待機室には傘が多い
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雨は、北三保存庫の外へ出てもやまなかった。
地上の通路には、ひび割れた屋根が残っている。けれど雨粒は横から入り、どこかの溜まり水がまとめて落ちて、ばしゃん、ばしゃん、と不規則に鳴った。古い建物の奥で、見えない誰かが大きな手を洗っているみたいだった。
わたしの靴は、もう靴というより小さな池だった。一歩ごとに、くちゅ、と鳴る。胸に抱えたくまの布も湿っていて、冷たさだけが律儀に中まで届いてくる。
「同行者状態を報告します」
「やな予感がする」
「水分、多め」
「知ってる」
「気力、標準以下」
「それも知ってる」
「目的地、旧講師待機室。傘、多め」
「そこだけ期待してる」
くまは少し黙ったあと、真面目な声で言った。
「未返却傘の所有権は複雑です」
「生き延びるためなら、複雑さに勝つ」
「倫理判定を湿度で迂回しました」
連絡通路を二つ曲がる。印字された地図は濡れるたびに薄くなったけれど、丸の位置だけは残っていた。古い教育棟の裏。表の校舎から少し外れたところに、低い建物がくっついている。
扉の上の札は、半分剥がれかけていた。
旧講師待機室。
特別監修施設、仮。
仮、という字の横に、誰かが鉛筆で小さく書き足している。
まだ仮。
雨に濡れた字は、消えそうで消えていなかった。仮というのは、少しだけ置いておくための言葉だと思っていた。あとで本当の名前を付けるから、とりあえず。あとで片づけるから、とりあえず。けれど七年も残ると、とりあえずは居場所になる。居場所になってしまうと、今度は動かす理由が必要になる。
「仮って、長くなると強いね」
「分類としては椅子寄りです」
「施設じゃなくて?」
「座って動かないため」
「でも、座ってるだけのものを誰かが待ってたなら、椅子でもいいか」
扉は鍵がかかっていなかった。押すと、ぎい、と湿った音を立てて開く。中から流れてきた空気は、古い紙と乾いた布、それから錆びた金属の匂いがした。雨水調整室の底で嗅いだ水の匂いとは違う。ここは濡れていない。濡れないように、誰かが何度も気にした場所の匂いだった。
壁際には傘立てが三つ並び、その全部に傘が詰まっている。黒、灰色、透明だったはずの黄色。骨の折れたものも、持ち手に名前のシールが残ったものもあった。床には丸い水跡がいくつも乾いて、薄い輪になっている。
机は二つ。片方は書類の山に埋もれ、もう片方には小さな端末と補修道具が置かれていた。
針。糸。小さな綿。交換用の丸いボタン。ほどけた縫い目を押さえるための、小さな金具。
わたしはそこで足を止めた。胸のくまが、急に重くなった気がした。
「くま」
「はい」
「これ、くま用かな」
「断定はできません」
声はいつも通りの高さだった。けれど最後に、ぷつ、と短い雑音が混じった。雨ではない。壊れた線が触れた音にも、飲み込んだ返事が布の奥で引っかかった音にも聞こえる。
机の上には、透明な箱が置かれていた。中には紙片が何枚も入っている。蓋には手書きの文字。
返却停止願、控え。
理由欄が足りないので別紙。
別紙が足りないので箱。
「箱にするな」
「拡張性の高い理由欄です」
「便利そうに言わないで」
一枚目を取る。紙は乾いていた。端まできれいに残っていることが、かえって不思議だった。
『H-43、通称あお。反応遅延あり。遅延は不応答ではない。待てば返す。待てない者に預けるな』
二枚目。
『KM系補助具一体、返却停止。破損あり。破損は廃棄理由ではなく、会話速度調整の結果である。なお本人は会話が速い。矛盾しているが、教育現場ではよくある』
三枚目には、字が少し乱れていた。
『中央育成原簿は番号を覚える。出生許可台帳は許可を覚える。子供は、そのどちらでもない名前で返事をする。返事の置き場がないため、外呼称群を退避する』
紙を持つ指に力が入る。薄い紙は、強く握ればすぐ破ける。わかっていても、力を抜くまでに時間がかかった。
名前の置き場。
あおは、消されたのではない。番号に押し込められたのでも、台帳から落ちたのでもない。誰かが、返事をする名前だけを、速い棚から逃がした。雑で、無理があって、あとで叱られそうなやり方で。
それでも、逃がした。
「くま」
「はい」
「あおは、待たれてたんだね」
「記録上は、待機対象です」
「人みたいに言って」
短い沈黙のあと、くまの声が遅れて返った。
「待たれていました」
その遅れに、さっきの雑音が少し混じる。わたしは布の上からくまを押さえた。壊れかけているから鳴る音かもしれない。でも、あおの記録を読むたびに、くまの返事はほんの少しだけ遅くなる。待つという言葉のところで、何かが引っかかる。
