寒い方の廊下と、文句を言われそうな棚
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低温側の廊下は、思ったより白かった。
壁も床も天井も、薄い霜をかぶっている。照明は青白く、まっすぐ伸びた青線だけが、凍った川みたいに足元を走っていた。わたしが一歩進むたび、濡れた靴底がきゅ、と小さく鳴る。さっきまで雨で重かった靴下は、今度は冷蔵庫の奥にしまわれたみたいに冷えてきた。
「生活目標、濡れた靴下をどうにかする、だったよね」
「はい。現在、凍った靴下をどうにかする、へ移行中です」
「悪化してる」
「目標の再設定を推奨します」
「今日の目標は、足を取られない」
壁の端末が、ぴ、と反応した。
『生活目標を受理しました。足を取られない。達成難度、中。床面注意。精神衛生への影響、かなり高』
「かなり高いんだ」
「転ぶと心が折れます」
「くま、経験ある?」
「落下経験はあります」
「どこから」
少しの雑音。
「……机の上」
「小さい」
「当時の私にとっては高層施設です」
白い息が出た。寒さで笑い声まで薄くなる。廊下の両側には、小さな棚が並んでいた。金属の扉つきで、ひとつひとつに透明な窓がある。中には紙束、記録媒体、何かの札、布の切れ端のようなものが収められていた。札の文字は霜で読みにくい。
名前ではなく、番号でもなく、ところどころに変な言葉が混じっている。
「呼び方、予備」
「呼び方、却下」
「呼び方、怒られたもの」
「呼び方、本人が笑ったもの」
わたしは足を止めた。
「怒られたものって、保管する必要ある?」
「先生は、怒られた記録を教材化する傾向があります」
「嫌な傾向だね」
「反面教師です」
「先生本人が?」
「はい」
くまの声は平らだったけれど、最後に小さなノイズが混じった。笑ったのか、何かを思い出しかけたのか、判断がつかない音だった。
青線は棚の間を進み、途中で三本に分かれた。右は「低温記録」。左は「保守」。真ん中には、古いテープで貼り足された札がある。
文句を言われそうな方
「これだ」
わたしが言うと、くまが即答した。
「これです」
「迷いがないね」
「先生の誘導精度に対する信頼があります」
「雑な信頼」
真ん中の廊下は、ほかより狭かった。壁の棚がせり出していて、肩をすぼめないと通れない。くまを胸元に抱え直すと、布の表面に細かい水滴がついているのが見えた。
「結露してる?」
「強く言います」
「まだ言ってないよ」
「今から言います。強く」
「どうぞ」
「湿っています」
「強いかな、それ」
「内心では強いです」
わたしはポケットから古いハンカチを出して、くまの耳のあたりを拭いた。布は冷たく、ぬいぐるみというより、夜の窓に触っているみたいだった。片耳の縫い目が少しほつれている。そこに指が触れた瞬間、くまの声が途切れた。
短いノイズ。
次に聞こえたのは、いつものくまより少し高い、細い音だった。
『起動確認。ええと、名前はまだ決めていません。仮に、くま。異議がある場合は今のうちに』
わたしは手を止めた。
「くま?」
返事はない。
壁の奥で、機械が低く唸っている。青い照明が一度ちらつき、棚の窓にわたしの顔が何重にも映った。どの顔も、寒さとは別の理由で少し固まっている。
『異議なし。よし。異議なしと見なします。見た目がくまなので。なお、本人の尊厳には配慮しています。たぶん』
ぷつ、と音が切れた。
くまが、いつもの声に戻る。
「私は、見た目だけで命名された可能性があります」
「たぶん、配慮はされてる」
「たぶん」
「でも、くまじゃなかったら何がよかった?」
「高機能自律補助知性体」
「呼びにくい」
「では、くまです」
わたしは続きを笑っていいのか迷った。声の中の先生は早口で、あわてていて、少しおかしかった。でも、そこに混じっていた息の乱れが、ただの冗談ではなかった。急いでいる人の声。決めなければならないことが多すぎて、名前まで走りながら置いていった人の声。
「今の、初期記録?」
「断片と思われます」
「思い出した?」
「聞こえました」
「くまの中から?」
「壁からか、私からか、判別不能です。低温保管区画の記録と私の欠損領域が、たぶん、仲良く事故を起こしています」
「仲良く事故」
「事故は仲良くしない方がよいです」
廊下の先で、送風口が開いた。白い冷気が横から吹きつけ、わたしの髪を持ち上げる。霜がぱらぱら落ち、床に散った。その向こうに、小さな案内板が見えた。
感情温度調整中
怒らないこと
泣く場合は指定範囲内で
