紙より先の返事
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけると幸いです。
西管理線一番の裏面保守路は、日が落ちると道じゃなくなる。
壁の白さだけが残って、地面のほうが先に夜へ入る。ひび割れた舗装の上を、低い保守台車が音も薄く通っていく。風は冷たいのに、腹はぜんぜん静かにならない。空腹って、暗くなると少しおとなしく見えるだけで、中身は相変わらずうるさい。
わたしは壊れた搬送枠の陰へしゃがみこみ、裏面搬入口の青い線を見ていた。
一台。
二台。
三台。
どれも荷は浅い。布束。封緘箱。細い紙箱。泣かないものばかり、きっちり順番で運ばれていく。
四台目で、くまが小さく言った。
「来ました」
いちばん後ろの浅箱に、見覚えのある青打刻があった。
統合保管移送。
西管理線一番。
夜間保守便。
昼にわたしが押したやつだ。雑に押したくせに、字だけはきっちり生きている。
「紙ってしぶとい」
「人の都合より、かなり長持ちです」
「そこは勝ってほしくないな」
浅箱はほかの荷と一緒に搬入口へ吸われていく。今ここで奪えば、目立つ。中へ入ってからなら、順番の顔をしたまま触れる。嫌だけど、それがいちばんましだった。
搬入口の脇に、濡れ布用の台車が寄せてある。昼に見たのと同じ形だ。網の枠。細い車輪。半透明の防滴覆い。わたしはそれを引き寄せ、袋を奥へ押しこんだ。くまの片目だけがこちらを向く。
「また掃除のふり?」
「今日は保守のふり」
「掃除よりえらそう」
「かなり、態度がよくありません」
丸札もまだあった。立入後回し。好きな言葉である。台車の前へぶら下げ、濡れ布を一枚だけ上へ垂らす。面倒そうな見た目は、通る資格になることがある。
青い線が走る。搬入口が開く。前の荷が入った隙へ、わたしは台車ごと滑りこんだ。
中は冷えていた。紙のための冷え方だ。喉にはきついのに、箱と壁は機嫌がいい。床の溝に沿って浅箱が流れ、低い照会卓の前で一台ずつ止まる。職員は見えない。今は機械の時間らしい。
わたしは濡れ布の陰から前を見る。
布束。通る。
封緘箱。通る。
うちの浅箱が止まる。
照会卓の表示が起きた。
H-43
呼称補助例外あり
仮統合前最終照会
「止まった」
「例外は、ときどき親切です」
卓の下から、丸い会話孔がせり出してくる。やわらかい声が鳴った。
『さいごの こしょうを かくにんします』
「こしょう」
「呼称です」
くまが低く言う。
「壊れています」
「おまえが言うと説得力あるな」
表示が続く。
同行端末がある場合
先に へんじを つないでください
わたしは息を止めた。
「くま」
「はい」
「やれる?」
少しの沈黙。布の奥で、胸の星が弱くひとつだけ返る。
「できます」
「ただし、古い返事です」
「古くても使えればいい」
「使うと、少し剥がれるかもしれません」
その言い方は、寒い場所より嫌だった。わたしは会話孔を見る。低い。子どもの膝くらいの高さ。しゃがんだまま返事を待つ穴だ。
わたしは袋へ手を入れ、くまを出した。軽い。軽いくせに、今は妙に重かった。
「剥がれたら困る?」
「何が落ちるか、わかりません」
「じゃあ別案」
周りを見る。照会卓。差し込み口。荷札溝。隣の作業棚。そこに、細い封筒差しがあった。仮統合前添付書類。札がついている。数枚刺さったままの薄紙のいちばん上を抜く。
返却停止願。
継続同行希望。
講師追記添付欄あり。
「あるじゃん」
「かなり、昔の抜け道です」
「抜け道っていうか、残した手順だね」
服の内側から、未送付の封筒を出す。朝に拾ったやつ。角はもう少し汗を吸っている。中の紙を抜き、添付欄へ重ねる。字が透ける。
当人は番号より先に呼ばれる必要がある。
その一行の下に、子どもの字も透けた。
くまは おへやのそとでも くまだよ
喉の奥が少しだけ熱くなる。終末のくせに、たまにこういう字が残っているから困る。困るけど、助かる。
『こしょうを かくにんします』
会話孔がもう一度言う。急かし方までやさしいのが腹立たしい。
わたしは添付紙を差しこみ、くまの胸を入力面へ当てた。
「つなぐだけでいい」
「返事は、わたしが持つ」
「はい」
卓が短く鳴る。
添付あり
講師追記あり
呼称入力を受け付けます
指先が少し冷える。
「あお」
言う。小さくなく、でも広げすぎず。紙へ書かれていたときと同じくらいの強さで。
一拍おいて、くまが返した。
「はい」
その一音だけだった。短い。掠れている。けれど、今まででいちばんまっすぐだった。
卓の表示が変わる。
外呼称保持補助 確認
