雨樋下の箱四
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蓋は、すぐには開かなかった。
濡れてふくらんだ木が、縁の溝に食いこんでいる。力任せに引けば割れる。割れれば、中の紙も一緒に負ける。終末の箱は、だいたい人間より頑固だ。
「くま、謝ったのに開かない」
「謝罪だけでは、水分量が変わりません」
「現実的だな」
「乾かすと、話し合いが進みます」
わたしはさっきもらった乾燥布を取り出し、蓋の縁をゆっくり拭いた。茶色い水が布へ移る。木と土と、古い紙の匂い。雨樋からはまだ雫が落ちていた。ぽつ、と蓋へ。ぽつ、と手首へ。ぽつ、とくまの頭へ。
「くま、濡れてる」
「わたしは耐水ではありません」
「先に言って」
「今が、わたしに可能な最速です」
わたしはくまを服の内側へ押しこみ、顔だけ出させた。胸の星が布の隙間で弱く光る。ぬいぐるみが服の中でしゃべるのは変だけれど、北三では変じゃないものを探すほうが難しい。
乾燥布で縁を拭いていると、蓋の上に浅い溝が浮いた。水がたまって、文字をなぞっている。
先に謝る。
次に濡らす。
最後に急がない。
「濡らすのは済んでるね」
「講師より手順がよいです」
「講師は?」
「たぶん、先に濡れました」
ありそうだった。
傘骨の先を溝へ差しこむ。木目を見て、少しずつ持ち上げた。蓋は一度だけ抵抗し、それから、ふっと軽くなる。箱の内側から、湿った空気が抜けた。
中には、もう一つ箱があった。
外箱は木だったが、内箱は薄い金属でできている。錆びてはいても形は崩れていない。角の小穴に麻紐が通され、三回返しで結ばれていた。見慣れてきた講師結びだ。上には黒い板が貼ってある。
外呼称退避分。
雨天搬送用。
開封者は、残す気があること。
「残す気、ある?」
くまが聞いた。
わたしは胸元を押さえた。移送票、蝋引きの包み、補食。紙ばかりで、服の内側が古い机みたいになっている。持っていく気と、読む気と、残す気は少し違う。残すには、残る場所もいる。
「たぶん、ある」
「たぶんは人間です」
「講師寄り?」
「少し」
嬉しくはない。でも、少しだけ悪くもなかった。
濡れた紐は固かった。爪が入らない。箱の横を見ると、雨樋の支柱に細い鉄片がぶら下がっていた。
開封補助。
なくすな。
講師はなくした。
「なくしたのに、ある」
「なくしたあと、誰かが付けました」
誰か。
この庭には、そういう輪郭の甘い言葉が多い。講師。あお。外呼称。拾った人。残されたほう。正式な名前から少しはみ出した言葉ばかりだ。けれど、はみ出したから紙の端に残れたものもある。
鉄片は小さなへらだった。結び目へ差しこみ、三回返しを逆にたどる。ひとつ、ふたつ、みっつ。紐がほどけると、金属箱の蓋は軽く開いた。
中は乾いていた。
薄い短冊が色ごとに束ねられている。青い束。白い束。灰色の束。奥には黒い薄板が一枚。わたしは指を乾燥布で拭いてから、青い束の一番上に触れた。
あお。
風下返事あり。
番号呼称反応遅延。
外呼称保持、雨天時良好。
その下にも、あお。次も、あお。字の形が少しずつ違う。丸い字、震えた線、急いで書いた斜めの字。全部同じ二文字なのに、同じではない。名前の束ではなく、呼んだ記録の束だった。
「こんなに呼んだんだ」
くまの声が小さくなる。
「はい。たくさんです」
一枚だけ裏返す。
返事なしの日。
補食半分で待つ。
待つのは無駄ではない。
ただし講師の分は減る。
「講師、また食べてる」
「観察補助です」
「味方するね」
「補食は貴重です」
白い束には、もっと短い言葉が並んでいた。
わたし。
こっち。
いや。
まだ。
あとで。
名前ではない。番号でもない。けれど人が人へ向けて出す、小さな声の形だった。制度の欄には入らない。入らないから、ここへ逃がされた。
灰色の束は冷たかった。
H-43。
出生許可台帳未同期。
中央育成原簿番号先行処理保留。
外呼称退避観察中。
事務の字だ。けれど紙の端には青い糸が通っている。冷たい言葉が青い糸で結ばれているだけで、少し息ができた。
「これ、隠したんじゃない」
「はい」
「逃がしたんだ」
くまはすぐには答えなかった。風が吹き、雨樋の雫が横へ流される。金属の縁だけが、中の紙を守っていた。
「逃がすには、箱が要ります」
「逃げるのに?」
「箱がない逃走は、散らかります」
それはそうだ。終末では、散らかると負ける。食べ物も工具も水も、紙も。まとめる。でも、見つかりすぎない場所へ置く。正式な棚ではない。雨樋下、箱四。講師卓三から見えない位置。
見えないほうが残ることもある。
わたしは服の内側から蝋引きの包みを出した。金属箱の横に、小さなくぼみがある。そこへ置くと、ぴたりとはまった。ここで開けるための包みだったらしい。
