呼ばれたい方の棚
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扉の向こうは、部屋というより、冷たい息をためこんだ箱だった。
白い床に青い光が細く走っている。壁一面の棚には、透明な引き出しがぎっしり並び、それぞれに小さな札が刺さっていた。字はきれいなのに、内容は少し落ち着かない。
外呼称・仮
外呼称・緊急避難
外呼称・本人が気に入ったため維持
外呼称・呼んだ側が泣いたため保留
「最後の、何」
わたしが小声で言うと、くまは胸の中で少し湿った音を立てた。
「呼称には、呼ぶ側の精神安定も関与します」
「名前って、もっとすっきりしたものじゃないの」
「すっきりしている場合、保管室は不要です」
それはたぶん正しい。正しいけれど、あまりうれしくない正しさだった。
前室の扉が背後で閉まり、冷気が足首にまとわりつく。部屋の奥にはもう一枚、低い扉があった。そこへ続く青線の途中に、丸い台が置かれている。台の上には古いマイクと、幼児用の積み木みたいな色のボタンが三つ。
赤。黄色。青。
表示板が点いた。
『呼称保管室・追加確認。ここから先は、記録対象者の心をなるべく踏まないよう努力します』
「なるべく」
『完全保証は制度上たいへん高価です』
「心の保証、予算制なんだ」
『当時の先生は怒っていました』
天井のスピーカーから流れる声は、機械のものなのに、どこか言い訳がましかった。先生本人ではない。先生が残した文面を、古い案内AIが読み上げているのだろう。それでも、言葉の端に先生の早口が引っかかっている気がして、わたしは知らない人のくせに少し困った。
丸い台の前に立つと、足元の床が柔らかく沈んだ。冷たいのに、そこだけ古い体育マットみたいな感触がある。
『質問一。あなたは、自分の呼称が道具として使われた場合、どう反応しますか』
「いきなり重い」
くまが言った。
「選択肢はありますか」
『赤、怒る。黄色、考える。青、あとで食事をする』
「青だけ変じゃない?」
『先生の追記です。空腹時に重要判断をしないこと』
三つのボタンが光った。わたしは手を伸ばしかけて、止める。H-43と呼ばれたときの、背中に札を貼られたみたいな感じを思い出した。対象。観察中。該当。どれも便利な名前だったのだろう。呼ぶ側にとって。
便利にされるのは、あまり好きじゃない。
けれど、怒りだけで押すには、部屋が寒すぎた。怒ると息が白くなって、床に落ちて、ここに残りそうだった。
わたしは黄色を押した。
『考える、を確認。追加質問。考えたあと怒る可能性はありますか』
「あります」
『よい傾向です』
「よいんだ」
『先生の追記です。怒れない子は、先に隠してください』
表示板の文字が一瞬だけ乱れた。ざざ、と音がして、青い光が棚の奥へ走る。どこかで小さな引き出しが開いた。
くまの体が、ぴくりと震えた。
『記録断片を照合します。外呼称候補、あお。理由、空の色ではない。水の色でもない。本人が目で追うものの色に近い。まだ本人確認不能。よって、仮』
声はさっきより若く、息を急いでいた。
わたしは引き出しの開いた方を見た。透明な箱の中に、薄い札が一枚入っている。札にはかすれた字で「あお」と書いてあった。下には、もっと小さく「外で呼ぶ時だけ。室内では記録名を避ける」と添えられている。
胸のあたりが、冷えたのか熱くなったのか、よくわからなくなった。
「外で呼ぶ時だけって」
「外呼称です」
「それは、わかるけど」
くまが黙った。いつもなら余計な説明を足すところで、何も言わない。その沈黙が、棚の冷却音より大きく聞こえた。
表示板が次の文章を出す。
『質問二。同伴補助具へ。あなたは、対象を記録名ではなく外呼称で呼べますか』
「呼べます」
くまは今度、すぐ答えた。
『失敗履歴があります』
「あります」
『原因は』
「欠損、混線、無知、そしてたぶん、怖さです」
マイクの横の青いボタンが弱く光った。くまの声は平らだったけれど、最後の一語だけ、布の奥で引っかかったみたいに小さくなった。
わたしはくまの背を撫でた。冷えた布の下に、硬い部品の角がある。壊れかけの体。忘れた記憶。けれど、今ここで答えているのは、ちゃんとわたしの知っているくまだった。