継続同行端末 KM
返却停止願 受理待ち
「待つな」
「最後があります」
表示の下へ、青い選択窓が三つ開く。
仮統合。
原紙照会。
継続保守。
わたしは迷わない。継続保守を押す。照会卓の内部で打刻音がひとつ鳴る。浅箱の札へ、新しい緑線が走った。青の上へ重なって、少しだけ濁った色になる。
継続保守。
返却停止願添付。
再引渡判定対象外。
そこでやっと、胸の奥の固いところが少しゆるんだ。
「消えた」
「はい」
くまの声は細いけど、ちゃんと笑っているように聞こえた。
「六時十分から、かなり消えました」
照会卓の脇から、細い感熱紙が吐き出される。受理控だ。わたしが取るより先に、奥の扉の向こうで靴音がした。
職員。
「しまった」
浅箱はもう次の溝へ流れ始めている。継続保守の列。ここで消えるなら十分だ。でも控えは欲しい。次に繋ぐ紙は、持てるなら持っておいたほうがいい。
わたしは感熱紙をひったくり、台車を引く。濡れ布が床を擦る。職員の影が角を曲がる。
「ん?」
疲れた声がする。
「今、最終照会、誰が……」
わたしは反射で、立入後回しの丸札を高く揺らした。
「保守」
自分でもびっくりするくらい雑な一言だった。
影が止まる。相手は濡れ布と台車とわたしを順に見た。たぶん、見たくないものを見る順番だ。
「こんな時間に?」
「昼の統合、例外混じってた」
控え紙を半分だけ見せる。
「継続保守へ引き直し」
疲れた顔の人は、紙より先に札の色を見た。緑線。継続保守。朝の判定対象外。嫌な町では、その色がだいたいいちばん強い。
「……ああ」
その人が小さく息をつく。
「じゃあ主照会じゃなくて、横の保守棚な」
「うん」
子ども扱いの返事だったけど、今は通れば何でもいい。
相手はそれ以上こっちを見ず、別の浅箱へ手を伸ばした。人手が足りない町は、疑う前に次を運ぶ。助かるけど、ろくでもない。
角を曲がる。保守棚の並ぶ低い通路へ入る。そこで初めて、わたしはしゃがみこんだ。膝が遅れて震える。腹が減っていると、安心も足から来るらしい。
「終わった?」
「再引渡判定は、終わりました」
くまが言う。
「かなり完全に」
「よし」
袋へ戻そうとして、手が止まる。くまの片目は開いているのに、胸の星がほとんど返らない。
「おい」
「います」
「古い返事、やっぱり削れた?」
少し間があった。遠くで紙の擦れる音がする。保守棚の冷気が指へしみる。
「少しだけ」
「でも」
掠れた声が続く。
「今の『はい』は、古いものではありません」
意味がわかるまで、一秒かかった。
「あおに返したのと、違うってこと?」
「はい」
「今のは、あなたに返しました」
そういうことを、電池の切れそうな顔で言うのはずるい。ずるいけど、助かる。
わたしはくまを袋へ戻さず、そのまま胸へ抱えこんだ。布越しにまだ冷たい。けれど、さっきより軽くない。
「じゃあ、剥がれても少しは増えたね」
「収支が不明です」
「生きるってだいたいそうでしょ」
保守棚のいちばん端に、継続保守の受理箱がある。浅い。中には封緘済みの細箱と、添付控が数枚。うちの浅箱ももうそこへ着いていた。札の緑線はちゃんと見える。仮統合じゃない。朝のベルトコンベアじゃない。待たせる仕組みの外れた場所だ。
わたしは感熱紙の控えを開く。
H-43
E4-206-1
返却停止願 受理
照会先更新済
再引渡判定対象外
上位原簿照会先 中央育成原簿補助庫
その下に、もっと小さい字。
北三保存庫経由
六番中央照会へ
「出た」
「次ですか」
「うん。かなり次」
北三の先。六番中央照会。嫌な名前がまた増えた。でも今度は、ただ追われるんじゃない。こっちから行く手がかりだ。
遠くで、さっきの疲れた声がまたぼやく。
「今夜、例外多くないか……」
多くしたんだよ、と思う。心の中でだけ。
立ち上がる。腹は減っている。喉も乾いた。足の裏はもう砂と冷えで変な感じだ。でも、六時十分はもうこっちの敵じゃない。
「行こう、くま」
「はい」
「次は北三経由、六番」
感熱紙を畳んでしまう。
「紙に追いかけられるんじゃなくて、紙を追い越す」
袋の中で、布が小さく鳴った。
「かなり、あなた向きです」
「おまえもね」
裏面保守路へ戻る。夜はもう深いのに、白い棟だけがまだ起きている。きれいな顔で、順番を回し続けている。けど、その順番からひとつ外した。小さい。雑。けれど、十分だ。
番号になる前の呼び方が、今夜ひとつだけ勝った。
それなら、次もたぶん殴れる。
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