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おもちゃのAIとわたし、終末世界だけどなんとかやってる  作者: 堀吉 蔵人


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28/32

黒筒は低いほうへ行く

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。

濡れた石は、見た目よりずっとすべった。


一歩目でわたしの足は横へ逃げ、二歩目で膝が空気を蹴った。三歩目はなかった。腕で壁を抱くようにつかまり、頬が冷たいコンクリートに当たる。くまは胸元で、くぐもった声を出した。


「姿勢制御に問題があります」


「地面に言って」


「地面は応答しません」


「じゃあ、わたしに言わないで」


雨は強くない。ただ、細かく、しつこい。髪の先から落ちる水が首筋へ入る。黒筒は腰の紐に結んであるのに、まるで自分で下へ行きたがるみたいに、歩くたび膝にこつこつ当たった。


矢印の先は、庭の低い縁だった。


そこには排水のための細い溝が何本も集まっていた。水は溝の中で迷わない。まっすぐ、曲がり、またまっすぐ。人間が作った道なのに、人間よりきちんとしている。


「講師は、ここを歩いたのかな」


「滑った可能性があります」


「どうして」


「雨天時の記録が多いです。傘喪失の痕跡も複数あります」


「傘なくす人が、排水路に紙を逃がすの?」


「傘を守れない人ほど、紙を守りたかったのかもしれません」


くまの声は、いつものずれた調子のまま、少しだけ静かだった。


溝の先に、丸い点検蓋があった。半分ほど土に埋まり、表面には古い白文字が残っている。


低層雨水分岐。

一般投入口ではありません。

感情物を流さないこと。


「感情物」


「分類不能物の別名です」


「そんな別名ある?」


「講師が使いました」


「また講師か」


蓋の中央に、黒筒と同じ矢印が刻まれていた。ただし矢印はひとつではない。三本に分かれている。右、左、下。どれも低いほうへ向いているようで、よく見ると、一番下だけ細い青い線でなぞられていた。


わたしは膝をついて、黒筒を外した。泥を拭い、端の小さな突起を押す。開ける場所ではない、と刻まれていたのだから、ここで無理に開けるのは違う。けれど、筒の腹には浅い溝があり、蓋の縁にぴたりとはまった。


こつん。


金属ではない軽い音がした。


蓋の内側で、何かが一度だけ鳴る。古い仕掛けが、寝ぼけて返事をしたみたいだった。次に、水音の下から低い声が流れた。


『拾った手、確認』

『黒筒一、流出防止位置へ戻り』

『開ける場所ではない』

『だから、開けるなと書いた』

『なのに開ける者がいる』

『過去の私である』


わたしは蓋に手をついたまま、しばらく動けなかった。


「自分で開けたんだ」


「自己理解があります」


「さっきも聞いた」


「更新されました。自己理解はあるが、実行管理に難があります」


点検蓋の中で、講師の記録は水音に混じって続く。声は箱四のものより近い。鼻声ではなく、少し早口だった。


『箱四からの写しは、ここで分岐する』

『上流へ戻すな』

『正式棚へ戻すな』

『正式棚は、正式でないものを食べる』

『食べるという表現は不適切』

『だが、消えるので食べるでよい』


雨水が溝を流れていく。薄い紙片みたいな枯れ葉が、蓋の横でくるりと回り、細い隙間へ吸いこまれた。


正式棚は、正式でないものを食べる。


それは、少しだけわかった。棚には名前がある。名前に入らないものは、置き場所を持てない。置けないものは、落ちる。落ちたものは、誰かが拾わないと、なくなる。


『外呼称退避写しは、下段へ』

『下段は浸水する』

『浸水するが、閲覧されにくい』

『閲覧されにくい場所は、叱責されにくい』

『叱責されにくい場所は、腐る』

『よって、乾燥包みを併用する』

『結論、管理とは面倒である』


「結論だけ合ってる」


「管理業務への侮辱です」


「くま、管理側?」


「わたしは同行側です」


胸の内側が、少しあたたかくなる。濡れて寒いのに、そこだけ乾いた布を当てられたみたいだった。


講師の声が、急に小さくなる。


『あおは、外で呼ぶと返事がある』

『番号では遅い』

『遅いことを欠陥と呼ぶな』

『遅れて返る声は、まだ戻る途中の声だ』

『中央へ送ると、戻る途中のものが完了扱いになる』

『完了は便利だ』

『便利は時々、取り返しがつかない』


わたしは息を止めていた。雨の匂いと、古い泥の匂いが鼻の奥にたまる。くまも黙っている。布の中の小さな機械が、音を立てないようにしている気がした。


蓋の縁に、さらに小さな文字があった。爪で泥を削ると、青い線の先に読める。


下段乾燥筒、二番。

合言葉ではなく、置き方。

横にするな。怒られる。


「誰に」


「水です」


「水、怒る?」


「怒った結果が浸水です」


「じゃあ強い」


蓋は重かった。傘骨を隙間へ入れ、てこのように持ち上げる。最初は動かない。もう一度、今度は黒筒を横に添えて、力の向きを変えた。終末のものは正面から力をかけると意地を張る。けれど横から相談すると、たまに折れる。


