雨水調整室は、返事を溜める
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階段は、思ったより長かった。
一段ごとに水が増える。最初は靴底だけだったのに、五段目で足首、七段目でふくらはぎの下まで来た。水は冷たいだけでなく、動いていた。どこかから流れ込み、どこかへ抜けている。わたしの足を押して、早くしろと言ったり、やめろと言ったりする。
壁には白い線が何本も引かれていた。
平常。注意。警戒。
その上に、誰かの手書きで小さく足されている。
後悔。
「水位区分に感情が混入しています」
くまの声は服の奥でくぐもっていた。布で包んだせいで、いつもより少し眠そうに聞こえる。
「後悔って、どのくらい?」
「警戒より上です」
「やだな」
「ただし、後悔の線は手書きなので、公式ではありません」
「公式じゃない後悔なら少し軽い?」
「個人差があります」
階段の下は、低い天井の部屋だった。雨水調整室と札にあったわりに、水を調整している感じはあまりない。むしろ水に調整されている。床の半分は浅い流れになり、中央の丸い槽へ吸いこまれていた。槽の上には金網がかかっていて、その向こうで青いランプが三つ、弱く点滅している。
壁際に古い操作盤があった。ボタンには文字が多すぎた。緊急排水、点検排水、疑似排水、排水したつもり、排水と誤認、排水ではないが似ている処理。
「どれ押すの」
「押さない判断もあります」
「じゃあ押さない」
「賢明です」
わたしは槽のそばまで進んだ。水の流れが強く、足元の小石がころころ転がる。黒筒二を布から出すと、透明板の白い点が少し強く光った。低いところへ来たからなのか、濡れたせいなのか、講師がそういう面倒な仕掛けを好んだからなのかはわからない。
筒の端に、細い溝があった。金網の縁にも同じ幅の切れ込みがある。
「また置き方?」
「高確率で置き方です」
「合言葉より置き方が多いね」
「体験型の記録教育です」
「迷惑型では」
「両立します」
黒筒を切れ込みに差す。横にするな、とあったので縦に立てた。けれど、水の勢いでぐらつく。手で押さえていると、金網の下から、こぽ、と空気が上がった。
『下段乾燥筒、確認』
『横ではない』
『よし』
『横にした者は三名』
『全員、理由を述べた』
『理由がある横置きは横置きである』
部屋の奥で、古いスピーカーが目を覚ました。水を飲んだような声だったが、言葉は聞き取れる。
「怒られてる」
「講師の怒りは記録密度が高いです」
『ここは雨水調整室である』
『本来、教育記録を置く場所ではない』
『よって置いた』
『本来でない場所は、検索対象から外れる』
『外れるものは、ときどき生き残る』
壁のランプがひとつ消え、代わりに操作盤の下の小さな引き出しが開いた。中には、指先ほどの透明な板が何枚も重なっている。どれも濡れていない。引き出しの内側だけ、乾いた空気が残っていた。
わたしは一枚を取った。板には文字が浮かぶ。
外呼称群退避写し。
中央育成原簿照会、暫定分岐。
移動先、特別監修施設候補。
候補、未決定。
未決定理由、決めたくない。
「決めたくないって理由になる?」
「人間運用では頻出します」
「くま、ちょっと詳しいね」
「破損前の記憶が残念な方向に残っています」
次の板を重ねると、スピーカーの声が変わった。講師の声ではない。もっと平たく、事務室の机みたいな声。
『照会要求』
『外呼称、あお』
『該当なし』
『類似、H-43』
『中央育成原簿、登録済』
『出生許可台帳、同期対象』
『同期状態、停止』
『停止理由、管理者判断』
『管理者判断の詳細、記入欄不足』
記入欄不足。
その言葉は、槽を流れる水よりも乾いていた。足りないのは水ではなく、書く場所だったのかもしれない。大事なものを入れる欄がなくて、でも空白にすると消されるから、誰かが欄の外へ逃がした。
わたしは板を胸の近くへ寄せた。
「くま」
「はい」
「あおは、いなかったことにされたわけじゃないんだよね」
「中央には登録があります」
「でも、あおって呼ぶと該当なし」
「はい」
「名前が、別の水路に流されてるみたい」
くまはすぐに答えなかった。布の奥で、小さな雑音が一度鳴る。雨の音か、機械の考える音か、区別がつかない。
「呼称と登録が分離されています」
「難しく言った」
「簡単に言うと」
くまの声が、少しだけ近くなる。
「返事をする場所と、管理する場所が別です」