箱の底に、小さなカードがあった。端末用の認証板に似ているけれど、もっと古い。表面には丸いシールが貼られている。シールには、下手な字で、くま、と書いてあった。
「これ、くまって書いてある。ひらがなで」
「私ですか」
「たぶん」
「私の登録名は不明です」
「でも、誰かがくまって書いてる」
「外呼称の可能性があります」
それだけ言って、くまは黙った。
部屋の端末が、勝手に点いた。画面は暗く、文字だけが浮かぶ。北三保存庫の受付係よりも古い表示だった。四角い文字が、一つずつ遅れて現れる。
『待機記録、最終』
『講師、退室予定』
『退室理由、叱られる前に出る』
『持出物、なし』
『未持出物、傘三十一、補修針一、返却停止願控え、外呼称群退避写し』
『未処理、H-43』
『未処理、KM系列補助具』
『備考、二つは別々に扱うな』
画面が一度ちらついた。
『あおは、くまと話すと返事が早い』
『くまは、あおを待つと壊れにくい』
『したがって、両方を同じ棚に置く』
『棚がない』
『作る』
端末の下で、かち、と音がした。引き出しが少し開く。中には、薄い金属板が入っていた。表面に刻まれた線は、地図ではなく、経路図だった。
旧講師待機室から、教育棟のさらに奥へ。低温保管区画。名称未定。候補名、こどもが返事をする部屋。却下理由、長い。再候補、呼称保管室。
わたしは金属板をしばらく見下ろした。
呼称保管室。長い名前を短くしたのに、それでもまだ少し長い。講師はたぶん、名前を付けるのが下手だった。入れたいものを全部入れようとして、欄が足りなくなって、箱を作って、棚を作ろうとして、仮の部屋を七年も家具にした。
でも、その下手さは、わたしには少しだけわかる。大事なものほど、一つの言葉に収まらない。くまは補助具で、相棒で、検索対象で、濡れると困る荷物で、たぶん誰かに名前を書かれたものだ。わたしだって、生存者とか少女とか許可の外側とか、そんな言葉だけで置かれたくない。
「次は、ここだね」
「可能性が高いです」
「講師、名前を付けるの下手だね」
「用途を全部入れようとしています」
「気持ちはわかる」
わたしは金属板を布の内側に挟んだ。透明板、濡れた地図、返却停止願の紙片、それから新しい経路図。胸元がごわごわして、歩きにくくなる。でも、どれも置いていく気にはなれなかった。
傘立てを見る。灰色の傘が一本、まっすぐ立っている。持ち手のシールには、講師、とだけ書いてあった。名前ではなく役目だった。けれど、その役目の人は、名前の置き場を作ろうとしていた。
「一本、借りよう」
「返却予定は」
「世界がもうちょっとちゃんとしたら」
「長期貸出です」
「仮だよ」
「家具になります」
扉を開けると、雨の音が大きくなった。傘を広げる。布地に小さな穴が二つあって、そこから細い水が落ちる。完璧ではない。でも、ないよりずっといい。
雨の向こうに、教育棟の奥へ続く細い渡り廊下が見えた。古い窓はところどころ割れ、床には落ち葉と水が溜まっている。その先に、呼称保管室。返事をする名前を、どこかへ消さずに置いておくための部屋。
「くま」
「はい」
「あおを探す理由、増えたね」
「はい」
「くまのことも、少し増えた」
「私は検索対象ですか」
「相棒対象」
「分類が曖昧です」
「曖昧なほうが置き場、多そうでしょ」
くまはすぐには返事をしなかった。傘の内側で、雨粒の音だけが丸く響く。やがて、布の奥から小さく、ぷつ、と雑音が鳴った。
それから、ほんの少し遅れて。
「待機します」
壊れた音かもしれない。けれどわたしには、待つと言われたものが、ちゃんと待つと返した音に聞こえた。
わたしは傘を少し傾け、くまに当たる雨を減らした。靴の中は冷たい。服も重い。けれど、北三保存庫で拾ったものは、もうただの記録ではなかった。台帳の欄からはみ出した名前と、仮のまま残された部屋と、待てば返すものたち。
全部、まだ消えていない。
「行こう。返事の置き場を見に」
「了解しました」
「あと、傘はちゃんと返す」
「いつですか」
「講師に会えたら」
「返却先が生存者とは限りません」
「じゃあ、会えなかったら?」
くまの声は、今度も少し遅れた。
「待機します」
わたしは灰色の傘を握り直し、旧講師待機室をあとにした。雨はまだ強い。けれど、その向こうには、待っているものがある。
返事をする場所が、どこかにある。
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