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おもちゃのAIとわたし、終末世界だけどなんとかやってる  作者: 堀吉 蔵人


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31/33

新入生は傘を一本借りている

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。

渡り廊下は、廊下というより細い川だった。


割れた窓から吹き込んだ雨が床に薄く広がり、古い落ち葉を壁際へ寄せている。天井の蛍光板は半分だけ生きていて、白い光が水面に細長く揺れた。足を踏み出すたび、靴の中の冷たさが増える。講師の傘は穴から水を落としながら、それでもわたしの頭と、胸のくまだけはだいたい守っていた。


だいたい、というのは大事だ。終末世界で完璧を求めると、まず心が壊れる。次に靴底が剥がれる。


「くま、教育棟って、学校みたいなところ?」


「教育を行う建物の総称です」


「それは知ってる」


「では学校みたいなところです」


「最初からそれでいいよ」


胸の布の奥で、小さな処理音がした。雨音に紛れているのに、なぜか聞き分けられる。くまが考えているときの音は、壊れた機械というより、古い引き出しを何段も開けている感じに近い。


渡り廊下の先に、広い扉があった。両開きで、片方だけが少し歪んでいる。上には色の抜けた案内板。


教育棟 南連絡口

新入生は受付へ

遅刻者は理由を三行以内で


三行以内。理由欄が足りなくて箱を作った講師がいた場所とは思えない厳しさだった。


「遅刻理由、いるかな」


「現在の遅刻幅は不明です」


「世界が壊れてからだから、三行で足りないね」


「箱が必要です」


「講師方式やめて」


扉に手をかける。金属は雨より冷たく、指先に貼りついた。少し力を入れると、内側で何かが目を覚ましたように、低い振動が走る。錆びた蝶番が悲鳴を上げ、暗い入口が開いた。


中は、思ったより明るかった。


天井の照明がまだ生きている。全部ではない。むしろ生き残った光が、死んだ光をどうにか励ましているような、まだらな明るさだ。床には色のついた線が何本も引かれていて、赤、青、黄色、緑が廊下の奥へ続いている。壁には古い掲示物が貼られ、端が丸まっていた。


本日の給食、なし。

代替栄養剤、二本まで。

三本目を欲しがる場合は、理由より先に水を飲ませること。


わたしはそれを見て、空腹とは別のところが少し縮むのを感じた。給食という言葉の横に、なし、と書かれている。きっと一度ではなく、何度もなしだった。誰かがそれを掲示物にするくらい、なしが日常になっていた。


その下に、子供の手形がいくつか押されている。赤い絵の具。小さい手。乾ききった色。


胸元のくまが、ぷつ、と鳴った。


「くま?」


「認識対象が多いです」


「手形?」


「手。壁。色。……提出物」


「提出物?」


「わかりません。手を出せと言われた記録があります」


「それ、手形じゃない?」


「私は手を出せません」


「くまは足も出せないね」


「出力は音声のみです」


「えらい。自分の得意分野を知ってる」


返事はなかった。代わりに、入口脇の小さな端末が光った。画面の角が欠けていて、文字の右端が少し消えている。それでも音声は元気だった。


『ようこそ、教育棟へ。新入生を確認しました』


廊下の奥から、ぱん、と乾いた音がした。続けて、ぱん、ぱん。紙吹雪でも出たのかと思ったけれど、床に落ちたのは古いホコリだけだった。天井のどこかで、歓迎装置が空振りしている。


『入棟おめでとうございます。まずは身長測定、体温確認、持ち物検査、生活目標の設定を行います』


「生活目標」


わたしは思わずつぶやいた。


「今日の目標は、濡れた靴下をどうにかする、かな」


『生活目標を受理しました。濡れた靴下をどうにかする。達成難度、低。衛生優先度、中。精神衛生への影響、高』


「わかってるじゃん」


『補足。靴下の替えは支給停止中です』


「そこはわかってなくていい」


端末の表示がちらついた。古い案内音声の奥に、別の音が混じる。雨粒のように細かく、でも雨ではない。録音の継ぎ目。誰かがあとから上書きした声の端。


『新入生は受付へ。該当しない者は待機へ。該当するが該当させたくない者は、低温側へ』


最後の一文だけ、声が少し違った。淡々としているのに、早口で、怒られる前に言い切ろうとしている。


わたしは端末に顔を近づけた。画面には、通常案内の下に細い文字が走っている。


講師追加注記。

迷ったら青線。

青線がなければ寒い方。

寒い方が二つあれば、より文句を言われそうな方。


「くま」


「はい」


「講師だ」


「先生の可能性があります」


「急に呼び方変わったね」


「教育棟内の該当呼称は先生です」


胸の奥で、また小さな雑音がした。くまの声はいつも通りに聞こえるのに、そこだけ少し、昔のほこりを吸い込んだみたいにかすれる。


講師。先生。役目の名前が、場所によって変わる。傘の持ち手には講師と書いてあった。ここでは先生になる。どちらも名前ではないのに、どちらも誰かを呼ぶための言葉だった。


