呼ばれる前の棚
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北へ向かう道は、朝のくせにもう乾いていた。
夜明けの白さはやさしく見えて、だいたい役に立たない。日が少し上がるだけで、町はすぐに硬くなる。割れた舗装の照り返し。低い建物の壁から返る熱。服の内側へしまった紙まで、だんだん体温じゃない熱を持ち始める。
わたしは胸のあたりを押さえながら歩いた。返却停止願。複写。未送付の封筒。軽い紙ばかりなのに、持っていると姿勢が少し慎重になる。
「くま」
「はい」
「北三って、遠く感じるほう?」
袋の中で布が擦れた。
「空腹時は、全部遠いです」
「正確だなあ」
「褒められました」
褒めてないけど、訂正する元気は節約した。
西二から北へ抜けるあいだに、町の顔がまた変わる。居住棟の低い窓が減り、かわりに、窓のない箱みたいな建物が増えた。壁は白じゃなく灰色。塗り直しの下から古い番号が透けていて、どれも人に見せるための顔をしていない。
配管だけが元気だ。太い管が建物と建物を渡り、ところどころで細く息を吐いている。吐いた息は白くならない。ただ、周りの空気だけ少しひんやりする。
「冷えてる」
「保存区画ですから」
「紙ってえらいね」
「人より冷やしてもらえる」
「人は勝手に増えたり減ったりしませんが、紙は減ると困るので」
「そこ、逆だと思うな」
でも、この町はそうじゃないのかもしれない。そう思うと、背中の汗が急に気持ち悪くなった。
北三保存庫は、広場の向こうにあった。
広場といっても、休むための場所じゃない。低い台車を回すためだけに四角く空けた地面だ。線が引かれ、矢印が残り、角には倒れた案内板が集められている。真ん中を横切れば早い。でも早い場所は、だいたい見つかりやすい。
保存庫の正面には、低い門と短い通路がついていた。通路の天井には細い噴出口が並び、その奥で三枚羽の送風機が止まっている。扉の上の表示はまだ生きていた。
入庫前除塵
保存票を示してください
紙片露出に注意
「露出に注意、だって」
「かなり、あなた向きではありません」
「おまえもね」
正面の脇に、保守台車が二台止まっていた。どちらも荷台は浅く、上に網蓋がついている。風で紙が飛ばないようにする形だ。少し離れた日陰には、巡回用の細い二輪車までいる。ひとがいる気配はない。でも、いない場所ほど勝手に通ると怒る。
わたしは広場の端まで下がり、崩れた掲示板の陰へしゃがんだ。喉が乾いていた。水筒を振ると、底で少しだけ鳴る。少しだけ、がいちばん嫌いだ。ないより困る。
「どうする」
「正面は、通れなくもなさそうだけど」
「風で飛びます」
「紙が?」
「紙も、あなたの嘘も」
嫌な言い方をする。正しいから余計に嫌だ。
門の左側を見ていると、配管の下に水の筋があった。壁から落ちた雫が、細い溝へ集まっている。地面はそこだけ色が濃い。近づいて指で触る。冷たい。薬品の匂いは薄い。保存庫の冷却で出た結露だ。
わたしは指先を舐める。まずくない。おいしくもない。かなり救い寄りだ。
「飲める」
「紙は湿度に弱いです」
くまが言う。
「なので、湿ったものは別口で入ります」
「うん?」
「乾いた紙は、正面です」
「濡れた布は、横です」
わたしは結露の筋を追う。溝は門の横を回り、建物の側面へ消えていた。そっちへ回る。灰色の壁に沿って、細い保守路が続いている。人ひとりと台車ひとつでちょうどいっぱいになる幅だ。
角を曲がると、あった。
横手の低い扉。半分開いたままの清掃庫。脇には、濡れた布を吊るす棒と、車輪のひしゃげた掃除枠。扉の上の札は斜めになっている。
湿式清掃搬入口
除塵通路は通りません
「ほんとに横だった」
「紙にやさしい設計です」
「人には?」
少し間があって、
「用途外です」
だよね、と思う。
清掃庫の中は、冷えた金属と古い洗剤の匂いがした。棚に、使いかけの布束。欠けた桶。柄のないモップ頭。端に、小さな防湿包みが積んである。中身は乾燥剤かと思ったら、違った。塩糖片。保存作業者用、と小さく印字されている。
「宝だ」
「かなり人間向きです」
一袋だけ破り、半分を口へ入れる。塩と甘さが一緒に来る。おいしいというより、体が急に思い出す感じだった。膝の裏に少しだけ力が戻る。残り半分は袋の口へ押しこみ、くまの横へ入れた。
「おまえ食べないけど、景色として置いとく」
「共有感が出ます」
「それ」
喉へ結露水を二口落としこみ、わたしは棚を探る。使えそうなのは、細い金網の枠と、濡れ布をかける防滴覆いだった。前が半透明になっている。顔を隠すほどじゃない。でも、荷の形はぼやける。
「これで行くか」
掃除枠の上へ袋を置き、その上から防滴覆いを被せる。服の内側の紙は、先に清掃庫の隅にあった古い蝋引き封筒へ入れ替えた。湿気は敵だけど、風で飛ぶよりましだ。胸へ戻すと、少しひやりとする。
くまが低く言う。
「右側に、通行札があります」
見れば、壁の釘に丸札が三枚ぶら下がっていた。
清掃中
乾燥前
立入後回し
「立入後回し、好き」
