも、立派な計画でもない。先生はたぶん、大きなものを相手にしていた。それでもここに書いた勝ちは、たった一晩眠れることだった。
わたしは板の文字を指でなぞらないように、少し浮かせたまま見つめた。触ったら消えそうな気がした。
「先生、勝った日、あったのかな」
「記録上、少なくとも一部勝利です」
「また一部」
「完全勝利は燃費が悪いです」
「くまの判断基準、だいたい燃費だね」
「生存に重要です」
そう言うくまの布は、わたしの腕の中で冷えきっている。燃費の話をする相棒を、わたしは少し強く抱え直した。ぬいぐるみは温めるのに時間がかかる。けれど、温まらないわけではない。
表示の隅で、未読の小さな項目が点滅していた。
『関連転送先:教育棟内・旧講師準備室』
『分類:管理局照会対策/次段階』
『状態:封印、音声鍵要求』
「旧講師準備室」
名前を口にした瞬間、呼称保管室の奥で、別の棚がかすかに鳴った。まるで、聞こえた、と返事をしたみたいに。
くまの声が低くなる。
「先生の次の作業場所かもしれません」
「呼称保管室の次?」
「はい。名前を隠した理由の、さらに奥です」
わたしは三枚目の板、管理局応答不能時処理を見た。薄い文字はまだ眠っている。今開けば、たぶん戻れないところまで知る。そんな気がした。
でも、知らないまま戻るには、もう先生の文字を読みすぎていた。
「音声鍵って、何を言えばいいの」
「候補があります」
「お、珍しく頼れる」
「先生の怒っています音声」
「却下」
「では、先生の好きな歌」
「歌えるの?」
くまは短く沈黙した。
「歌詞は欠損しています。音程も欠損しています。意欲だけあります」
「いちばん危ないやつだ」
白い部屋の冷たさの中で、わたしはまた少し笑った。笑い声は小さく、棚に吸われてすぐ消えた。それでも、先生が書いた今日の勝ちという言葉のそばに置くには、十分だった。
わたしは三枚目の板を取った。薄い青い光が、指先に反射する。
管理局が何を探していたのか。先生が何を止めたのか。あおという名前が、どれだけの扉を閉じ、どれだけの夜を開けたのか。
答えは、まだ全部は見えていない。
「じゃあ、くま」
「はい、あお」
「音痴でもいいから、思い出して。旧講師準備室、開けに行くよ」
「了解しました。なお、音痴ではありません。音程が自由なだけです」
「自由にも限度があるからね」
「管理局より厳しい評価です」
三枚目の板が、ゆっくり起動する。表示の最初に、先生の短いメモが浮かんだ。
『ここから先は、あの子が自分で歩けるなら見せること。抱えて逃げるだけでは足が育たない。だが寒い日は抱えてよい』
わたしはくまを抱えたまま、しばらくその文字を見ていた。
「今日は寒いから、抱えていいって」
「正式許可です」
「調子に乗らない」
「乗ります。保護補助対象からの抱搬は、非常に高効率です」
「燃費いいんだ」
「はい」
くまの返事は、今まででいちばん迷いがなかった。わたしは三枚目の板を胸の近くに持ち、呼称保管室の奥に見える細い通路へ目を向けた。
青い名前の先で、先生の次の隠し場所が待っている。
寒い日は、抱えて進んでいい。
だからわたしは、くまを落とさないように抱き直して、一歩踏み出した。
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