風下の卓
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あおの札が揺れたほうへ入ると、庭は急に深くなった。
広さが増えたわけじゃない。紐の本数が増え、支柱の間隔が少しずつずれ、足元の土がきれいな道をやめただけだ。まっすぐ歩ける場所より、迷いながら進む場所のほうが、人には広く見える。しかも、ここにあるのは壁じゃなくて名前だった。擦れた紙片。細い布。樹脂の札。どれも風に引っぱられて、ほどけかけて、でもまだ支柱に残っている。
「あお、ひとつじゃないな」
青く褪せた札は、一本だけじゃなかった。少し先の支柱にも、さらに奥にも、同じ二文字がちらちら見える。字の太さが違う。紙の色も違う。誰かが何度も結び直したんだろう。
「かなり、継続しています」
「しつこいってこと?」
「よい意味のほうです」
わたしは最初の札へ指を伸ばした。紙は乾いて硬い。指先でつまむと、表面が少しだけ粉みたいに剥がれる。けど、結び目は新しかった。古い紙に、新しい糸。しかも結び方が、ほかの札と少し違う。二回巻いて、最後だけ三回返してある。
「くま、これ」
「講師結びです」
「そんな名前あるの」
「今つけました」
役に立つなら何でもいい。わたしは鼻で笑って、次の支柱を見る。そこにも青い札。そこにも三回返し。しかも、風下側じゃなく、いつも少しだけ左へ寄せて結んである。
「道だ」
「はい」
「名前で道を作ってる」
支柱の列は庭の奥へ、ゆるく曲がりながら続いていた。まるで、まっすぐ歩くと失敗することを、最初から知っているみたいな並び方だった。
その時、庭のどこかで、細い鈴を振るみたいな音がした。ひとつじゃない。何本も、ばらばらに鳴って、それから低い声が流れる。
『朝の結束確認を始めます』
『ゆるいものは、ゆるいまま飛びます』
『結び直しは自主性です』
「最後、嫌な施設だな」
「かなり、教育寄りです」
風向きが変わった。さっきまで頬を横になでていたのが、今度は庭の奥からまっすぐ戻ってくる。支柱のあいだを風が抜けるたび、札がいっせいに鳴る。乾いた紙が打ち合って、小さな拍手みたいな音になる。わたしの胸元でも、さっき結んだ仮の呼び方が、ひやりとした動きで揺れた。
「あぶない」
入口で結んだ『わたし』の紙片が、糸ごと半分ほどけていた。マフラーから抜いた糸は短い。短いものは、急いでいる時には助かるけど、長く残るのは苦手だ。
『ほどけた場合は、拾って結び直してください』
「言われなくてもそうするよ」
問題は、わたしの札だけじゃなかった。目の前の『あお』も、風に引かれて支柱から半分浮いている。このままだと飛ぶ。飛んだら、道が消える。
「どっち先」
「両方です」
くまが言う。
「かなり、人手不足です」
終末の町はだいたいそうだ。仕方ないから、わたしは仕方なくない顔でしゃがみこんだ。マフラーの端をもう一本裂く。次に、移送票の余白をほんの少しだけ切る。細く折って、札の裏へ当てる。柔らかい紙だけだと風に負けるけど、芯が入れば少し粘る。最後に、傘骨の先で結び目を押し込む。
まず『わたし』を結び直す。次に『あお』。三回返しを真似る。ひとつ、ふたつ、みっつ。見よう見まねでも、前より締まる。
風がもう一度まとまって吹いた。紙片が跳ねる。けど、今度は飛ばなかった。
「勝ち」
「かなり、手作業です」
「機械の町でいちばん信用できるやつ」
立ち上がると、少しだけ目の前が白くなった。空腹がちゃんと仕事を始めている。くまと一緒にいると、たまに忘れる。忘れるけど、体は律儀だ。
庭の脇に、低い管が一本だけ地面から出ていた。先端には小さな漏斗。下に、へこんだ金属皿。風で飛ばされなかった露か、夜の結露か、指先ひとつ分くらいの水が溜まっている。
「飲めるかな」
「庭なので、たぶん外寄りです」
「答えになってない」
でも、背に腹は代えられない。匂いを嗅ぐ。錆は少し、薬臭さはなし。指で舐める。冷たい。ただの薄い水だ。わたしは半分だけ飲んで、残りを手のひらで皿の底へ寄せる。
「おまえは?」
「気分として、いただきます」
「はいはい」
指先をくまの口の縫い目へちょんと当てる。ぬいぐるみは水を飲まない。でも、そうすると少しだけ満足そうな声を出す。
「かなり、潤いました」
「安い相棒だな」
道を追う。青い札は、ひとつずつ結ばれ方が違うのに、三回返しだけは揃っていた。講師が直したのか、あおが自分で真似したのかはわからない。でも、雑な世界で、同じ癖だけが残ると、そこに人がいる気がする。
支柱の列が途切れた先に、低い屋根が見えた。壁はない。四本柱。錆びた板屋根。下に、子ども用みたいに小さな机が三つ並んでいる。ひとつ目は天板が割れ、ふたつ目は脚が一本足りず、みっつ目だけがまだ立っていた。端にぶら下がった札が風で返る。
講師卓三。
「ほんとに卓だ」