「態度が悪いです」
「生存向きって言って」
丸札を掃除枠の前へ結び、濡れ布を少し垂らして見た目をもっと面倒くさくする。人は、きれいなものには近づくけど、濡れて面倒そうなものは後回しにしがちだ。機械も、たぶん少し似ている。
搬入口の先は短い通路で、床だけがゆるく下っていた。正面の除塵通路みたいな送風はない。かわりに、天井からぽつぽつ結露が落ちてくる。車輪を押すたび、濡れた床が小さく鳴る。
通路の終わりで、低い認識板が光った。
湿式搬入確認
清掃票を示してください
「そこは雑に通してくれないのか」
「制度は、入口でだけ勤勉です」
わたしは丸札の「立入後回し」を板の前で揺らした。だめかと思った瞬間、認識板の表示が一度乱れた。
湿式搬入確認
後回し処理を受理
通路優先度 低
「通った」
「かなり雑に」
「今日そればっかだな」
内扉が開く。冷気が一段濃くなる。
中は、紙のための廊下だった。
壁の色は灰色のままなのに、空気だけがきれいすぎる。埃が見えない。床には細い溝が走り、ところどころに低い作業卓がはまっている。棚は全部扉つきで、外から中身が見えない。そのかわり、扉ごとに小さな札が出ていた。
受入簿
保守票
居室移行前控
前受入記録
呼称補助例外
最後の札で、わたしは手を止めた。
「くま」
「はい」
「今なんて」
「呼称補助例外、です」
「あるんだね、そういう棚」
袋の中で、布がほんの少し動いた。
「ある、のだと思います」
「私は、たぶんその棚の側です」
言い終わるころには、あいつの声はまた少し擦れていた。思い出すたび壊れる機械なんて、燃費が悪い。けど、そういうのを雑に使い捨てる町はもっと嫌だ。
作業卓の上に、今朝の仕分け束が積んであった。糸で軽く留めただけの薄紙。いちばん上の見出しを読む。
北三保存庫 前受入記録班
午前仕分
未同期束優先
午後焼却選別あり
「焼くんだ」
「はい」
「紙をそんな大事にしてるくせに?」
「残す棚と、消す棚は別です」
その答えがあまりに自然で、わたしは一瞬だけ喉の奥が詰まった。
束をめくる。東四棟二〇六の番号を探す。数枚目で、見つかった。
E4-206-1
継続同行端末 KM
返却停止願 未送付原紙あり
呼称使用例外 前受入継続
照会先 地下二・前受入記録班
その下に、小さく補記がある。
出生許可台帳未同期者については
居室番号付与前紙票を参照
番号付与前。
わたしはそこを親指でなぞった。紙の繊維がざらつく。番号になる前の紙。部屋に入る前の紙。たぶん、呼ばれ方がまだ番号に負けていないころの紙だ。
「地下二だって」
「かなり、下です」
「見ればわかる感想ありがとう」
でも、その一行だけでも来た価値はあった。北三保存庫は、ただ古い紙を冷やしているんじゃない。番号を付ける前のものと、付けたあとで邪魔になるものを、分けてしまっている。
そのとき、廊下の向こうで金属の軽い音がした。車輪。ひとつじゃない。二台。近い。
わたしは束を戻し、掃除枠ごといちばん近い作業卓の下へ押しこむ。床が冷たい。濡れ布の端から、廊下の下半分だけが見える。
台車が止まる。ひとの靴もある。ひとり。女とも男ともつかない、疲れた声がした。
「未同期束、先に下へ」
「午後の焼却選別までに、地下二で引いて」
別の、機械の声が返す。
『前受入記録班、午後四時閉架予定です』
「閉めるの早いな」
「人手がないんだよ」
人手がないのに、消す手順だけはちゃんとある。
台車がまた動く。網蓋の擦れる音。ちらりと見えた荷札に、見覚えのある文字が混じっていた。
E4-206-1
原紙照会
「持ってく」
「はい」
くまの声が、すぐ耳のそばに落ちる。
「今なら、下り口の扉が開いている可能性があります」
「可能性かあ」
「今は、だいたい全部そうです」
前にも聞いた。嫌いだけど、助かる言い方だ。
台車の音が角を曲がる。わたしは卓の下から這い出し、胸の封筒を押さえ直す。塩糖片の袋が服の中で小さく鳴った。さっきより足に力がある。冷たい空気のせいだけじゃない。
廊下の先、作業灯の下に、半開きの扉が見えた。札は簡単だ。
地下二
前受入記録班
関係票を持って降りてください
「持ってる」
「かなり、盗んでいます」
「拾ったんだよ」
「番号になる前のを、先に」
扉の隙間から、もっと冷えた空気が上がってくる。紙と糊と、長く誰も開けなかった箱の匂い。その下に、ほんの少しだけ、子ども向けの甘い消毒液みたいな匂いが混じっていた。
嫌な匂いなのに、遠い。
わたしは扉へ手をかける。
番号になる前の棚があるなら、そこを見たい。見てしまえば、たぶんもう戻れない。でも、戻れないものは今までだって拾ってきた。
「くま」
「はい」
「下、行くよ」
少しだけ間があって、あいつは答えた。
「同行します」
それで十分だった。冷えた取っ手を引き、わたしは北三保存庫の下へ降りる。上では紙を守る風が鳴らずに回り、下では、呼ばれる前の何かがまだ残っている。そんな気がした。
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