くまの起動日
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引き出しは、音もなく棚からせり出してきた。
透明な箱の中には、紙ではなく、薄い板が何枚も重ねて入っている。縁は白く曇り、真ん中だけが冷たい水たまりみたいに透けていた。わたしが近づくと、板の一枚に細い光が走る。
『KM系列 初期起動記録。閲覧権限、同伴対象本人、および当該補助具』
「当該補助具」
くまが小さく言った。
「わたし、道具から補助具に出世しました」
「出世なの?」
「給料は出ません」
「じゃあ、ただの呼び方変更だよ」
わたしは笑いかけて、途中で口を閉じた。板の表面に、文字が浮かび上がったからだ。
起動日時は、ところどころ欠けていた。場所は、教育棟低温保管区画、臨時作業室。起動者の欄には、正式な職名が長く並び、最後に手書きみたいな揺れた文字で、先生、と追記されている。
その下に、起動目的。
同伴対象の保護。追跡名の回避。夜間不安の低減。緊急時の誘導。
そこまでは、まじめな機械の文章だった。
次の行だけ、字の大きさが少し違う。
できれば、笑わせる。
わたしの腕の中で、くまの布がかすかにきしんだ。寒さで固くなった綿の奥から、古い部品が息を吸うみたいな音を立てる。
「くま、見えてる?」
「見えません」
「じゃあ読もうか」
「お願いします。声に出すと、記録の逃げ足が遅くなります」
「記録って逃げるの」
「よく逃げます。特に都合の悪いものは」
それは記憶のことを言っているのか、先生のことを言っているのか、わたしにはわからなかった。
板の文字が次へ進む。
『個体名案。KM-204補助端末。KM-204-B。布製同伴機。くま』
そこまで読んだところで、わたしは眉を寄せた。
「途中まで、ぜんぜんかわいくない」
「布製同伴機は機能的です」
「呼びたい?」
「毎朝それで呼ばれたら、わたしはたぶん自己紹介をやめます」
「ほら」
板の端で、別の追記が開いた。
『先生メモ。番号で呼ぶと、あの子が固まる。端末名で呼ぶと、こちらが固まる。手元にあったぬいぐるみが熊なので、くま。安直だが、安直なものほど非常時に強い』
「先生、理由が雑」
「雑ではありません。非常時設計です」
「ぬいぐるみが犬だったら、いぬだった?」
「推定、はい」
「危なかったね」
「わたしは危機を回避しました」
くまの声はいつも通り少しずれていた。でも、その奥に、小さな震えが残っている。自分の始まりを、他人の口から聞かされるのは、どんな感じなのだろう。わたしは自分の名前を読んだときの、胸を内側から冷たい指で押された感じを思い出した。
板の下部に、短い記録映像の表示が出た。
再生しますか。
赤と青のボタンが光る。青には再生、赤には先生の怒っています音声、と表示されていた。
「赤、まだ居座ってる」
「押さないでください。起動記録が怒りで上書きされる可能性があります」
「そんな危ない機能、同じ台に置かないでほしい」
わたしは青を押した。
白い板の中に、ざらざらした影が映る。古い映像は雪みたいに乱れていて、人の輪郭も、部屋の形も、何度も崩れて戻った。
小さな作業台。散らばった工具。丸い背中のぬいぐるみ。片耳の縫い目がまだ新しい。その隣に、白衣の袖だけが映っている。袖口は汚れていて、何かのコードを急いで引っ張った跡がある。
『聞こえる? 聞こえていたら、右耳を動かして。左耳でもいい。両方でもいいけど、怖がらせない程度に』
映像の中のくまが、ぴくりと片耳を動かした。
今のくまも、同じ耳を少しだけ揺らした。
「連動した?」
「していません」
「したよ」
「していません。たぶん」
映像の先生は、早口だった。顔は映らない。けれど声だけで、手元が散らかっていて、時間が足りなくて、それでも変なところに気を遣う人だとわかった。
『あなたの仕事は、対象を守ること。対象の正式記録名は、できるだけ使わないこと。外では、あお。本人が嫌がったら変更。嫌がらなくても、押しつけない。いい? 名前は紐にも毛布にもなる。紐にするな。毛布にしろ』