「怖かったの?」
「推定です」
「何が」
「間違えて呼ぶことです」
冷却装置が低く鳴った。棚の中の札が少し震え、名前たちが眠りの中で身じろぎするように見えた。
くまは続けた。
「呼び間違いは、対象を危険にさらす可能性があります。記録名は追跡されます。分類名は回収されます。外呼称は、逃げるための布です」
「布」
「包むものです」
その言い方があまりにくまらしくて、わたしは少し笑いそうになった。笑いそこねた息が、白くほどける。
表示板に新しい文字が浮かんだ。
『先生の追記。布は薄くてもいい。ないよりまし。できれば洗っておくこと』
「そこまで書く?」
「衛生意識があります」
「あるけど」
奥の扉の鍵がひとつ外れた。けれど、まだ開かない。台の上の赤いボタンだけが、今度はゆっくり点滅していた。
『質問三。記録対象者へ。あなたは、この呼称を拒否できます』
部屋が、急に静かになった。
拒否できます、という言葉は、命令よりずっと重かった。わたしの前に置かれたのは、赤いボタンでも青い線でもなく、いままで誰かが勝手に決めたものを、わたしが持ち直すための取っ手だった。
あお。
呼ばれたとき、振り向ける名前。くまが少しずれた声で、でも大事そうに差し出してくる名前。先生が急いで、たぶん泣いていないと言い張りながら、外へ逃がすために置いた名前。
わたしはその名前の全部を知っているわけじゃない。知ったら、痛いところも出てくると思う。道具だった部分。偽装だった部分。わたしのためと言いながら、わたしに聞けなかった部分。
それでも、いま返事をするのは、記録の中の小さすぎたわたしではない。
「拒否は、しない」
声が白く出た。
「でも、ただの道具にはしない」
表示板は沈黙した。沈黙が長くて、わたしは少し不安になる。何か変な答え方をしただろうか。くまが小さく言った。
「よいと思います」
「判定前にほめないで」
「ほめてはいません。姿勢の評価です」
「それ、ほめてるよ」
表示板が青く灯った。
『確認しました。呼称、あお。本人による継続使用を優先します。なお、道具扱いした者は先生が怒ります』
「先生、今いないけど」
『代理怒り機能があります』
赤いボタンが、ぱっと明るくなった。
『必要時に押してください』
わたしはまじまじとボタンを見た。くまも見ている気がした。
「押したらどうなるの」
『室内全スピーカーで、先生の怒っています音声を再生します』
「ちょっと聞きたい」
「危険です。先生の怒りは記録容量を圧迫します」
「どれだけ怒ったの」
奥の扉が、ようやく開いた。
向こう側から流れてきた光は青ではなく、薄い朝みたいな白だった。冷気はさらに強いのに、不思議とさっきより息がしやすい。棚の奥で、別の引き出しがいくつも目を覚ます音がした。
そのひとつに、太い文字でこう書かれている。
KM系列 初期起動
同伴対象:あお
目的:隠す。守る。できれば笑わせる。
くまの体が、わたしの腕の中で固まった。
わたしも動けなかった。
笑わせる、の文字だけが、やけに人の手に近い歪み方をしていた。先生はたぶん、そこを書き直した。まじめな言葉だけでは足りないと思って、あとから足したのだ。
「くま」
わたしが呼ぶと、少し遅れて返事があった。
「はい、あお」
その声はかすかに震えていた。でも、逃げてはいなかった。
わたしは奥へ一歩進んだ。床に青い線はもうない。かわりに、白い光が棚の間を細く照らしている。どの引き出しも閉じたまま、けれどわたしたちが近づくのを待っているようだった。
名前の次は、起動の記録。
くまがどうしてくまになったのか。先生が何を守ろうとして、何に追われていたのか。そこに書かれているものを、たぶん笑ってだけ読むことはできない。
それでも、わたしはくまを抱え直した。
「できれば笑わせる、だって」
「達成率を確認します」
「今?」
「重要項目です」
わたしは少しだけ笑った。冷たい部屋の中で、その笑いはすぐ白くなって消えたけれど、消える前にくまの耳へ届いた気がした。
「合格でいいよ」
くまは一拍置いて、いつもの少しずれた声で答えた。
「先生に報告します。たぶん、怒られません」
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