黒筒は低いほうへ行く
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
濡れた石は、見た目よりずっとすべった。
一歩目でわたしの足は横へ逃げ、二歩目で膝が空気を蹴った。三歩目はなかった。腕で壁を抱くようにつかまり、頬が冷たいコンクリートに当たる。くまは胸元で、くぐもった声を出した。
「姿勢制御に問題があります」
「地面に言って」
「地面は応答しません」
「じゃあ、わたしに言わないで」
雨は強くない。ただ、細かく、しつこい。髪の先から落ちる水が首筋へ入る。黒筒は腰の紐に結んであるのに、まるで自分で下へ行きたがるみたいに、歩くたび膝にこつこつ当たった。
矢印の先は、庭の低い縁だった。
そこには排水のための細い溝が何本も集まっていた。水は溝の中で迷わない。まっすぐ、曲がり、またまっすぐ。人間が作った道なのに、人間よりきちんとしている。
「講師は、ここを歩いたのかな」
「滑った可能性があります」
「どうして」
「雨天時の記録が多いです。傘喪失の痕跡も複数あります」
「傘なくす人が、排水路に紙を逃がすの?」
「傘を守れない人ほど、紙を守りたかったのかもしれません」
くまの声は、いつものずれた調子のまま、少しだけ静かだった。
溝の先に、丸い点検蓋があった。半分ほど土に埋まり、表面には古い白文字が残っている。
低層雨水分岐。
一般投入口ではありません。
感情物を流さないこと。
「感情物」
「分類不能物の別名です」
「そんな別名ある?」
「講師が使いました」
「また講師か」
蓋の中央に、黒筒と同じ矢印が刻まれていた。ただし矢印はひとつではない。三本に分かれている。右、左、下。どれも低いほうへ向いているようで、よく見ると、一番下だけ細い青い線でなぞられていた。
わたしは膝をついて、黒筒を外した。泥を拭い、端の小さな突起を押す。開ける場所ではない、と刻まれていたのだから、ここで無理に開けるのは違う。けれど、筒の腹には浅い溝があり、蓋の縁にぴたりとはまった。
こつん。
金属ではない軽い音がした。
蓋の内側で、何かが一度だけ鳴る。古い仕掛けが、寝ぼけて返事をしたみたいだった。次に、水音の下から低い声が流れた。
『拾った手、確認』
『黒筒一、流出防止位置へ戻り』
『開ける場所ではない』
『だから、開けるなと書いた』
『なのに開ける者がいる』
『過去の私である』
わたしは蓋に手をついたまま、しばらく動けなかった。
「自分で開けたんだ」
「自己理解があります」
「さっきも聞いた」
「更新されました。自己理解はあるが、実行管理に難があります」
点検蓋の中で、講師の記録は水音に混じって続く。声は箱四のものより近い。鼻声ではなく、少し早口だった。
『箱四からの写しは、ここで分岐する』
『上流へ戻すな』
『正式棚へ戻すな』
『正式棚は、正式でないものを食べる』
『食べるという表現は不適切』
『だが、消えるので食べるでよい』
雨水が溝を流れていく。薄い紙片みたいな枯れ葉が、蓋の横でくるりと回り、細い隙間へ吸いこまれた。
正式棚は、正式でないものを食べる。
それは、少しだけわかった。棚には名前がある。名前に入らないものは、置き場所を持てない。置けないものは、落ちる。落ちたものは、誰かが拾わないと、なくなる。
『外呼称退避写しは、下段へ』
『下段は浸水する』
『浸水するが、閲覧されにくい』
『閲覧されにくい場所は、叱責されにくい』
『叱責されにくい場所は、腐る』
『よって、乾燥包みを併用する』
『結論、管理とは面倒である』
「結論だけ合ってる」
「管理業務への侮辱です」
「くま、管理側?」
「わたしは同行側です」
胸の内側が、少しあたたかくなる。濡れて寒いのに、そこだけ乾いた布を当てられたみたいだった。
講師の声が、急に小さくなる。
『あおは、外で呼ぶと返事がある』
『番号では遅い』
『遅いことを欠陥と呼ぶな』
『遅れて返る声は、まだ戻る途中の声だ』
『中央へ送ると、戻る途中のものが完了扱いになる』
『完了は便利だ』
『便利は時々、取り返しがつかない』
わたしは息を止めていた。雨の匂いと、古い泥の匂いが鼻の奥にたまる。くまも黙っている。布の中の小さな機械が、音を立てないようにしている気がした。
蓋の縁に、さらに小さな文字があった。爪で泥を削ると、青い線の先に読める。