それなら、わかった気がした。呼べば返る。けれど、台帳には別の形で入っている。台帳のほうだけ見ている人には、返事は聞こえない。返事のほうだけ追う人には、台帳の扉が開かない。
講師は、たぶん両方を見てしまった。
三枚目の板には、手書きに似た文字が浮いた。
『あおは、待つと返す』
『待たない装置に入れると、返さないものになる』
『返さないものは不良と呼ばれる』
『不良ではない』
『遅い』
『遅いものを残すには、速い棚から逃がす』
『逃がした記録を、記録に残すな』
『今これを書いている』
『矛盾している』
『だが、矛盾にも用途がある』
「講師、自分で自分を捕まえてる」
「論理の網にかかっています」
「助ける?」
「観察します」
「冷たい」
「水中です」
わたしは笑いかけた。でも、笑いは喉の途中で止まった。操作盤の青いランプが、三つとも同時に消えたからだ。
部屋が暗くなる。水音だけが大きくなり、槽の下で何か重いものが回り始めた。金網に立てた黒筒二が震える。透明板の白い点が、今度ははっきりと点滅した。
『整合性検査、開始』
『外呼称群退避写し、検出』
『中央照会分岐、検出』
『承認欄、空白』
『差戻欄、満杯』
『満杯欄への追加記入は推奨されません』
『推奨されませんが、よく行われます』
「今、何か始まった?」
「始まりました」
「止められる?」
「止め方が不明です」
「押すボタン多いよ」
「押すほど状況が豊かになります」
「豊かにしないで」
槽の下から、がこん、と音がした。水が一瞬だけ逆流し、わたしの膝にぶつかる。立っていられなくて壁へ手をつくと、ぬるりとした苔で指が滑った。服の奥のくまを押さえながら、もう片方の手で黒筒をつかむ。
スピーカーが明るすぎる声で告げた。
『記録の整合性が損なわれました』
『該当データを、指定された特別監修施設へ緊急移動します』
『指定先を検索します』
『指定先が複数あります』
『もっとも叱責されにくい場所を選択します』
『検索中』
『検索中』
『検索者の胃痛を考慮中』
「胃痛まで考えてくれるんだ」
「不要な配慮です」
『候補一、中央棟地下監査室』
『叱責、高』
『候補二、南七教育補助具修繕庫』
『湿気、高』
『候補三、旧講師待機室』
『私物、多』
『叱責、中』
『未返却傘、多』
『選択、旧講師待機室』
壁の操作盤から、細い紙が吐き出された。紙はすぐ濡れそうになり、わたしは慌ててつかんだ。表面には、簡単な地図が印字されている。北三保存庫の下から外へ出て、連絡通路を二つ曲がり、古い教育棟の裏へ。そこに小さく丸が付いていた。
旧講師待機室。
特別監修施設、仮。
仮のまま七年。
仮は、長く続くと家具になる。
「家具」
「施設分類の末期症状です」
「でも、場所は出た」
「はい」
「講師の、最後の作業場所?」
「最終と断定はできません。ただ、退避写しの移動先としては強い候補です」
水がまた下へ流れ始めた。さっきの逆流が嘘のように、槽は知らん顔で雨を飲み込んでいる。黒筒二の白い点は消え、ただの黒い筒に戻っていた。役目を終えた顔をしている。
わたしは吐き出された紙を乾いた布の奥、板と板の間へ挟んだ。布はもう乾いていない。でも、板よりはましだ。
「くま、旧講師待機室って、どんなところだと思う?」
「待機する場所です」
「それはそう」
「講師が待機します」
「増えてない」
「傘が多いです」
「それはちょっとわかる」
階段の上から、雨の匂いが降りてくる。下の水は冷たく、膝のあたりがじんじんしていた。けれど、胸の内側には小さな紙の重みがある。地図。場所。次に向かう先。
あおを番号だけにしなかった人が、何を待っていたのか。
くまがどうして、その記録にひっかかるのか。
待機室という名前の場所で、まだ何かが待っているのか。
全部はわからない。わからないけれど、低いところまで降りたぶん、少しだけ見えたものがあった。
「上がろう」
「賛成です。耐水ではありません」
「わたしも耐水じゃない」
「同行者情報を更新しました」
「今?」
「正論は遅れても正論です」
わたしは黒筒二を抱え直し、水に逆らって階段へ向かった。足は重い。靴の中は完全に水たまりで、一歩ごとに終末が鳴る。それでも、上には雨があり、雨の先には旧講師待機室がある。
振り返ると、雨水調整室の青いランプがひとつだけ戻っていた。
点滅は遅い。けれど、消えてはいない。
まるで、返事がまだ戻る途中みたいだった。
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