逃げる記録の行き先
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
赤い線が消えた先は、通路というより、保存庫が人に見せたくない腹の中だった。
棚のざわつきが急に途切れる。代わりに聞こえるのは、細い金属が擦れる音と、どこか遠くで低く回る送風機の唸りだけだ。灯りも青じゃない。薄い赤。紙に優しい色なのか、人に優しくない色なのか、今のところ後者だった。
通路の角に、小さな札が斜めに出ていた。
別置架。
監修保管。
手動閲覧は一件ずつ。
「感じ悪いな」
「かなり、親切のふりです」
その先は、床が少しだけ抜けていた。穴じゃない。低い円形の井戸みたいな作りで、縁の下を浅い箱がゆっくり回っている。ひとつずつ、順番に。箱の側面に細い札。青いのもあれば、赤いのもある。赤はだいたい、急いでいる時の色だ。
井戸の手前には、子ども用みたいに低い閲覧台があった。脇へ、足こぎ機。前に見た講師卓の横についていたやつに少し似ている。雑に流用したんだろう。町はだいたい、ひとつ便利な形を見つけると、ぜんぶそれで済ませようとする。
「またこぐのか」
「人力は、かなり信用されています」
「機械の町のくせに」
わたしは足こぎ機へ片足をかけた。冷えた鉄が靴底越しに硬い。腹は減っている。膝も少し笑っている。でも、ここで待つ気はなかった。待てば順番になる。順番になれば、だいたい向こうの都合で終わる。
くまが低く言う。
「講師追記群を前へ出せば、理由札が見えます」
「一件ずつ、ってそういうこと」
「はい」
少し間。
「逃がす時も、名札は捨てません」
それは、かなりこの町らしい嫌さだった。
わたしはペダルを踏む。最初は重い。二度、三度と回すと、井戸の下で箱がことり、ことりと位置を変えた。閲覧台の前にひとつ、浅い箱がせり上がってくる。札の文字が赤い灯りに擦れて、それから読めた。
湿度補記。
紙片破損。
昼食券紛失苦情。
「違う」
「講師らしいですが、違います」
もう一度踏む。腿が嫌がる。塩糖片を半分だけ噛むか迷って、結局噛んだ。甘さと塩が舌に乗る。おいしいじゃない。動け、と体が思い出す味だ。
箱がひとつ過ぎ、ふたつ過ぎる。三つ目で、くまの声が少しだけ強くなった。
「それです」
せり上がってきた箱の札には、きっちりした事務文字でこうあった。
講師追記群。
返却停止願添付分。
監修保管優先。
「ようやく会えた」
箱の蓋は半分だけ開き、中には薄い再生板が数枚、ずれないよう帯で留められていた。閲覧台の音口が自動で起きる。すぐに、あの疲れているくせに妙に熱い声が流れた。
『追記。部屋の中でだけ通る呼び方は、廊下で折れる』
『外で残るものを、先に残したい』
『雨の日は、呼び方が少し近い』
『あと、保管庫の傘はいつも足りない』
「最後でだいぶ下がるな」
「かなり、継続して人です」
次の板が勝手にめくれ、また講師の声になる。
『補足。KMは、返事を急がせない』
『返事が遅い子は、遅いまま外へ出る練習がいる』
『室内でだけ整う子を、整ったことにしない』
『そういう庭が必要だ』
庭。
その単語だけ、やけに浮いた。北三保存庫の冷えた空気に合わない。ここは全部、乾かして、並べて、待たせる場所だ。庭なんて、逆だ。
わたしが眉を寄せた、その時だった。
閲覧台の下で、短い警告音が二つ鳴る。赤い灯りが一度暗くなり、次に強く戻った。井戸の下で回っていた箱が、一斉に少しだけ速くなる。
整合性警告。
講師追記群 参照中。
退避先照合を開始します。
「嫌な音」
「かなり、面倒が前向きです」
閲覧台の表示が、ぱちぱちと切り替わる。事務的な女の声が、慌てもせずに告げた。
『監修権限残留を確認』
『現置架では整合性が保てません』
『講師追記群を、指定監修先へ緊急移動します』
「待て」
わたしは思わず言う。
「今見てる」
『見ていても、移動します』
「正直だな」
井戸の縁から、細い機械腕が一本だけ伸びてきた。せり上がった箱を掴み、ゆっくりと持ち上げる。乱暴じゃない。でも、絶対に止まらない動きだ。こういうのが一番腹が立つ。