ぎ、と蓋が浮いた。


中は暗かった。細い管が三方向へ伸び、中央に小さな受け皿がある。水は皿の縁をかすめ、下の管へ落ちていた。受け皿の上に、黒い乾燥筒が一本、斜めになって引っかかっている。


「横になってる」


「怒られ対象です」


「水に?」


「または講師に」


わたしは腕を入れた。冷たい。肘まで水がしみ、袖の中へ泥が入る。指先が乾燥筒に届くが、つかむと逃げる。つるつるして、魚みたいだった。魚は見たことがない。絵で見た。たぶん、つかみにくいものは全部魚に似ている。


「くま、何か言って。手が冷たい」


「九九を唱えます」


「それ以外」


「七八、ええと」


「やっぱりそれ以外」


「腕部感覚低下時は、無理をしないでください」


「今それを言う?」


「正論は遅れても正論です」


「遅れて返る声は?」


「まだ戻る途中の声です」


わたしは笑ってしまい、その拍子に指が筒の紐へかかった。逃がさないよう、親指を曲げる。爪の間に泥が入って、痛い。でも痛いなら、まだ指はある。


ゆっくり引き上げると、乾燥筒は水を切って出てきた。


黒筒二。

下段乾燥用。

読む場所は、もっと低い。


「また」


「講師の移動嗜好が強いです」


「読ませる気あるのかな」


「あります。ただし、まっすぐ読ませる気は弱いです」


筒の端には、小さな透明板がはめ込まれていた。中に紙ではないものが見える。薄い板。箱四で借りたものと似ているが、こちらは縁が青く、真ん中に白い点がひとつ光った。電気が残っているというより、雨の光を拾っている感じだった。


わたしが顔を近づけると、透明板の奥に文字が浮いた。


外呼称群、中央同期対象外。

対象外理由、教育観察継続。

申請者、講師。

承認欄、空白。

差戻欄、満杯。


「満杯?」


くまが少しだけ間を置いた。


「差し戻され続けた、という意味かもしれません」


「承認されてないのに、残したの?」


「はい」


「じゃあ、だめなこと?」


「制度上は、だめです」


雨が点検口の縁を打つ。ぽつ、ぽつ、ぽつ。講師の記録と同じ音だった。だめなことをした人の声は、なぜか悪い人の声に聞こえなかった。失敗が多くて、言い訳も多くて、傘もなくす。けれど、あおを番号だけにしなかった。


「くまは、だめだと思う?」


「わたしの判断基準は破損しています」


「便利な逃げ方」


「ただ、同行補助としては」


くまの声が、胸元で小さくこもる。


「呼ばれて返事があるものを、消す処理は推奨しません」


わたしは乾燥筒を布で包んだ。箱四の薄板の隣へ入れる。二つが触れ合って、かすかな硬い音を立てた。


点検口の底で、水が低いほうへ落ち続けている。その先は暗くて見えない。けれど、黒筒二の矢印は、さらに下を指していた。支柱の影の向こう、雨水が集まる古い地下階段へ。


階段の入口には、錆びた札がぶら下がっている。


雨水調整室。

通常時立入禁止。

異常時は、通常ではないため各自判断。


「各自判断だって」


「責任放棄の丁寧語です」


「終末向きだね」


「はい。たいへん普及しています」


わたしは点検蓋を戻した。重い音がして、地面がまた閉じる。閉じた下で、水は止まらない。記録も、止まってはいない。ただ、低いほうへ、見えにくいほうへ、誰かの手が届くかもしれないほうへ流れている。


階段の一段目に足を置く。冷たい水が靴の中へ入った。


「くま」


「はい」


「次、もっと低いんだよね」


「はい」


「濡れる?」


「高確率です」


「耐水じゃないのに?」


「でも、同行中です」


わたしはくまの頭を服の奥へ押しこみ、上から乾いた布をかぶせた。布はもう半分濡れていたけれど、ないよりましだ。終末のましは、だいたい資源になる。


黒筒二を胸に押さえ、わたしは地下へ降りた。


水音が近くなる。暗がりの奥で、古い装置がひとつ、まだ小さく点滅していた。まるで、ずっと待っていた返事みたいに。

お読みいただきありがとうございました。お楽しみいただけたようでしたら、★★★★★評価、ブックマークなどいただけると作者の創作の励みとなります。また次回よろしくお願いします。

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