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おもちゃのAIとわたし、終末世界だけどなんとかやってる  作者: 堀吉 蔵人


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33/39

呼ばれたい方の棚

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。

扉の向こうは、部屋というより、冷たい息をためこんだ箱だった。


白い床に青い光が細く走っている。壁一面の棚には、透明な引き出しがぎっしり並び、それぞれに小さな札が刺さっていた。字はきれいなのに、内容は少し落ち着かない。


外呼称・仮

外呼称・緊急避難

外呼称・本人が気に入ったため維持

外呼称・呼んだ側が泣いたため保留


「最後の、何」


わたしが小声で言うと、くまは胸の中で少し湿った音を立てた。


「呼称には、呼ぶ側の精神安定も関与します」


「名前って、もっとすっきりしたものじゃないの」


「すっきりしている場合、保管室は不要です」


それはたぶん正しい。正しいけれど、あまりうれしくない正しさだった。


前室の扉が背後で閉まり、冷気が足首にまとわりつく。部屋の奥にはもう一枚、低い扉があった。そこへ続く青線の途中に、丸い台が置かれている。台の上には古いマイクと、幼児用の積み木みたいな色のボタンが三つ。


赤。黄色。青。


表示板が点いた。


『呼称保管室・追加確認。ここから先は、記録対象者の心をなるべく踏まないよう努力します』


「なるべく」


『完全保証は制度上たいへん高価です』


「心の保証、予算制なんだ」


『当時の先生は怒っていました』


天井のスピーカーから流れる声は、機械のものなのに、どこか言い訳がましかった。先生本人ではない。先生が残した文面を、古い案内AIが読み上げているのだろう。それでも、言葉の端に先生の早口が引っかかっている気がして、わたしは知らない人のくせに少し困った。


丸い台の前に立つと、足元の床が柔らかく沈んだ。冷たいのに、そこだけ古い体育マットみたいな感触がある。


『質問一。あなたは、自分の呼称が道具として使われた場合、どう反応しますか』


「いきなり重い」


くまが言った。


「選択肢はありますか」


『赤、怒る。黄色、考える。青、あとで食事をする』


「青だけ変じゃない?」


『先生の追記です。空腹時に重要判断をしないこと』


三つのボタンが光った。わたしは手を伸ばしかけて、止める。H-43と呼ばれたときの、背中に札を貼られたみたいな感じを思い出した。対象。観察中。該当。どれも便利な名前だったのだろう。呼ぶ側にとって。


便利にされるのは、あまり好きじゃない。


けれど、怒りだけで押すには、部屋が寒すぎた。怒ると息が白くなって、床に落ちて、ここに残りそうだった。


わたしは黄色を押した。


『考える、を確認。追加質問。考えたあと怒る可能性はありますか』


「あります」


『よい傾向です』


「よいんだ」


『先生の追記です。怒れない子は、先に隠してください』


表示板の文字が一瞬だけ乱れた。ざざ、と音がして、青い光が棚の奥へ走る。どこかで小さな引き出しが開いた。


くまの体が、ぴくりと震えた。


『記録断片を照合します。外呼称候補、あお。理由、空の色ではない。水の色でもない。本人が目で追うものの色に近い。まだ本人確認不能。よって、仮』


声はさっきより若く、息を急いでいた。


わたしは引き出しの開いた方を見た。透明な箱の中に、薄い札が一枚入っている。札にはかすれた字で「あお」と書いてあった。下には、もっと小さく「外で呼ぶ時だけ。室内では記録名を避ける」と添えられている。