「かなり、三です」
机の上には、妙なものが並んでいた。短い紐の束。木片に開いた穴。欠けた色鉛筆。濡れる前提みたいな蝋引き紙。小さな風見羽。授業なのか工作なのか、境目が最初からない。
天板の中央には、薄い円形のくぼみがあり、その横に手書きが残っていた。
外で残る呼び方を、ひとつ。
急がなくてよい。
飛ぶ前に、結び直すこと。
「ここ、北三よりずっと感じがいいな」
「注意書きが、かなり遅いです」
「遅い?」
「急がせていません」
それは、わかる気がした。北三は答えを急がせた。ここは失くす前提で、結び直すほうを先に書いてある。
わたしは卓三へ近づいた。机の脇に、小さな引き出しがある。鍵穴の代わりに、切れ込みがふたつ。札を差す溝だ。ひとつには何も入っていない。もうひとつには、青い紙の切れ端が半分だけ残っている。
「あおの席か」
「はい」
くまの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「かなり、並んでいました」
「おまえと?」
返事はすぐ来なかった。そのかわり、くまの胸の星が弱く明るくなる。壊れかけの機嫌のいい時とも、考えている時とも違う光り方だった。忘れていたものの輪郭だけ、先に光るみたいな。
「外で呼ぶ練習です」
くまが言う。
「たぶん、ここで」
「部屋の外で、返事が遅くてもよい場所」
その瞬間、風見羽が回った。机の下で、かち、と小さな音がする。引き出しが自分から少しだけ開いた。
「え」
「かなり、近づきました」
中に入っていたのは、紙束じゃなかった。薄い再生板が一枚と、乾いた小袋がふたつ。袋には古い印字。
屋外観察補食。
よく噛む。
走る前は半分まで。
「講師、好きかもしれない」
「かなり、同意です」
わたしは袋をひとつ開けた。固い。甘くない。穀物をなんとか四角くしただけみたいな味。でも、噛むと腹の底へ少しずつ落ちていく。おいしくないものがありがたい時は、本当に困っている時だ。
再生板へ触れると、すぐに声が起きた。あの、疲れているくせに熱のある声。
『卓三、観察追記』
『あおは、風下だと返事が少し早い』
『くまは、待てる』
『待てるものが隣にいると、返事は急がなくてよくなる』
『よって、外では並べておく』
少しだけ間。
『あと、補食を勝手に減らさないこと。講師も食べる』
「最後で毎回落ちるなあ」
「かなり、安定しています」
でも、その前の言葉は、ちゃんと残った。
待てるものが隣にいると、返事は急がなくてよくなる。
庭の風が机の下を抜け、引き出しの中の青い切れ端を揺らした。よく見ると、それは札じゃなく、札の裏打ちに使った蝋引き紙だった。表には何もない。裏にだけ、鉛筆の跡がかすかに残っている。
わたしは角度を変え、光へかざした。
西、という字が見えた。次に、棚。最後は途中で擦れている。
「くま。これ」
「西端です」
「たぶん、結び直し棚」
「雨のやつか」
机の脇、板屋根の柱にも細い書き込みがあった。爪で引っかいたみたいな浅い字。
晴れは風下。
雨は西。
ほどけたら、先に拾う。
「講師、わかりやすいな」
「かなり、叱られやすい人です」
遠くで、また鈴の音が鳴った。今度はさっきより強い。庭のどこかで、結束確認が次の列へ進んでいるんだろう。支柱どうしが触れ合い、札の森がざわっと揺れた。
わたしは残りの補食を半分だけしまい、再生板を元の位置へ戻した。全部持っていくのは違う気がした。こういう場所は、持ち出すより残したほうが、あとで効くものがある。
「西端、行けそう?」
「空腹の人間だと、一回休みです」
「さっきよりましになったな」
「補食の効果です」
卓三の横を離れる前に、わたしは引き出しの青い切れ端を指で押さえた。飛ばない程度に。残る程度に。
部屋の中で記録されたものより、外で何度も結び直されたもののほうが、なんだか信用できる。消えかけているくせに、消えないための手つきが残っているからだ。
「あお、西か」
「はい」
「講師も、たぶんまだその先だな」
「かなり、外へ続いています」
わたしは卓三を振り返った。低い机。欠けた鉛筆。紐の束。誰かを急がせないための補食。変な場所だ。変な大人の机だ。だから少しだけ、好きになってしまう。
風が吹く。庭じゅうの札がまた鳴る。その中で、どこか西のほうから、紙じゃない音が混じった。木が軽く打つ音。棚の扉が揺れた時みたいな、薄い乾いた音。
「聞こえた?」
「はい」
くまが言う。
「かなり、棚です」
「じゃあ次は、結び直す場所を拾いに行こう」
わたしたちは講師卓三をあとにして、札の森の西へ向かった。風下から外れたぶん、道は少し歩きにくい。でも、歩きにくいほうへ残してあるものもある。
この庭は、たぶんそれを知っている。
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