中から出てきたのは、薄い再生板と、小さな布袋。袋には乾いた種みたいな粒が入っていた。匂いを嗅ぐと、土と紙の匂いだけがする。
「食べ物?」
「植える寄りです」
「寄りってなに」
「食べないほうが未来に強いものです」
雨樋下の土を見る。箱の周りだけ柔らかい。水がここへ集まるよう、屋根も樋も傾いている。紙を守る場所で、何かを育てる場所でもあったのかもしれない。
再生板に指を置く。
最初は水音だけだった。ぽつ。ぽつ。今の雫と重なって、どこからが記録なのかわからない。やがて、ノイズの奥から講師の声が起きた。鼻をすすっている。
『箱四、退避確認』
『あお、雨天時、外呼称反応あり』
『番号呼称、反応遅延または拒否』
『拒否は失敗ではない』
『拒否できるなら、まだ残っている』
くまが黙った。
『中央育成原簿へ送る前に、外で呼ぶ』
『外で返事があるものを、欄がないという理由で消してはいけない』
『欄がないなら、欄の外に置く』
『欄外は叱られる』
『叱られる場所は、まだ人が見ている』
変な人だ。補食を食べ、傘をなくし、雨で転び、箱を見えないところへ置く。でも、その方法で残そうとしているものは、変ではなかった。
再生板の音が少し歪む。
『KM系列端末、同行補助として有効』
『返事を急がせない』
『待機音声に雑談混入あり』
『雑談は、反応維持に有効』
『ただし、九九を途中でやめるな』
「くま、九九やめたの?」
「記憶にありません」
「やめたんだ」
「八の段が疑わしいです」
胸の中の声が、少しだけいつもに戻った。わたしは小さく笑う。箱の中の紙が驚かないくらいに。
講師の声は最後に低くなった。
『箱四は、最終ではない』
『雨樋下から、流れるものを見る』
『水は低いほうへ行く』
『記録も、時々そうする』
『排水溝下、黒筒』
『鍵はない』
『かわりに、拾う手が要る』
ぷつ、と音が切れた。
わたしは箱の奥を覗いた。底の細い溝へ雫が落ち、水が外へ抜けていく。土を通り、低い石の縁へ。そこに、草と泥で半分隠れた排水口があった。丸い格子の下に、黒いものが見える。
「低いほうへ行く、か」
「物理です」
「記録も?」
「講師です」
わたしは青い束も白い束も灰色の束も、元の順番へ戻した。奥の黒い薄板だけ、表に文字が刻まれている。
外呼称退避写し。
持出可。
原本は箱四へ戻す。
講師が忘れた場合、拾った者が戻す。
「自分が忘れる前提だ」
「自己理解があります」
強いのか弱いのか、わからない。でも、自分が忘れると知っている人が、忘れたあと戻る道を作るのは、少しすごい。
薄板を乾燥布で挟み、服の内側へ入れる。かわりに蝋引き包みの外紙を小さく折って、箱の端へ置いた。
写し、借ります。
戻せたら戻す。
急がない。
金属箱を閉め、麻紐を三回返しで結び直す。外箱の蓋も戻した。閉めるほうが、開けるより簡単だった。残すための箱だからかもしれない。
排水口の格子へ傘骨を差しこむ。黒筒の紐を引っかけようとして、二度失敗した。三度目で切れ込みに入る。引くのではなく、少し持ち上げ、泥の吸いつきを外す。蓋を開けた時と同じだ。終末のものは、正面から力をかけると意地を張る。
黒筒が、ぬるりと動いた。
右手の指を格子へ突っこみ、紐をつかむ。冷たい泥が爪に入る。嫌だけれど、放すほどではない。ゆっくり引くと、黒い樹脂の筒が排水口から出てきた。
黒筒一。
流出防止用。
開ける場所ではない。
「また開ける場所じゃない」
「移動が好きです」
「急がないのに、移動は多い」
「講師です」
それで説明がつくのが悔しい。
筒の端には小さな矢印が刻まれていた。向きは庭のさらに低いほう。支柱の列が途切れ、土が石へ変わる場所。水が流れる道。記録が逃げた道。
わたしは黒筒を服の外側の紐へ結んだ。くまの頭を出すと、額の布が少し湿っている。
「大丈夫?」
「耐水ではありません」
「それは知ってる」
「でも、同行中です」
同行中。
北三の紙にあった言葉が、胸の中で小さく鳴った。呼ぶ人と、待つもの。返事をするものと、急がせないもの。箱四の中で、別々の紙が近いところに眠っていた。
わたしは箱四へ頭を下げた。
「借りていきます。ごめん。あと、ありがとう」
「謝罪と感謝の併用です」
「効率いいでしょ」
「人間的に雑です」
「雑は資源」
「講師語録です」
「今は採用」
風が吹いた。濡れた札が遅れて揺れる。箱四は閉じている。けれど、閉じたから終わりではなかった。閉じたことで、次の場所が見えた。
水は低いほうへ行く。
わたしも、黒筒の矢印を追って、濡れた石の道へ足を置いた。
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