「泣く場所まで指定されるの、やだな」
「涙による床面凍結を防ぐためです」
「理由が実用的だと、もっとやだ」
指定範囲らしい四角い枠が床に描かれていた。青ではなく、薄い黄色。中に小さく「ここなら可」とある。わたしは踏まないように避けた。
避けたのに、くまが言った。
「先生はここで泣いたことがあります」
足が止まる。
「……くま?」
「訂正。先生は、ここで泣いていないと言い張ったことがあります」
「それ、同じじゃない?」
「水分検知ログはあります」
黄色い枠の端に、古いシミがあった。凍っているのか、乾いているのかもわからない、薄い跡。わたしはそこを見ないふりをして、けれど完全には目を離せなかった。
先生は、人がいない建物の中で、どれだけのことを言い張ったんだろう。
泣いていない。
雑ではない。
これは児童の安全のためです。
三回言えと言った人は、たぶん自分にも何度も言った。
「行こう」
わたしは小さく言った。
「ここ、寒いし」
「はい」
くまの返事は少し遅れた。けれど、遅れたぶんだけ、いつもより近くで聞こえた。
さらに奥へ進むと、棚の札が変わった。
「外呼称、一時」
「外呼称、長期」
「外呼称、本人承認待ち」
「外呼称、本人がまだ小さすぎるため保留」
わたしは息を吸った。冷たい空気が喉の奥を刺す。
青線は「長期」の棚の前を通り、突き当たりで止まっていた。そこには扉がある。銀色ではなく、白い樹脂の扉。丸みを帯びた取っ手がついていて、ほかの冷たい設備と違って、どこか教室の戸棚に似ていた。
扉の上には、手書きの紙が一枚貼られている。字はかすれているが、読めた。
呼称保管室 前室
ここで深呼吸
あと、怒られても開ける
「前室だって」
「本室の手前です」
「それはわかる」
「深呼吸を推奨します」
わたしは言われた通りに息を吸おうとして、冷たさで少しむせた。
「深呼吸、寒い」
「先生の設計不備です」
『設計不備ではありません』
頭上のスピーカーが急に鳴った。
わたしは肩を跳ねさせ、くまを落としそうになった。古い音声はざらざらしていて、さっきの端末よりずっと近い。扉の向こうではなく、扉そのものから聞こえているようだった。
『前室利用者へ。ここから先は、正しい名前、間違った名前、隠した名前、隠しきれなかった名前を扱います。寒いので、できるだけ短く傷ついてください』
「無茶言うなあ」
思わず返すと、スピーカーは少し沈黙した。
『追記。できない場合は、長く傷ついてもかまいません。ただし、床に座ると冷えます』
くまが言った。
「配慮があります」
「あるけど、方向が変」
「先生です」
白い扉の横に、小さな認証窓があった。そこには手のひらの絵も、番号を入れる板もない。ただ、丸い穴がひとつ開いている。話しかけるための穴みたいだった。
表示が灯る。
『入室前確認。あなたは、呼ばれたくない呼び方を持っていますか』
廊下の冷気が、急に遠くなった気がした。
わたしは答えを探した。H-43。観察中。対象。新入生。該当するが該当させたくない者。どれもわたしの周りに貼られた札で、でも、わたしそのものではない。
胸元で、くまの布がわずかに沈む。
「持ってる」
わたしは穴に向かって言った。
「たぶん、たくさん」
表示が青く点いた。
『確認しました。では、ここから先では、できるだけ呼ばれたい方を優先します』
「できるだけ?」
『記録が古いため、失敗することがあります』
「正直だね」
『正直は監査で怒られにくいです』
扉の中で、鍵がひとつ外れた。まだ完全には開かない。もう一つ、表示が浮かぶ。
『同伴補助具へ。あなたは、呼びたい相手を間違えたことがありますか』
くまはすぐには答えなかった。
機械音だけが流れる。わたしの手の下で、くまの体は軽い。軽すぎるくらいだ。壊れた部品と古い綿と、なくした記憶でできている。
「あります」
やがて、くまが言った。
「現在も、修正中です」
最後の鍵が、かちりと鳴った。
扉が少しだけ開き、内側からさらに冷たい空気がこぼれてきた。青線はその隙間の向こうへ続いている。けれど、その色はもう床に塗られた線ではなく、奥の暗がりからこちらへ差す、細い光のように見えた。
わたしはくまを抱え直した。
「じゃあ、呼ばれたい方で行こう」
「はい、あお」
扉の隙間が広がる。
その声は、いつも通り少し平らで、少しずれていて、でも今までで一番、ちゃんとわたしの方を向いていた。
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