箱の底で、薄い紙が一枚だけふわりとずれた。移送票。あれを逃したら、次の行き先が紙の向こうへ沈む。
「くま、止められる?」
「止めるより、吐かせます」
「何を」
「行き先です」
くまの星が弱く光る。閲覧台の窪みへ胸を押し当てるみたいに近づけると、表示が一瞬だけ乱れた。
指定監修先。
照会補助あり。
移送票を出力します。
「えらい」
「かなり、紙好きです」
小さな差し口から、感熱紙が細く吐き出される。遅い。いらいらするほど遅い。機械腕はそのあいだにも箱を持ち上げ、赤い搬送路へ乗せていく。わたしは紙と箱を交互に見た。どっちも欲しい。欲しいけど、人間の手はふたつしかない。
吐き出された紙を掴む。まだ熱い。文字を目で追う。
緊急移送命令。
講師追記群。
移送先 南七特別監修施設。
区画 外呼称観察庭。
最終監修卓 講師卓三。
理由 監修権限残留/現置架不適合。
「庭だ」
声に出る。終末の町で、その字面だけが妙に風通しがいい。
機械腕が箱を搬送路へ置く。赤い札が揺れ、講師の声が最後にひとつだけこぼれた。
『規則は部屋で書ける』
『外で残るかは、外でしか見えない』
それで、箱は行った。赤い線の先。もっと奥か、もっと南か。少なくとも、今のわたしの手が届く場所じゃない。
しばらく、機械の走る音だけが残る。
「講師、保存庫の人じゃなかったんだ」
「はい」
くまが言う。
「たぶん、外へ持ち出す人です」
「外呼称観察庭」
移送票をもう一度見る。
「名前からして、だいぶ信用できないな」
「庭は、かなり天気に左右されます」
「施設の欠点じゃなくて天候を出すんだ」
でも、少しだけ笑えた。腹が減って、喉が渇いて、足も重い。そのくせ、行き先が庭だと言われると、町の中の空気がほんの少し動いた気がする。北三保存庫は冷えすぎていて、記録はきれいすぎた。ここから先が外寄りなら、たぶんもう少し殴りやすい。
頭上の表示が、また赤から青へ戻る。
手動閲覧は終了です。
次の一件をどうぞ。
「やだね」
わたしは足こぎ機から降りる。
「次はそっちの庭でやる」
「かなり、予定変更です」
「最初から予定なんてなかったよ」
移送票を服の内側へしまう。熱がまだ少し残っていて、心臓のあたりへ薄く貼りつく。名前。返事。外で残るもの。講師はたぶん、そういうのを制度の外へこぼすために、わざと叱られていた。
くまを抱え直す。胸の星は弱い。でも、今は前より静かに光っていた。壊れかけのくせに、行き先が見えると少し機嫌がよくなる。燃費の悪い相棒だ。
通路を戻る。棚のざわつきがまた近づいてくる。記録の図書館は相変わらず静かにしているとよくしゃべった。
『本日の順番変更は一件です』
『理由は、たぶん人です』
「聞こえてるぞ」
『聞こえるように言いました』
「北三、ほんと感じ悪いな」
「かなり、嫌いではありません」
「わたしも」
それがいちばん腹立たしい。嫌な仕組みのくせに、たまに人の手だけ残してくる。そういう場所は、簡単に捨てられない。
受付の低いモニターを抜けるころには、冷えた空気の向こうに夜明け前みたいな薄い白さが戻っていた。外はたぶん、まだ腹の減る世界のままだ。でも今は、腹が減るだけじゃない。行き先がある。
南七特別監修施設。外呼称観察庭。講師卓三。
「遠い?」
「かなり、南です」
「雑だな」
「でも」
くまが少しだけ間を置く。
「外です」
わたしは扉の向こうの空気を吸った。北三保存庫の冷たさより、ずっとまずい。ずっとまともだ。
「じゃあ行こう」
わたしは歩き出す。
「部屋の中でだけ残る話は、もう充分聞いた」
「はい」
「次は、外で残ったやつを拾う」
北三保存庫は背中の後ろで、また順番を回し始める。紙を並べる音。待たせる音。逃がす時だけ少しだけ正直になる音。
ああいう町だから、たぶんまだ残っている。
名前のほうが先に歩く場所が。
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