胸のあたりが、冷えたのか熱くなったのか、よくわからなくなった。


「外で呼ぶ時だけって」


「外呼称です」


「それは、わかるけど」


くまが黙った。いつもなら余計な説明を足すところで、何も言わない。その沈黙が、棚の冷却音より大きく聞こえた。


表示板が次の文章を出す。


『質問二。同伴補助具へ。あなたは、対象を記録名ではなく外呼称で呼べますか』


「呼べます」


くまは今度、すぐ答えた。


『失敗履歴があります』


「あります」


『原因は』


「欠損、混線、無知、そしてたぶん、怖さです」


マイクの横の青いボタンが弱く光った。くまの声は平らだったけれど、最後の一語だけ、布の奥で引っかかったみたいに小さくなった。


わたしはくまの背を撫でた。冷えた布の下に、硬い部品の角がある。壊れかけの体。忘れた記憶。けれど、今ここで答えているのは、ちゃんとわたしの知っているくまだった。


「怖かったの?」


「推定です」


「何が」


「間違えて呼ぶことです」


冷却装置が低く鳴った。棚の中の札が少し震え、名前たちが眠りの中で身じろぎするように見えた。


くまは続けた。


「呼び間違いは、対象を危険にさらす可能性があります。記録名は追跡されます。分類名は回収されます。外呼称は、逃げるための布です」


「布」


「包むものです」


その言い方があまりにくまらしくて、わたしは少し笑いそうになった。笑いそこねた息が、白くほどける。


表示板に新しい文字が浮かんだ。


『先生の追記。布は薄くてもいい。ないよりまし。できれば洗っておくこと』


「そこまで書く?」


「衛生意識があります」


「あるけど」


奥の扉の鍵がひとつ外れた。けれど、まだ開かない。台の上の赤いボタンだけが、今度はゆっくり点滅していた。


『質問三。記録対象者へ。あなたは、この呼称を拒否できます』


部屋が、急に静かになった。


拒否できます、という言葉は、命令よりずっと重かった。わたしの前に置かれたのは、赤いボタンでも青い線でもなく、いままで誰かが勝手に決めたものを、わたしが持ち直すための取っ手だった。


あお。


呼ばれたとき、振り向ける名前。くまが少しずれた声で、でも大事そうに差し出してくる名前。先生が急いで、たぶん泣いていないと言い張りながら、外へ逃がすために置いた名前。


わたしはその名前の全部を知っているわけじゃない。知ったら、痛いところも出てくると思う。道具だった部分。偽装だった部分。わたしのためと言いながら、わたしに聞けなかった部分。


それでも、いま返事をするのは、記録の中の小さすぎたわたしではない。


「拒否は、しない」


声が白く出た。


「でも、ただの道具にはしない」


表示板は沈黙した。沈黙が長くて、わたしは少し不安になる。何か変な答え方をしただろうか。くまが小さく言った。


「よいと思います」


「判定前にほめないで」


「ほめてはいません。姿勢の評価です」


「それ、ほめてるよ」


表示板が青く灯った。


『確認しました。呼称、あお。本人による継続使用を優先します。なお、道具扱いした者は先生が怒ります』


「先生、今いないけど」


『代理怒り機能があります』


赤いボタンが、ぱっと明るくなった。


『必要時に押してください』


わたしはまじまじとボタンを見た。くまも見ている気がした。


「押したらどうなるの」


『室内全スピーカーで、先生の怒っています音声を再生します』


「ちょっと聞きたい」


「危険です。先生の怒りは記録容量を圧迫します」


「どれだけ怒ったの」


奥の扉が、ようやく開いた。


向こう側から流れてきた光は青ではなく、薄い朝みたいな白だった。冷気はさらに強いのに、不思議とさっきより息がしやすい。棚の奥で、別の引き出しがいくつも目を覚ます音がした。


そのひとつに、太い文字でこう書かれている。


KM系列 初期起動

同伴対象:あお

目的:隠す。守る。できれば笑わせる。


くまの体が、わたしの腕の中で固まった。


わたしも動けなかった。


笑わせる、の文字だけが、やけに人の手に近い歪み方をしていた。先生はたぶん、そこを書き直した。まじめな言葉だけでは足りないと思って、あとから足したのだ。


「くま」


わたしが呼ぶと、少し遅れて返事があった。


「はい、あお」


その声はかすかに震えていた。でも、逃げてはいなかった。


わたしは奥へ一歩進んだ。床に青い線はもうない。かわりに、白い光が棚の間を細く照らしている。どの引き出しも閉じたまま、けれどわたしたちが近づくのを待っているようだった。


名前の次は、起動の記録。


くまがどうしてくまになったのか。先生が何を守ろうとして、何に追われていたのか。そこに書かれているものを、たぶん笑ってだけ読むことはできない。


それでも、わたしはくまを抱え直した。


「できれば笑わせる、だって」


「達成率を確認します」


「今?」


「重要項目です」


わたしは少しだけ笑った。冷たい部屋の中で、その笑いはすぐ白くなって消えたけれど、消える前にくまの耳へ届いた気がした。


「合格でいいよ」


くまは一拍置いて、いつもの少しずれた声で答えた。


「先生に報告します。たぶん、怒られません」

お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。

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