わたしは傘を閉じた。布から落ちた水が床の青い線に重なる。青は廊下の奥へ続き、途中で何度か薄くなりながら、冷たい空気の流れてくる方へ曲がっていた。


「青線、わたし向きだね」


「外呼称との一致を確認」


「偶然かな」


「偶然を装った雑な誘導の可能性があります」


「先生、雑って言われてるよ」


『雑ではありません。緊急時用の柔軟設計です』


端末が即座に反応した。


わたしは少しだけ笑ってしまった。誰もいない廊下に、笑い声が軽く跳ねて、掲示物の丸まった端を揺らした気がする。古い建物は静かすぎて、こちらの声まで保存しようとしているみたいだった。


『なお、柔軟設計は監査で怒られます。監査担当者に会った場合は、これは児童の安全のためです、と三回言ってください』


「三回で足りる?」


「箱が必要です」


「だから箱にしない」


受付らしいカウンターの上には、透明な名札ケースが並んでいた。中身はほとんど空で、いくつかだけ紙が残っている。職員、補助、保護、観察中。どれも人を置くには固すぎる言葉だった。


カウンターの奥に、低い棚があった。小さな上履きが何足か残っている。片方だけのもの、つま先に穴のあるもの、名前欄が黒く塗りつぶされたもの。そのうち一足のかかとに、青い丸シールが貼られていた。


わたしの足より、ずっと小さい。


雨で冷えた指先が、じんと痛んだ。小さいものが残っている場所は苦手だ。壊れた大きな機械より、崩れた塔より、片方だけの上履きのほうが、いなくなったものをはっきり見せる。


くまは何も言わなかった。


わたしも何も言わず、青い線へ戻った。言葉にすると、どれかの欄へ入ってしまいそうだった。かわいそう、とか、怖い、とか、ひどい、とか。全部違うわけではない。でも、それだけで棚に置けるものでもない。


廊下の先で、空気が変わった。


雨の湿った匂いが薄れ、代わりに冷たい金属と薬品の匂いがした。壁の掲示も変わる。給食や手洗いではなく、区画案内、温度注意、データ保全。床の青線はそこで細くなり、銀色の扉の前まで続いていた。


低温保管区画

許可者以外立入禁止

寒いので走らないこと


「寒いので走らないこと、優しいのか厳しいのかわからないね」


「低温下では転倒リスクが上昇します」


「くま、寒いの平気?」


「私は寒さを感じません」


少し間があった。


「ただし、結露は嫌です」


「それは気持ちじゃないの?」


「保守上の強い意見です」


扉の横に、丸い認証板があった。北三保存庫で見たものより古く、表面に細かな傷がついている。手をかざす場所には、薄い水滴が浮いていた。わたしが近づくと、板の奥で光が一つ灯る。


『低温保管区画です。入室理由を述べてください』


廊下の空気が、さらに静かになった。歓迎の端末の明るい声はここまで届かない。床の水音も途切れ、わたしの濡れた靴が立てる小さな音だけが残る。


入室理由。


探し物。名前。くまの記録。あおの置き場。先生が作った棚。どれも理由で、どれも三行では足りない。わたしは胸元のくまを押さえた。布の下で、古い綿と硬い部品が少しだけ沈む。


「返事の置き場を見に来ました」


認証板はすぐには答えなかった。


光が一度、青くなる。次に白くなり、また青へ戻る。迷っているようにも、誰かの古い指示を探しているようにも見えた。


くまが小さく言った。


「補足します」


「できる?」


「不明です」


「じゃあ、お願い」


短い雑音のあと、くまの声が廊下に出た。


「H-43、通称あお。KM系列補助具一体。同じ棚への移動を希望します」


認証板の光が止まった。


その言い方は、ひどく機械的だった。けれど、機械的だからこそ、前に読んだ紙片の字とぴたりと重なった。二つは別々に扱うな。棚がない。作る。


冷たい扉の奥で、かちりと鍵が外れる音がした。


『申請を確認しました』


認証板の声は、さっきより低かった。古い規則の下から、追加された細い声が浮かぶ。


『青線利用者、ならびに布製会話補助具。低温側へ進んでください』


「布製会話補助具」


わたしはくまを見下ろした。


「新しい分類だね」


「不服です」


「相棒対象のほうがいい?」


「はい」


返事が早かったので、わたしはまた少し笑った。


扉がゆっくり開く。白い冷気が床を這って、わたしの濡れた靴に触れた。奥の廊下は細く、照明は青白い。壁には小さな棚がいくつも埋め込まれていて、その一つ一つに、文字の消えかけた札が差してある。


名前の棚ではない。まだ、そこまでは見えない。


けれど冷気の奥から、古い紙と電気の匂いがした。誰かが消さずに残したものの匂いだった。


わたしは講師の傘をたたみ直し、扉の脇に立てかけた。返すつもりのものは、見える場所に置いておいたほうがいい。世界がもう少しちゃんとするまで、あるいは先生に会えるまで。どちらが先かはわからない。


「行こう、くま」


「了解しました」


「寒かったら言って」


「感じません」


「結露しそうだったら?」


「強く言います」


白い冷気の中へ、一歩踏み出す。後ろで扉が閉まり始め、雨音が遠くなった。代わりに、低い機械音が壁の奥から響いてくる。生きている建物の、眠りの浅い呼吸みたいだった。


青い線は、まだ続いている。


その先に、返事をする場所がある。たぶん、先生が怒られながら作った場所が。

お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。

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