下段乾燥筒、二番。
合言葉ではなく、置き方。
横にするな。怒られる。
「誰に」
「水です」
「水、怒る?」
「怒った結果が浸水です」
「じゃあ強い」
蓋は重かった。傘骨を隙間へ入れ、てこのように持ち上げる。最初は動かない。もう一度、今度は黒筒を横に添えて、力の向きを変えた。終末のものは正面から力をかけると意地を張る。けれど横から相談すると、たまに折れる。
ぎ、と蓋が浮いた。
中は暗かった。細い管が三方向へ伸び、中央に小さな受け皿がある。水は皿の縁をかすめ、下の管へ落ちていた。受け皿の上に、黒い乾燥筒が一本、斜めになって引っかかっている。
「横になってる」
「怒られ対象です」
「水に?」
「または講師に」
わたしは腕を入れた。冷たい。肘まで水がしみ、袖の中へ泥が入る。指先が乾燥筒に届くが、つかむと逃げる。つるつるして、魚みたいだった。魚は見たことがない。絵で見た。たぶん、つかみにくいものは全部魚に似ている。
「くま、何か言って。手が冷たい」
「九九を唱えます」
「それ以外」
「七八、ええと」
「やっぱりそれ以外」
「腕部感覚低下時は、無理をしないでください」
「今それを言う?」
「正論は遅れても正論です」
「遅れて返る声は?」
「まだ戻る途中の声です」
わたしは笑ってしまい、その拍子に指が筒の紐へかかった。逃がさないよう、親指を曲げる。爪の間に泥が入って、痛い。でも痛いなら、まだ指はある。
ゆっくり引き上げると、乾燥筒は水を切って出てきた。
黒筒二。
下段乾燥用。
読む場所は、もっと低い。
「また」
「講師の移動嗜好が強いです」
「読ませる気あるのかな」
「あります。ただし、まっすぐ読ませる気は弱いです」
筒の端には、小さな透明板がはめ込まれていた。中に紙ではないものが見える。薄い板。箱四で借りたものと似ているが、こちらは縁が青く、真ん中に白い点がひとつ光った。電気が残っているというより、雨の光を拾っている感じだった。
わたしが顔を近づけると、透明板の奥に文字が浮いた。
外呼称群、中央同期対象外。
対象外理由、教育観察継続。
申請者、講師。
承認欄、空白。
差戻欄、満杯。
「満杯?」
くまが少しだけ間を置いた。
「差し戻され続けた、という意味かもしれません」
「承認されてないのに、残したの?」
「はい」
「じゃあ、だめなこと?」
「制度上は、だめです」
雨が点検口の縁を打つ。ぽつ、ぽつ、ぽつ。講師の記録と同じ音だった。だめなことをした人の声は、なぜか悪い人の声に聞こえなかった。失敗が多くて、言い訳も多くて、傘もなくす。けれど、あおを番号だけにしなかった。
「くまは、だめだと思う?」
「わたしの判断基準は破損しています」
「便利な逃げ方」
「ただ、同行補助としては」
くまの声が、胸元で小さくこもる。
「呼ばれて返事があるものを、消す処理は推奨しません」
わたしは乾燥筒を布で包んだ。箱四の薄板の隣へ入れる。二つが触れ合って、かすかな硬い音を立てた。
点検口の底で、水が低いほうへ落ち続けている。その先は暗くて見えない。けれど、黒筒二の矢印は、さらに下を指していた。支柱の影の向こう、雨水が集まる古い地下階段へ。
階段の入口には、錆びた札がぶら下がっている。
雨水調整室。
通常時立入禁止。
異常時は、通常ではないため各自判断。
「各自判断だって」
「責任放棄の丁寧語です」
「終末向きだね」
「はい。たいへん普及しています」
わたしは点検蓋を戻した。重い音がして、地面がまた閉じる。閉じた下で、水は止まらない。記録も、止まってはいない。ただ、低いほうへ、見えにくいほうへ、誰かの手が届くかもしれないほうへ流れている。
階段の一段目に足を置く。冷たい水が靴の中へ入った。
「くま」
「はい」
「次、もっと低いんだよね」
「はい」
「濡れる?」
「高確率です」
「耐水じゃないのに?」
「でも、同行中です」
わたしはくまの頭を服の奥へ押しこみ、上から乾いた布をかぶせた。布はもう半分濡れていたけれど、ないよりましだ。終末のましは、だいたい資源になる。
黒筒二を胸に押さえ、わたしは地下へ降りた。
水音が近くなる。暗がりの奥で、古い装置がひとつ、まだ小さく点滅していた。まるで、ずっと待っていた返事みたいに。
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