「毛布」
くまがつぶやいた。
「さっき布って言ってたね」
「出典がありました」
「覚えてたんじゃん」
「欠片です。欠片は、時々足に刺さります」
映像の中で、先生の手がぬいぐるみの頭を押さえた。乱暴ではない。むしろ、ばらばらになりそうなものを必死で形に留めているような触れ方だった。
『それから、笑わせること。笑わなくても失敗ではない。笑えない日はある。でも、笑っていい場所を作ること。ここは、あまりにも、笑ってはいけない顔をした機械が多い』
そこで映像が一瞬止まった。白いノイズの中に、遠くの警告音が混ざる。先生の声が低くなった。
『もし私が戻らなかったら、この記録を完全な命令として扱わないこと。命令は古くなる。あの子は育つ。あなたも、たぶん変わる。変わったら、その時のあなたたちで決めなさい』
冷却装置の音が、急に遠くなった。
わたしは板を見つめたまま、指先だけでくまの背中を撫でた。布は冷たい。けれど、そこにある硬い角も、ほつれた縫い目も、今までより少し違って感じられた。壊れかけて拾った相棒ではなく、誰かが急いで、迷って、願って起こしたもの。
その願いの中に、わたしがいた。
「あのさ」
声を出すと、喉が少し痛かった。
「くまは、命令だから一緒にいるの?」
くまはすぐには答えなかった。板の光が、黒いボタンの目に小さく映っている。答えを探している沈黙は、止まった機械の沈黙とは違った。
「最初は、そうだった可能性があります」
「うん」
「現在は、命令だけでは説明できません」
「説明できないの?」
「はい。燃費が悪い選択を何度もしています。論理的には、あおを説得して安全な箱に入れるほうが簡単です」
「やだよ」
「なので、していません」
くまの声は、少しだけ得意そうだった。
「わたしは、あおが箱に入らないことを学習しました」
「えらい」
「えらいです」
「自分で言った」
「先生に報告できないので、自己処理しています」
わたしは今度こそ笑った。小さな笑いだったけれど、板の中のノイズよりはっきりしていた。
映像が最後の行を表示する。
『初期応答確認。KM系列、くま。外呼称対象、あお。保護補助を開始。追記、どうか間に合っt』
その最後だけ、先生の声ではなく、文字だった。打ち込む時間も惜しかったのか、変換のずれた字がひとつ混ざっている。けれど意味はわかった。間に合ってほしい。隠れてほしい。生きてほしい。
わたしは息を吐いた。白くなった息が板の前を横切り、先生の文字を一瞬だけ曇らせた。
「間に合ったのかな」
くまが、少し考えるように間を置いた。
「現在、あおはここにいます」
「うん」
「わたしもいます」
「うん」
「完全ではありませんが、間に合った部分があります」
完全ではない。たしかにそうだ。なくなったものは多い。戻らなかった人もいる。先生だって、今ここで怒りボタンの説明を自分でしているわけではない。
でも、わたしはここにいる。くまもいる。寒い部屋で、起動記録を見て、少し笑った。
それを、間に合った部分と呼ぶなら、たぶん間違いではなかった。
棚の奥で、次の引き出しが低く鳴った。今度の札には、外呼称設定・詳細、とある。その横に、小さな警告表示が点滅していた。
『関連記録に管理局照会痕跡があります』
「管理局」
わたしの声は、自分で思ったより硬くなった。
くまの耳が、今度は連動ではなく、はっきり震えた。
「先生が、何に追われていたか」
白い光が棚の奥へ伸びていく。名前の記録は終わっていなかった。むしろ、ここから先に、名前を隠さなければならなかった理由が眠っている。
わたしはくまを抱え直した。
「じゃあ、次はそっちだね」
「はい、あお」
くまの返事は、さっきより少しだけ強かった。
「ただし、赤いボタンは押さない方向でお願いします」
「管理局より先生の怒りのほうが怖いの?」
「記録容量的に」
冷たい部屋の奥で、わたしはまた少し笑った。笑いながら、次の引き出しへ手を伸ばした。
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